枝川みつ
(1917−2000)

満開の桜の下の墓参

 今年の東京の桜は早かった。3 月 26 日の開花と予想されていたはずであった。それなのに、25 日の日曜に、図書館へ行こうと思い、近くの公園を通り抜けたら、もう三分咲きぐらいになっているのを知り、愕然とした。
 気勢をそがれ、お花見の意欲が失せた。それでも、次ぎの金曜には、とにかく隅田川の向島土手までは出かけた。満開も満開で、花同士が重なり合って群れ咲いている。しかし、ゴール寸前のマラソンランナーたちを見るみたいに味気ないものであった。寒かったせいもあったのだろうが、なんだか上の空で帰ってきた。
 それから 3 日後の月曜、ぼくは千葉県の松戸にいた。このあたりの桜は、東京に比べて若干遅いらしく、ちょうど満開であった。よく晴れた日で、目にまぶしい花々である。老人ホームの遠足に遭遇する。お年寄りたちは、芝生に敷きのべた青いシートに座ったり、車椅子のままその周りを囲んだりしている。制服の女性たちが、簡易トイレを設置し、そこにテントを張っている。
 ここは東京都が経営する共同墓地である。ぼくは親族と一緒に墓参に来ていた。母が死んで 1 年あまりが経った。
 母が生きているときは、春と秋に、連れだって墓参をするのが習慣になっていた。たいていは親族が一緒だったが、ときにふたりだけでやってくることがあった。母との最後の墓参はふたりきりであった。墓地を出て、いつもの通り、長い並木道を歩いて戻り、いつもの寿司屋に入った。ビールを飲みお寿司を食べるという、何年にもつづいていることを、このときも繰り返した。
 それから半年経たない真冬の寒い朝、母は、ぼくの目の前で倒れ、入れ歯をカチカチさせながら、数分で事切れた。83 歳であった。
 満開の桜の下の墓参を終えて、ぼくたちは、同じ寿司屋でお寿司を食べた。ビールに、他の人はほとんど手をつけず、結果、ぼくひとりで飲み尽くしたようなものであった。母がいないとこうなってしまう。母は、ビールが大好きであった。ひとしきり、酒好きの母親の話題が一座を巡った。
 最寄りの駅で別の方向へ帰る親族と別れ、空いた電車に乗ると、ビールの酔いがまわったらしく、座ってほどなく居眠っていた。読みさしの文庫本を床に取り落としてしまい、あわてて拾い、また眠った。
 書物というものにはじめて魅かれたのは小学校一年生のときだったと思う。ある日の昼下がり、ぼくは母に一冊の本を差し出し、これを読んでくれとねだった。それは『十五少年漂流記』であった。ハードカヴァーの感触をいまでも憶えている。ページを繰ると、荒海を漂う船と、必死の面持ちの少年たちの挿し絵がある。おもしろそうな気がするけれど、文字が読めない。そのことに苛立っていた。
 母が読み聞かせる冒険譚は、耳に心地よく、胸躍った。
 母自身、本好きの子として育った。東京・本郷にあった佐藤高女の生徒(冒頭に掲げた母のポートレートは、この学校の卒業アルバムに見つけたものである)だったころは、放課後、上野公園の図書館に毎日のように通ったという。
 家には本がたくさんあった。文字をおぼえるにつれて、ぼくはそれらを片っ端から読んだ。本に飽きるとラジオが待っていた。小学生のころにはまだ、テレビがなかった。ラジオから聞こえてくる、野球、英会話、ニュース、落語、講談、浪花節、歌、なんにでも耳を傾けた。わからなくても聞いていた。好奇心だけが頼りであった。浪曲師の口真似をして、祖母にはよく笑われた。
 母は、なににかぎらず、子どもの行動についてあれこれ言うことは一切なかった。そして、子どもの求めには、いつどんなときでもすぐに応じた。やがてぼくたちが長じると、子どもに対してなにかを求めることをまったくしなかった。ひとりで暮らし、ひとりで始末をつけて死んでいった。
 あの冬の日、息をしなくなった母を、救急車が近くの病院に運んだ。医師はすぐに死亡を確認した。看護婦から、「息子さんですか。私たちは、これからお母さんの身体を洗わせていただきますが、お顔を拭いてあげますか」と尋ねられた。ぼくは、「いえ、結構です」と答えた。母はいなくなったのだ、とそのことばかりを考えていた。
 形骸だけになった母の顔を拭いたほうがよかったのか。いまもときに、そのことを自問する。

 著者のベアテ・シロタ・ゴードンは 1923 年の生まれだから、ぼくの母より 6 歳年下の同世代である。ベアテさんは、リストの再来と言われたロシア人のピアニストの娘で、東京音楽学校で教鞭をとることになった父ととにも、5 歳のときに来日にした。乃木坂の家で少女時代を過ごし、39 年に渡米する。サンフランシスコに近いミルズ・カレッジ在学中に、日本軍による真珠湾攻撃があった。卒業後は、アメリカ政府の戦争情報局や週刊誌『タイム』などで働いた。 
 戦後まもなく、ベアテさんは、GHQ(占領軍総司令部)民政局のスタッフとして、ほとんど故郷に等しい東京に戻ってくる。戦中は半ば幽閉状態だった父母の無事を知る。 
 この本では、当時 22 歳だったアメリカ国籍の女性が参加することになる歴史的な実験について、詳細に物語られている。彼女は、日本国憲法の「男女平等」の項を書くことになるのである。
 46 年 2 月、マッカーサーの GHQ は、先に日本側から提出された憲法草案のあまりに「被民主的」な内容に不快感をあらわにする。一方で、民政局が主導して、ひそかに独自の草案づくりに乗り出した。
 法律家や大学教授出身の軍人たちのなかに、ひときわ若いベアテさんが混じっていた。ここでは、若いから、あるいは女性だからという条件は、マイナスに作用しなかった。あなたは女性だから女性の権利を書いたらどうか」とプラスに振れた。
 彼女のにわか勉強がはじまる。もっとも進んでいると考えられるソヴィエト憲法とドイツ・ワイマール憲法に、若いベアテさんは感銘を受ける。そして、幼時から東京で見聞きしてきた、とても容認しえない日本女性の現実に突き動かされる思いがする。
 当時の決意について、この本には、次ぎのように書かれている。
 「私は、各国の憲法を読みながら、日本の女性が幸せになるには、何が一番大事かを考えた。それは、昨日からずっと考えていた疑問だった。赤ん坊を背負った女性、男性の後をうつむき加減に歩く女性、親が決めた相手とお見合いをさせられる娘さんたちの姿が、次々に浮かんで消えた。子供が生まれないというだけで離婚される日本女性。家庭の中では夫の財布を握っているけれど、法律的には、財産権のない日本女性。『女子供』(おんなこども)とまとめて呼ばれ、子供と成人男子との中間の存在でしかない日本女性。これをなんとかしなければいけない。女性の権利をはっきり掲げなければならない」
 こうして書き上げられた草案が、日本側に提示される。その会議で、日本語の巧みなベアテさんは通訳のひとりとして加わった。
 席上、逐語訳をしながら条文の検討が行われた。人権問題に至ったところで、日本政府を代表する官僚や政治家が、「日本には、女性と男性と同じ権利をもつ土壌はない」として受け入れを拒んだ。これに対して、GHQ の草案づくりを指揮した大佐が、見事な発言で説得を試みている。
 「‥‥この条項は、この日本で育って、日本をよく知るミス・シロタが、日本女性の立場や気持を考えながら、一心不乱に書いたものです。悪いことが書かれているはずがありません。これをパスさせませんか?」 
 日本側一同は、「私の顔を見て承諾せざるをえなかった」とベアテさんは書いている。そのとき、彼女の胸に熱いものがこみあげたという。
 ぼくの母も、人権条項を必要としたひとりだったはずである。
 墓参の帰りの寿司屋で、親族のひとりが、ぼくには初耳の話をした。「お母さんは、新婚旅行で黒磯温泉へ行ったんだけど、次ぎの日、ひとりで東京に帰ってきてしまったのよ」
 母は、祖母が整えた縁談に従って、ほとんど知らない履き物職人と結婚した。意にそまない結婚であった。後に離婚している。ぼくなどに面と向かって、「あの結婚は豚に真珠だったわね」と言ってはばからなかった。「母さんのほうが豚かもしれないよ」とまぜっかえすと、小さく笑ったものである。
 母の口から、デモクラシーも民主主義も語られることはなかった。しかし、ベアテさんの著作を読みながら、絶えず思い出されるのは、母のことであった。
 最後の数年、母は「私は幸せだ」と言いつづけた。なにがどう幸せなのか、細かい点に言い及びはしなかった。自分の生をだれかに支配される必要がないし、だれかの生を支配することも求められない。そういう認識を持ちながら半世紀を生きたことに対する。母なりの評価だったと思う。少なくともぼくの記憶にあるかぎり、親からの圧力を感じたことはまったくない。

 ベアテさんは、日本にデモクラシーを根づかせるためには、女性と子どもが幸せにならなければならないと考えて、新憲法の草案づくりに取り組んだ。
 それから半世紀が経ち、彼女はひとつの反省をしている。
 「しかし、二二歳の私には、老人の福祉ということまで考えが及ばなかった。その頃西欧諸国でも、老人問題はほとんど取り上げられることがなかったからでもある。今、もう一度私にチャンスが与えられるならば、老人福祉に関する条項を必ず付け加えるだろう」
 ぼくの母は、老人と見られることを極端なまでに嫌った。同じ年かっこうの老女のことを、「あのおばあさん」と言ってはばからなかった。だれかに年齢を尋ねられると、うつむいて、いかにも恥ずかしそうに小声で答えていた。
 母の死後、二十数年にわたって書きつづけた収支ノートの数々が見つかった。そこには、毎日の家計が几帳面に記入されている。その他に、短い文章で日誌が綴られている。これらによって、50 代半ばからの母の暮らしの実際と、気持ちの移り行きがだいたいわかる。
 この日誌のなかに、「トシを訊かれて、75 歳ですと簡単に答えてしまう自分がいやだ」という一節がある。老いに対する母の「反骨」には、すさまじいものがあった。
 ぼくたちは、したがって、9 月 15 日の老人の日を無視しつづけたし、母に対して老人扱いをする言動を慎んだ。こうして、母ばかりでなく、こちらにも、母が老いていくことを認めたくない気持ちができあがっていったのにちがいない。
 それが母の衰えに気づくことを遅らせたのであろう。その死後に振り返れば、肉体もそうだが、なによりも精神が萎えはじめている徴候はいくつも思い当たる。それらを看過したまま、最期を迎えることになった。
 母の収支ノートは、死の 2 カ月前の 99 年 12 月 15 日で途切れたままになっている。それまで欠かさず書いてきたのに、ブツッと切れるみたいにして、その後には空欄がつづいている。 
 ただし、一日だけ書き込みがある。2000 年 1 月 1 日である。その日は、ぼくなど親族と一緒に、これも恒例になっている初参りに出かけた。途中、母は路上で転んだ。そのことに触れて、「(初参りは)楽しかったけれど、マアマアだった」と結んでいる。マアマアとは、あまり気に入らないときの母の常套句である。
 突然に老人になっていくらしい母を前に、ぼくたちはただ茫然とし、どうしていいかわからなかった。
 そして、母のひとり住まいの家に手摺りなどをつけることを依頼する。自治体の福祉事務所に相談に出かける。ヘルパーを委嘱する。介護保険がはじまるというのでその申し込み手続きをしようとする。都心の病院で精密検査をしてもらう。これらが、あわてふためいてとった、ぼくたちの行動であった。
 母は、このバタバタ騒ぎのなかで死去した。老境に入ったベアテさんが、かつて老人福祉を憲法に入れなかったことを悔いるくだりは痛切である。自ら老いて、老いの人権に思い至る。
 老いを拒みながら、それを認めないわけにはいかなかったであろう母の内心を、ぼくは推し量ったことがあったか。ない。若さに執着する母の尻馬に乗っていただけだと、いまになってわかる。
 ぼくがしなければならなかったのは、母と手を結んで老いの現実に立ち向かうことだったのである。デモクラシーというシステムはどこにもない。システムに依存しようとするとき、デモクラシーは幻と化する。日々暮らしていくことに最低限必要な条件を整えるために力を合わせること、それがデモクラシーの根幹である。そこへ立ち戻ることが、ぼくにはできなかった。そこに悔いが張りついている。
 「今、もう一度私にチャンスが与えられるならば、‥‥」と、ぼくも思うけれど、母はもういない。

(ガリ版誌『あめつうしん』193 号掲載原稿に加筆)

異文化としての山の手


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