バグダードからの「荒野の声」続報

 バグダードにいる「荒野の声」のメンバーと、シカゴ本部との間で交わされた会話記録が送られてきた。会話そのものは、シカゴ時間の 3 月 21 日早朝、日本時間では同日午後、バグダードで同日昼前か、と思われる。まず、キャシー・ケリーの発言があり、つづいてラムジ・キシア。ふたりとも、バグダード中心部のホテルに滞在している。

キャシー

「イラク平和チーム」の我々は、国連が戦争反対の努力を継続しているというニュースにほっとしている。昨夜の爆撃は、9 時 10 分から 30 分つづいた。しかし、CNN テレビが騒ぎ立てたほどには広範囲のものではなかったようである。我々は、現在の状況について、主にジャーナリストたちから情報を受けている。

きょう私は、三つの地域を巡りいくつかの家族を訪ねたが、どこも比較的平静であった。街路で見られる戦争の影と言えば、さまざまの交差点に積み上げられている砂嚢ぐらいである。

数週間前にアンマンへ向けて発った友人の家族を訪ねたが、いつも通りの素敵な住まいであった。家族の全員が女性で、エネルギーに溢れていた。家には男性はひとりもいなかった。彼女たちは私たちをとても歓迎してくれ、帰ってしまわないでほしいと言った。友人の祖母は、私をつかまえ、とりすがり、「どうか、どうか、私たちと今夜は一緒にいてください」と懇願した。しかし、私ではなんの助けにもならないだろう。この一家が住んでいるところは、軍事物資の貯蔵所の近くだと思う。みんな、もう一度戻ってきて一緒に食事をしようと言ってくれた。配給がごくわずかしかないことを考えると、それはディナーへの尋常な招待ではない。

カリーマの家族が、私たちをホテルに訪ねてきた。私はこの家族のことがとても心配でならない。非常に不安な地点に住んでいて、近所の人たちは皆それを知っている。だから、多くはそこを離れている。きょうの午後は、一家と話す時間がもっとあると思う。ただし、このホテルに呼んで一緒に滞在することについてはまだ、ホテルの経営者の許可が出ていない。

ラムジ

攻撃がはじまった 19 日、我々が手紙や日記の交換をしている高校のいくつかをまわった。学校は閉鎖されてはいなかった。しかし、半数の生徒はいなかった。家に留まっている子どもたちもいるけれど、バグダードを離れられる家族の多くは、出ていってしまった。

教師たちや生徒たちと話をした。みんなかなり元気のようであった。でも、英語の教師のひとりは、私の前で泣き崩れた。彼女は、ほんとうにおそれおののいているようであった。アメリカが化学兵器を使用するのを恐れていたし、「あらゆる武器の母」と言われている新型爆弾も怖いと言った。彼女はだれかに自分の思いを吐き出したがっていた。だから、私はその言うことに耳を傾け、できる限り慰めようとした。

子どもたちは、前日の 18 日がどんなにつらかったかを話した。終業の日だったのである。19 日も登校してくる者はいたけれど。18 日は、おたがいにさようならを言い合った。それはとても心振るわされる体験だったという。おたがいに二度と会えるかどうかもわからないし、いつ会えるか知れない。だから翌日の 19 日は、妙な感じだ。祝日のような。人々は喜んでいるわけではないが、すべてがゆっくりと易々と進行している。交通量も多くない。少し曇りがち。たとえて言うと、アメリカのどこかに暮らしていて、天気予報はハリケーンが来ると伝え、人々は嵐に備えてしきりに動きまわっているみたいな。パニックは全然見られない。窓に目張りをしていたり、食糧を調達したり、これから起ころうとしていることのために準備をしようとしているだけ。

この 2 日の間、バグダードが集中爆撃を受けていないことについて、神に感謝する。ここでの生活はいつもどおり。人々は通りに出ている。市場も開いていた。でもこれからもこうだとは思えない。アメリカの装甲部隊がバグダードを目指し、イギリスの B-52 が、おそらく今夜、集中爆撃をしそうだし。アメリカはこれまで 12 年にわたって、この地を空爆してきたが、人々は離れないでいる。心の底ではだれもが恐怖を抱いていると思う。私自身もとても怖がっているとわかっている。

個人的にはこう思う。アメリカは、昨夜、深夜過ぎまで空爆をせず、人々が寝静まるまで待つことで、民間人の犠牲者の数を最小限にしたのである。この時間に、私は 2 階の自分の部屋へ上がっていってシャワーを浴びようとした、そのときに、空襲警報のサイレンが鳴った。1 分後、サイレンは止まった。私は歯を磨いて、少し待ったが、10 分ぐらいなにもなかったので、誤報だと思った。それでシャワーに入った。身体中石鹸の泡だらけになったところで、ブーン、ブーン、ブーン、空爆が開始された。慌ててお湯を浴びて石鹸を流し、服をつけて、下に降りた。みんな、ここアル・ファナル・ホテルの喫茶室に集まっていた。全員が神経を苛立たせていたと思う。でも、元気な一行であった。チェスをしたり、お茶を飲んだり、日記を書いたりしていた。イラク人たちはみな、おしゃべりし笑い合っていた。川の向こうの建物がふたつやられた。情報が錯綜していた。計画省の裏のふたつの建物について、昔の国会議事堂だと言う者もあれば、アジズ副首相のオフィスがあそこにあるんだと、別の者は言っている。

いつもより少し多いぐらいの兵士たちが通りに出ているが、とりたてて多いということもない。実際、数年前にレバノンにいたときのほうが、ずっとずっと多かった。気味の悪いものであった。しかし、ここバグダードで見ていると、戦時下にある国とは思えない。この国の他の地方では事態はひどく悪くなっているということを、私はよく承知している。

ほんとうに激しい爆撃に遭ったら、どうしたらいいかについて話し合っている。ひとつは戦争犯罪をモニターすることである。国際弁護士のカーティス・デブラーが我々にコンタクトをとってきたが、彼は、人権法侵害をモニターすることを目的として、ボスニアの赤十字国際委員会のためにつくった書式を用意している。病院の救急室や空爆地点に出向いて、人々の話を聞き、アメリカがなにをしているかをチェックするグループに情報を提供する態勢をつくるであろう。救助機関とも話し合いを進めていて、人々に直接救援の手を差し伸べるために協力するつもりでもいる。もちろん、日記をつけ、記事を書き、この地にある者として、我々が仲良くするようになった人々を訪ね、彼らに代わって荒野の声となるつもりである。

我々は、イラクで起こっていること、過去 13 年間に起こったことを悼むものである。ほんとうに恐ろしいことで。この国では、何十万という人々が、どちらの側ということではなく政治家たちの強欲と近視眼とによって殺された。いま数百万の人々が危機を迎えている。この戦争がどうなるかを知る者はいない。すでに今回どのくらいの人が死んだか、私にはわからない。長期的に見て、その結果の恐ろしさに戦慄する。

我々は深く悼む。この国で起こっていることを心底悼む。しかし同時に、ジョージ・ブッシュにも、トニー・ブレアにも、そしてサダム・フセインにも、我々を意気消沈させることはできないとも考える。生は歓びというフレーズを聞いたことがあるだろう。生は歓びであるべきだ。我々がこのイラクで頑張っているのは、生が歓びであるべきだとする選択が、これほどたくさんの人々から奪われているからである。暴力的に奪い去られている。我々に対してそんなことをさせるものかと、私は思う。

キャシー

昨夜そしてその日の朝に起こったような規模での空爆が、シカゴであったなら、人々が日常生活をなおつづけていられるとは、私には信じがたい。ひとつには、人々が戦争に慣らされているからであり、また、イラクの人々のなかにある、特別な勇気と尊厳とを表してもいる。私にとって、それは誠に驚くべきものである。

シカゴが攻撃されたら、そして、攻撃側の国から来ている人々がシカゴにいるとしたら、居心地の良いホテルの喫茶室に一緒に座っていられるとは信じがたい。バグダードとシカゴをそういう角度から眺めながら、私はシカゴを愛し、懐かしむ思いを強くする。シカゴはほんとうにさまざまの人で溢れている街だ。でもしばしば思うのである。ここで起こっていることがあそこで起こったらどうなるだろうか、と。

私は大げさに言っているわけではないと思う。戦争遂行者を抑えることのできる臨界点に我々は近づいていると思わせるニュースが、世界中から聞こえているからである。私は、ブッシュ政府が、これ以上の衝撃と畏怖とへ進まないように、心の底から願う者である。ここでやめれば、鎮静化へ向かうであろう。このまま進めば、勢いが止められなくなる。長い長い将来のために価値あるものとして、この長い一日をあらしめたい。

[2003.3.22.]


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