| ★ジャーナリストをめぐる生と死 |
マイケル・ケリーの「戦死」は、日本の新聞にも報じられた。アメリカのメディアは、今回の戦争ではじめて生命を落としたアメリカ人ジャーナリストとして、大きく取り上げ、「英雄」と報じた新聞もあった。
4 月 3 日、アメリカ歩兵第 3 師団に従軍して、バグダードを目指しているときに、ケリーは、装甲車輌の事故のために生命を落としたのである。彼の履歴を一覧すれば、アメリカのジャーナリズムの活力の一端を垣間見る思いがするにちがいない。
彼はかつて、第一次湾岸戦争にも雑誌記者として参加している。90 年代には、オピニオン誌『ニュー・リパブリック』の編集長をしていたが、当時の正副大統領、クリントンとゴアに対して、あまりに批判的だったために、雑誌オーナーに解雇されている。
その後、『アトランティック・マンスリー』誌の編集長に就任して、この眠ったような総合誌を生き返らせたことで知られている。
イラク戦争には、『ワシントン・ポスト』紙のコラムニストとして、および、すでに編集長を辞している『アトランティック・マンスリー』の嘱託編集部員として、従軍していた。
ケリーはつまり、やはり戦場にいる ABC テレビのテッド・コペルなどとともに、アメリカのメディアの中枢にいるジャーナリストなのである。彼らが最前線にいる。彼が戦争の半ばで生命を落としたことは、イラク戦後のアメリカの言論にとって、きわめて大きな損失になるにちがいない。現場にいて、戦争に文字通り巻き込まれながら、彼らがその目で見たこと、考えたことが、やがて、アメリカ社会への影響力として結果するはずなのだから。
アメリカン・ジャーナリズムの「現場主義」にとって、彼の死は大きなマイナスになる。
死の前日、ユーフラテス川を渡る師団を描いた、ケリーのコラムが、『ポスト』紙に掲載された。そのなかに、次のような一節がある。
■
昨日の午後、歩兵第 3 師団第 1 旅団 3-69 装甲機動部隊が奪取した橋の天辺近くに、落ちてねじ曲がった死体がひとつ。その衣服から判断すると、老人で、貧しくて、正規の兵士ではなかった。サダム・フセインの、進んでなった者もいやいや参加した者もいる非正規兵たちが使った小さなトラックの残骸がいくつも燃えている。そのあたりから遠くない場所に、その死体は、仰向けに横たわっていた。戦車、装甲車輌、ロケット発進装置、その他、進撃するアメリカ軍の移動車輌の群れが、その死体の傍らをがらがらと進んでいく。
■
ほどなく、ケリーもまた、そのぼろ切れのような死体と変わらない姿になったわけである。
サンジェイ・グプタ (インド系アメリカ人か) の場合は、ジャーナリストが、戦場の生に関わったということで、物議を醸している。
グプタは、CNN のメディカル・コレスポンデントの資格で現地に入っているというから、生物化学兵器が使用された場合に備えて、派遣されたのであろう。
砲弾の破片が頭に刺さった、2 歳になるイラク人の子どもの手術に手を貸してくれないかと求められた。彼は神経外科医で、さっそく手術着になって、執刀した、子どもは残念なことに生き延びられなかったという。
この行為は正しいかどうかが、論議を呼んでいるのである。報道のために現地に入っているレポーターが、子どもの生命を助けようとして行ったことを、単に英雄的であるとして賞賛していいものかどうか。
グプタの場合は、緊急避難にあたるかもしれないが、専門医だからと言って、ジャーナリストが始終、手術をするようになって、軍医と区別できないと、なんのために現地にいるのかわからない。しかし、一方では、自分がジャーナリストであるからという理由で、生きるか死ぬかの瀬戸際の重傷者をほったらかして、知らんふりをしていれば、今度は、医師としての倫理が問題にされる。
さらに、グプタが、自らの医療行為をレポーターとして書いたり、しゃべったりするようになると、ジャーナリストとしての「独立性」が失われることになるおそれが持ち出されるはずである。
9.11 以来、アメリカン・メディア (アメリカばかりではないが) は、どこに自らを置くべきなのかがわからなくなっているかのようである。ショッキングな状況に際会すると、途端に、正気を失い、善悪を分ける論理に加担して、自らは善の側に立つことを喧伝してやまない。しかし、善悪はじつは定かになっていない。状況の推移から距離を置きながら注視することがないがしろにされているために、すべては闇の中に置き去りにされたままになっている。
やすやすと正義を持ち出す者に対してこそ、疑惑の眼差しを向けなければならない。
神経外科医グプタのようなケースを、単に「英雄的」として処理しない勇気が求められるのではないか。報道陣の一員の資格で、神経外科医の専門家が戦場を徘徊しているという事実にも、ひっかかるものがある。
マイケル・ケリーが事故死する前日の 4 月 2 日、イラク北部のクルド人自治区で、イラン人のフォト・ジャーナリスト、カヴェ・ゴレスタンが、地雷を踏んで、無惨な死を遂げた。同盟軍の威嚇を受けて撤退したイラク軍が埋設していったものらしい。
ゴレスタンは、1979 年のイスラム革命以来、一貫して、報道カメラマンとして、現地に居つづけた。(作品は、http://www.kargah.com/sky/index.htm などで見ることができる) 今回も、イギリスの BBC 放送のクルーに加わっていた。80 年には、イラン軍がクルド人を虐殺する現場を撮った報道写真で、ピューリツァー賞を受けている。
マイケル・ケリーを悼むために、大きなスペースを割いたアメリカのメディアは、このイラン人の死をほとんど報じていない。
彼の生涯は、イラン、イラク国境にまたがるクルド人の運命に深く結ばれていた。1988 年、イラク空軍は、クルド人に空から毒ガス攻撃をして、5,000
人を殺害したと言われているが、ゴレスタンは、その事件が発生した翌日に現場に戻ったという。そのとき彼が見たものについて、昨年、イギリスの新聞『フィナンシャル・タイムズ』で、次のように書いている。
■
それは生が凍りついたかのようだった。生は停止していた。映画を観ていて、突然画像が停止してしまったような。それは私の知らない類の死だった。家に入っていく、キッチンへ、そこに女性がひとり、ナイフを持って、ニンジンを切っている、そのままの状態の死体を見た。しかし、それは序の口だった。
被害者はなおも運び込まれてきた。村人たち幾人かが、我々のヘリにやってきた。彼らは 15 人か 16 人のきれいな子どもたちを抱えてきて、病院に連れていってくれと言う。報道陣はそこにみんな座り込み、ひとりにひとりずつ子どもが手渡された。我々のヘリが離陸するとき、私の抱えている女の子の口から、なにか液体が流れだし、彼女は、私の腕の中で死んだ。
■
地雷に触れたゴレスタンは、即死であった。イラク軍は、対戦車地雷の上に対人地雷を載せて仕掛けたらしく、一方の爆発が他方を誘発したものと考えられる。
★
[2003.4.7.]