★「一愛国者としてアメリカ政府を断罪する」

歴史家ハワード・ジンが、イラク戦争の「終結」あたって書いた、短い文章を、ネット上で見つけた。ラフな訳文を載せることにしよう。

我々の政府はイラクにおける軍事的勝利を宣言した。一愛国者として、私はそれを祝う意志はない。私は、死者を悼みたいと思う。アメリカの兵士と、そして、ずっと多かったイラク人の死者たちを。
 
私はイラクの子どもたちを悼みたい。死んだ子どもばかりでなく、失明し、障害が残り、空爆のために言葉を話せなくなったアフガンの子どもたちのように精神的外傷を負っている子どもたちのことを悼む。我が軍の爆撃で引き起こされた人的被害について、アメリカのメディアは、その全体を示そうとしない。そのため、我々は外国のプレスが必要になっている。
 
我々はアメリカ人の死者については正確な数字を得られるが、イラク人についてはそうではない。第一次湾岸戦争の後、コーリン・パウエルは、アメリカ人の死者は「少数」だったと報告し、イラク人の死者について問われると、「それは、私にはあまり関心のない問題だ」と答えたものである。
 
ひとりの愛国者として、GI の死を考えるとき、その家族が当然するように、私は「彼らは国のために死んだ」との思いで自らを慰めていいものだろうか。そうだとすれば、自分に嘘をついていることになる。兵士たちは、ブッシュとチェイニーとラムズフェルドのために死ぬのだ。そう、石油カルテルの貪欲、アメリカ帝国の膨張、大統領の政治的野心、これらのために死ぬ。死を招くマシンの代金を支払うのに国の富をかすめとるのを隠蔽するために死ぬ。
 
国のために死ぬことと政府のために死ぬこととのちがいは、デモクラシーに於ける愛国心の定義と私が信じているものを理解するのに決定的である。
 
デモクラシーの基本文書である独立宣言によれば、政府とは、国民によって設けられた人為的なつくりものであり、「その正当な権力は、統治される者の同意に発する」のであり、国民によって、「生命、自由、および幸福の追求」に対する万人の平等な権利を保障する義務を負わされている。さらに、独立宣言は言う。「いかなる形の政府も、その目的にとって破壊的になるときはつねに、それを変改しあるいは廃止することが、国民の権利である」
 
パナマ侵攻のときの「正しき大義作戦」、今回の「イラクの自由作戦」のように、純粋で道徳的な動機であることをつねに主張しながら、実際には、利潤と権力という粗野な動機から、政府が、若者の生命を勝手に消費するとき、国民に対する約束に違反していることになる。主体は、国であり、国民であり、人間の尊厳という理想であり、そして自由の促進である。戦争は、ほとんどつねに、それらの約束を破るものにほかならない。(真の正当防衛という例がごく稀にはある) 戦争によっては幸福を追求できない。絶望と悲しみがもたらされる。
 
イラク戦争に勝って、我々はアメリカの軍事力を讃え、現代の諸帝国と異なってアメリカ帝国は善をもたらすと主張するのだろうか。
 
アメリカはイラクにデモクラシーをもたらすのだと誇らしげだが、その確信を正当化するような記録はない。世界中のたくさんの人々の間に湧き起こる怒りにかかわらず、アメリカ人は、自国の権力の拡張を歓迎すべきだろうか。その 5 分の 1 が貧困のなかで育つ子どもたちの健康、教育、必要を犠牲にして、軍事予算の膨張を歓迎すべきだろうか。
 
国を愛するアメリカ人愛国者には、異なるヴィジョンのために行動することを勧めたい。我々は、軍事的強大さで恐れられるのではなくて、人権への寄与によって尊敬を得ようとすべきである。
 
愛国心を定義し直すことをはじめるべきではないか。これほどの死と不幸をもたらした狭いナショナリズムを越えて、愛国心を拡張する必要がある。国の境が、貿易の障害にならない、つまりグローバリゼーションが可能ならば、国境はまた、同情と寛容にとっても障害とすべきではない。
 
すべての子どもたち、どこの子どもたちをも、自分たちの子どもと考えることをはじめるべきではないか。そうなれば、現代においてつねに子どもへの攻撃でありつづける戦争は、世界の諸問題の解決策として受け入れがたいものになるであろう。人間の才知を駆使して、他の方法を探し求めねばならないだろう。
 
独立戦争時の愛国者トム・ペインは、王権の支配に抗する叛徒について、「愛国者」の言葉を用いた。彼はまた、次のように述べて、愛国心という思想を拡張した。「私の国は世界。私の国民は人類」

[2003.5.12.]


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