★〈日の丸・君が代〉の最前線から=2 根津公子

 根津公子です。
 まずは、前回の4月6日の記述に一つ、誤りがありました。訂正し、お詫び申し上げます。
 公安警察らしき人物のところです。学校に入ったのは車ではなく、人の方でした。ですから、次のように訂正します。
 「公安警察間違いなし! と確信するような風景だった。友人はその前に、停車を続けていたこの車から降りたこの人が、学校に入っていったのを目撃していたと言う。ますます、確信した。」

2007年4月9日(月)

 午前中は南大沢学園養護学校へ。昨夜、今日が入学式であることを知り、お祝いのことばと私の自己紹介を書いた保護者宛手紙を、校門前で保護者に手渡し、子どもたちには声をかけた。見ず知らずの私に挨拶を返してくれる子どももたくさんいた。

 私が校門に立ってほどなく校長が副校長ら3人(うち、1人は都教委の人)とともに私のところに来た。

校長「晴れの日なので、ここでチラシ配りはおやめください」

根津「どういう権限でそれをおっしゃるのですか」

校長「教育公務員ですよね」

根津「職務命令ですか、停職中の私に」

校長「南大沢学園の教職員ですよね」「ご理解ください」

 校長はこれだけ通告すると、私の返事など聞かずに校舎内に戻った。他の3人は一言も発せず、校長に続いた。時計は7時42分を指していた。

 またしばらくして、今度は副校長2人が校門に出てきた。訊くと、「いつもこうして子どもたちを迎える」のだということだった。

 午後は立川二中へ。入学式が終わり、下校がほぼ終わるところだった。その中には顔を知る在校生もいて、挨拶を交わした。

 「こんにちは。お久しぶりです」と笑顔で応えてくれる生徒。「お久しぶりです。僕のこと覚えていますか? また、君が代ですか」( ──「そうよ。おかしいことには、どんなに脅されても服従しないのよ」)「生活できるんですか」(──「何とかします」)と言う生徒。(何で?)という顔つきをする生徒も。

 新入生親子には、カメラマンを買って出た。

 中学生が帰ると入れ違いに、この3月卒業した生徒が新しい制服に身を包んで何人、何組もやってきた。懐かしい対面。

 私立高校に進んだというAさんは、「高校じゃ先生たち、君が代の時立たなかったよ。校長先生もだよ」と告げてくれた。都立高校に進んだBさんは、「入学式で私は『君が代』、歌わなかった。なぜ歌うのか分からずに歌うのは嫌だったから」「他の人がなぜ歌わなかったのかは知らないけれど、歌う人はあまりいなかった。そしたら、都教育委員会の人が、お祝いの言葉の時に『国歌をきちんと歌いなさい』って怒っていた」と憤慨していた。

 高校2年生になった生徒も何人かと出会ったり、嬉しいことに、時間をやりくりして私に会いに来てくれた卒業生もいた。石原都知事の3選に怒りまくるCさん。「間に合った」と駆けつけてくれたDさん。

 何人もの卒業生が、「新聞見たよ!」と告げてくれた。9ヶ月ぶりの会話で、この年齢の人間の成長のすごさにハッとし、感動することしばしば。

 石川中の卒業生Eさん他、二人の訪問も。たっぷりエネルギーをいただいた。

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2007年4月11日(水)

 鶴川二中へ。前回「出勤」した日から5日が経つ。八重桜とつつじがつぼみをつけ、咲き始めている。葉を出し始めたばかりだった柿の葉の緑も数倍に広がっている。そう、昨年もここで木々の成長に命を感じていたことを思い出す。

 そんな感慨にふけっているところに、次々に訪問者。20年もの間不当解雇と闘ってこられた国労闘争団の方が7人。学区にお住まいのAさん、Bさん、Cさんも立ち寄ってくださった。

 闘争団の方々は、1ヶ月の予定で九州、北海道から上京され、行動されているのだという。ご自身のことでお忙しいのに、と申し訳ない気持ちになる。闘っている人たちがいるから、私も闘えると、いつも思う。 

 Aさんは、小学生のお子さんが私宛に書いてくれた手紙と朝摘んだ草花をくださった。今朝お子さんが、登校時に私に会えるかもしれないと用意してくれたのだとのこと。どうも1、2分の差で会えなかったようだ。

 手紙を開けると、「先生がんばれ KIMIKO ファイト!」。さらに開くと、3年生になっての近況や私への応援が、とっても丁寧にきれいに書かれている。紙面いっぱいに彼女の気持ちが溢れている。気持ちがうれしい。相手を想う気持ちは年齢や知識だけではないことは、いつも感じてきたことだが、小学校中学年でもこんなふうに感じることができるのだ。しばらくの間もらった手紙や花を眺めていて、気づくと私の顔の筋肉はにっこり状態で固まっていた。この小さいお友だちとは、昨年の停職「出勤」中に知り合いになったのだった。

 Bさんは、「ここの1年生にも根津さんを想う生徒がいるよ」とその生徒の話をしてくれた。

 下校時には一人の生徒が、プラカードをしばらく見ていて、それから私の方を向き、「先生、がんばってください」と丁寧に言ってくれた。ファシズムの空気が漂うこの地域で、生徒からこう言ってもらえることは、ことのほかうれしい。

 3月中に「教職員定期評価本人開示通知書」(業績評価の開示)を受けていたが、急に異動をさせられたので、評価についての説明をしてもらわないままに3月が過ぎてしまっていたところ、今日その説明を受けた。開示通知をみんなで公開したら、業績評価制度はぐらつくのだけれど……。

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2007年4月13日(金)

 8時、都庁へ。出勤する人たちにチラシを配りマイクで訴える。昨年の停職から始めたので、2年目になる。河原井さんと私を含め9人。いつもより少し寂しいが、協力してくれる仲間がいて続けられること。声をかけてくださる方、ご自分から手を出してくださる方もいる。

 10時からは、東京地裁で多摩中事件(2002年3月の減給処分撤回を求める)の進行協議。

 そして午後からは、京都へ。大学の新入生歓迎学習会で話をするためだった。「君が代」不起立の映画を途中まで観て、続けて私の話し、そして質疑。

 質疑の終わり近くになってあどけさの残る表情の新入生が発言した。「私は、先生がいた調布中の卒業生です。先生に家庭科を教わりました。……」

 名前を名乗られ、じっと彼の顔を見ていると、3年前の顔が浮かんだ。私は思わず、甲高い声を発してしまった。小説のような話し。彼は、たまたま手にしたチラシで知って参加したのだと言う。

 当時の同級生たち何人かで会うと、根津の話題が出ると言う。当時は気づかなかったけれど、根津から大事なことを教わったと。「他の先生たちとは違っていた。当時はただびっくりだった」家庭科の授業もよく覚えてくれていて、「ウインナーソーセージの食べ比べやだし汁の味比べ。こんな授業は初めてで、驚いた」。障がいを持った人を招いての授業、「忘れません」とも。

 新聞報道でその後の私への処分も見て気になっていたとも語ってくれた。

 都教委はこの年から、嫌がらせ、みせしめをする目的で異動要綱を改訂し、1年での異動、片道2時間の通勤を可とした。私はそれに漏れずに、調布中は1年で出された。でも、その1年の中で、他の教員とはちょっと違って映った私の言動から、考えるきっかけを少しでもつかんでもらえたのなら、本当にうれしい。調布中に在職した意味があったのだから。こんなに素敵な出会いをつくってくださった、学生の皆さん、ありがとう!

 2004年調布中での卒業式は、10・23通達が発出されて初めて迎えた卒業式だった。私は、卒業式が近くなってから授業があった3年生半分のクラス(注:家庭科の授業は2週に1度しかないので)で「君が代」に起立できない私の気持ちを話し、着席した。

 起立しなかった「強制に反対する」私の気持ちをその日の夕刊が報じたところ、校長は激怒し、全職員がいる前で私を怒鳴ったが、同僚が校長のそれを制してくれた。保護者や生徒何人もから、根津の言っていることはよく分かる、という声が届けられた。通達を出した初年度の2004年はまだ、「強制」への抵抗感を持った人たちが多くいた。3年後の今と隔世の感がある。

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2007年4月16日(月)

 八王子は朝から雨。立川は、2時間くらいは何とかもったが、あとは冷たい雨。3月の気温とか。たっぷり着込んだつもりでも、午後は寒かった。   

 朝は道が混んでいて、遅刻ぎりぎりの生徒が駆け込む時刻に到着した。「朝ごはん食べてきた?」「目覚めた? がんばろう!」などと声をかけ、校舎内に入っていく生徒たちの後姿を見送った。

 通行人はとても少なく、でも2人の方が声をかけてくださった。一人は立川市の職員とおっしゃる男性。「何かしなければ、と思います」と。もう一人は、70歳前後と思われる女性。「世の中、右に向かってますね」と。この門の前に立つこと3年目にして、初めて出合う人がいるものだ。

 昼休みには3年生が初めは2人、次に5〜6人、「がんばってますね」と言って面会に来た。見ると、その一人は朝駆け込んだ中の一人だった。彼らが1年生の時に3時間ほど授業をした、それだけの関係だったのだけれど……。「おれの名前、おぼえている?」「ぼくは?」──「ゴメン。顔は覚えているよ」。5校時を告げる予鈴がなり、「じゃあね」と走っていった。

 下校時は、まだ部活動が始まっていない1年生に「さようなら」の挨拶をかけた。違和感なく、挨拶を返してくれる開放的な生徒がかなりいた。

 今日は寒さと雨に耐えながら、原稿を書いて過ごし、3時に「退勤」。

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2007年4月18日(水)

 今日も雨が降ったり止んだりの寒い1日。南大沢学園養護学校へ。7時45分頃到着すると5分経つか経たないかで、副校長の一人が私の見張り役で出てきた。

 出勤する職員や生徒たちに挨拶をしていると、一人の男性が私の前に立って言った。「校長のOです。ここに立たれると迷惑なんですが」。入学式の朝、苦情を言いにやってきた時が初対面、今日は2回目で顔を覚えるまで行っていなかったので、「校長でいらっしゃいますか」なんてとぼけたことを言い、何が迷惑なのかを訊いたが、それには答えずに、中に入ってしまった。隣にいた副校長に同じことを訊くと、「近所から何か言われるかもしれない」とのこと。「そういう場合は、直接本人に言ってください、とおっしゃってくださいね」と伝えた。でも、ここは全く人通りがないから、近所から苦情が来るなどということがあるだろうか?

 再び校長が出てきて私に、経営企画室から書類が郵送されたかを訊く。昨年から都立学校は「事務室」とは言わず、「経営企画室」といういかめしい名称が使われている。私は校長に、「事務の方にお聞きしたいことがたくさんあるので、後で訪ねます」と言うと、「訊きたいことは電話でお願いします」の一点張り。立て続けに3度「電話でお願いします」と言うと、校長は門の中に入って行った。

 ここから見える、門から10メートル先にある経営企画室の人に直接訊くのは禁止とは、停職被処分者に対し何と形式的な、非人間的な対応をするものや! などと思っていると、今度は校長、副校長1人、経営企画室の方2人が「話があるなら外で聞く」とやってきた。いやはや……。都立学校では、これが常識なんだろうか? 校長の判断ではなく、都教委の判断であることは明々白々。校長はどんな気持ちで私に対面しているんだろうか?

 お子さんを送ってこられたおかあさんが、プラカードの文字をじっと見ていらっしゃる。「これ、私なんです」と自己紹介をし、なぜ立てないか、どんな処分なのかを説明した。「立たなかっただけで、(この処分)ですか?!」と驚かれる。「今まで疑問にも思わず、立って来ました。なぜ、なんて考えてもみませんでした」とおっしゃる。これをきっかけに考えてもらえたらうれしい。

 体の大きい男子生徒もプラカードを見て、どうしたのかを訊く。「卒業式で『国歌斉唱』があるでしょ。私、そのとき立たなかったの。そしたら、9月まで学校に来てはだめって言われたの」と話すと、「かわいそう」と言う。

 この学校の人以外道を通る人はまずいないので、始業と同時に読書を始めたところ、次々に子どもたちが教員たちと何組も出てくる。走るクラス、お散歩に行くクラス。「行ってらっしゃい」と声をかけると、返事が返ってくる。手を握って応えてくれた子もいた。名前を訊かれたり、私も訊いたり。エプロンと三角巾を着けた生徒たちに、何をするのかを訊くと、「喫茶です」という。道を挟んで隣接する公園の一角にある建物で毎週水曜日に喫茶室を営業・実習するのだそうだ。早速行ってココアを注文し、暖まらせてもらった。

 今日は訪問者が2人。

 夕方は、新宿でフランス人記者の取材に応じた。10・23通達と都教委の攻撃・弾圧についてインタビューに答えると、記者は、「フランスでこのようなことが起きたら、教員たちは黙っていない。皆立ち上がります。日本の教員(組合)はなぜ、おとなしいのですか」とも訊かれた。この差は、やはり教育にある……。

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2007年4月19日(木)

 鶴川二中へ。家を出る時には降っていた雨が、学校に着いた時には上がっていたけれど、今日も寒かった。登校してきた一人の生徒が、「石けんありがとうございました」と言ってくれた。3学期の授業で廃油を使って作り、寝かせておいた石けんが配られたのだった。この生徒の気持ちがうれしかった。

 午後は、「日の丸・君が代」裁判の傍聴と集会のはしごをした。

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2007年4月20日(金)

 8時、都庁に。出勤する人たちにチラシを配り、マイクで訴えた。チラシ配りは初めてという若い人の参加もあって、総勢14人。マイクの訴えも2箇所で行なって、楽しいチラシ配りになった。

 その後都教委教育情報課に「処分をしないでください」の署名の追加分を、処分は発令されてしまったけれど、署名してくださった全国の人たちの気持ちを届けに行った。

 教育情報課のある30階は、恒例の、私たちだけにする差別的な警備体制が敷かれている。入り口を閉め、「東京都教育委員会」の腕章をつけた2人の職員が立って、私たちの入室・面会を妨害する。「集団で来るから」妨害するのだと言う。警備員も数人配置されている。

 面会を求めても私たちは中に入れてはもらえず、しばらくして係長を名乗る人が出てきて、室外で対応した。教育情報課の係長は、入れ替えがあったとのこと。後任の係長だった。前任者は1年で異動。1年じゃ、仕事を覚えるだけで精一杯で、発展的継続的な、都民の利益に資する仕事などできるはずがない。都教委、都庁での部署の異動も、石原都政になってから、特にこの数年は短期間過ぎて、職員の間でも批判が多いと聞く。都政及び都教育行政を都知事の嗜好で弄ばないでもらいたい。

 来週面会する約束をし、その時間と場所をファックス連絡することを確認して終えた。

 午後は、鶴川二中の離任式に参加した。それぞれの離任者一人ひとりに、代表の生徒が「ことば」を述べてくれ、花束の贈呈。私は授業を受けての、身に余る「ことば」をもらい、うれしくありがたかった。

 私からの挨拶は、何日かあれこれ考えたうえで、生徒たちが私に対し、ずっと疑問に思ってきた、なぜ起立しないのか? ルールを守らないのか? について、その疑問に答えようと少しだけ話しをした。「人と違うことを言うのは、60に近い私にとっても、勇気の要ることです。だから今、どきどきしています」と前置きして。

 「私は『君が代』が嫌いだから立たないのではありません。知り考えることをさせずに、ただ立ちなさい、歌いなさいというのは、学校がしてはいけないと私は思うから、立てないのです。皆さんは、『君が代』の歌詞の意味や歴史を知っていますか? 教育委員会がなぜ皆に歌ってもらいたいと思っているのか、知っていますか? 考えたことありますか?

 『斉唱』の前に、『君が代』について学び、考え合う。それが学校のすべきことだと私は、思うのです。行動する前に考えるのは、『君が代』に限りません。

 私は30数年間教員として生徒たちに、『考えて行動しよう。みんながやるから、誰かから言われたからやるのではなく、自分で考えて行動しよう』と言って来ました。私自身もそう生きようとしてきました。人間は考える葦である、と言うでしょう。人間は考えるから人間なのです。皆さんには何事も、自分の頭でよく考えて行動していってほしいと願います。

 常識、と言われることについても、です。『それは常識』、で済ませるのではなく、疑問を持ち、考えていってほしいと思います。時代や社会によって、常識も変わります。一例を挙げます。今『戦争反対』と言うと、誰もそうだ、と思うでしょう。でも、60数年前は、牢につながれたという歴史があります。

 どんなことについても流されずに、自分の頭で考え、行動していって下さい。そして、思いっきり自分を生きてください。1年間ありがとうございました。お元気で」。

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2007年4月25日(水)

 南大沢学園に。雨。今朝も出勤してきた校長は私に、「O校長です。できれば、これをやめていただきたいのですが」と言う。「その法的根拠を示してからおっしゃってくださいと、前から申し上げていますでしょう」と返事をするが、校長は何も言わずに中に入っていってしまった。今朝は3人の副校長のいずれも、私の横に立たなかった。

 登校してくる生徒たちに挨拶をしていると、何と懐かしい顔がある。立川二中の卒業生。お互いにすぐにわかって、再会を喜んだ。保護者の一人が「入学式の時は、その場では分からなくて」と声をかけてこられた。私が配った自己紹介の手紙を読まれて、声をかけてくださったのだ。「6ヵ月後にいらっしゃるのを楽しみにしています。がんばってください。応援しています」と。じっくりプラカードを読んで会釈をされる保護者もいらしたりする。同僚となるはずの人たちからも友好的な感触を受ける。

 先週、経営企画室の担当者に尋ねたことへの返事を聞きに行った。ところが返事は、「上司の命令」により校地外ですると言う。驚いて聞き返したが、埒が明かないので仕方なく言われるままに門の外に出た。すると何と、担当者は校長同伴で出てきて、メモを私に渡した。私は、経営企画室の職務範囲のことなのに、校舎内で対応はしないというのはどういうことかと校長に質した。校長曰く、「私の判断です」「停職中だからです」「ここにいられるのは迷惑だ。やめてほしい、と言いましたよね」。会話にならなかった。

 「根津を校地に入れるな」と、校長は都教委にきつく言われているのだろうけれど、良質の判断というものがあってもいいんじゃないか。対面した人とのやり取りで、臨機応変、その場の判断が必要となることはないのだろうか? これは、停職である私に対してだけのことではなく、職員に対しても、生徒たちに対してもだ。この一件も、上意下達で縛られた今の東京の学校が、思考停止の人間を生み出している一例だ。

 先週ほどではないけれど、たくさん着こんでもやっぱり寒い。隣の喫茶室で、友人の持ってきてくれた昼食を食べ、体を温めた。

 下校する生徒たちを見送り終わるともう4時。

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2007年4月26日(木)

 鶴川二中へ。久しぶりの晴天。

 先週満開だった八重桜は、このところの低温でまだかなりその状態を保っていて、目を楽しませてくれる。生徒たちの登校が終わり、その景色を楽しんでいるところに、いつものおじいさんが、私を見つけてやってこられた。「あんたはまじめだなあ」とおっしゃる。「まじめが取り柄なの」と私。

 学区に住まわれる小学生のお子さんを持つAさん、次には、学校から5分の距離に引っ越していらしたBさんが訪ねてくださった。Bさんは、今までに何度か訪ねてくださって、今日初めて会えたのだとおっしゃる。私のことを気にかけてくださっていたことに感謝する。

 自転車で通りかかった女性がしばらくプラカードを見ていて、声を出された。

 「またですね」。どう受け取ったらいいのか分からず、「どういう意味ですか?」と尋ねると否定的なことばを一言言われ、「でも受賞もされているんですよね」とおっしゃる。「新聞を見た」のだと。そして、「受賞といういいこともして、著名な人なのだから、こんなところに立っていないで、力をいいことに注いだらいいじゃないですか」とおっしゃり、私の返事は待たずに自転車のペダルをこぎ去ってしまわれた(注:受賞とは、多田謡子反権力人権賞のこと)。

 処分と受賞との対比を、その中身で判断するのではなく、帯で判断するこのような人は、案外多いのかもしれない。13年前の被処分時にも八王子のある中学校で、私についてこれに類似した話がされたという。

 10時半過ぎ、昨日連絡を受けた横浜の学生たち3人がいらした。社会のこと、自分の生き方をまじめに考えていることが、話をしていてびんびん伝わってくる。彼女らとは1時間ほどの約束で、午後は聴講を予定していたが、彼女らの熱意に動かされて予定を変更。そのままじっくり語り合うことにした。Bさんのご厚意を受け皆で、Bさん宅で昼食をいただいた。

 校門前に戻ると、置いていったいすの上に、たんぽぽと八重桜で作った花束が置かれていた。束ね方を見て、すぐにわかった。Cさん(小学3年生)だ! とっても幸せな気持ちに包まれた。帰宅して「ありがとう!」のメールを送ると、案の定Cさんだった。1時間もお母さんと私の帰りを待ってもらって、ごめんね、Cさん。

 下校時間帯に1年生の一人がプラカードをじっと見て、「うちのお母さんも、立たないって言っているよ」と話してきた。「君が代」の歌詞の解釈について、話しになった。

 夕方からは、映画学校の学生3人の訪問を受けた。この学生たちもとてもまじめな、自分を持っている人たちだった。とりわけ韓国からの留学生Dさんは、私の書いたものをほとんど全て読まれたのではないかと言うほどに準備をされていた。

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2007年4月27日(金)

 都庁での情宣、チラシ撒き。今日は9人で。河原井さんは10人以上の方に、「がんばってください」「応援しています」と声をかけられ、あるいは、チラシに自分から手を出されたと言う。

 今回のチラシは、片面が、「集団自決」から「軍強制」を削除した教科書検定について、そして今国会で先に成立ありきの教育関連3法案について。もう片面は、1972年の新聞記事から。この記事は、大阪の高校で「日の丸掲揚」に抗議した組合役員の行為が「違法、不当とはいえない」とした判決について。判決は、「校長は教職員が納得するまで話し合うべきだ」とも言っていると言う。職務命令と処分で脅す現在と、何と違うことか。この頃の感覚を皆が取り戻し、流されないようにしなくてはいけない。

 11時半、都教委教育情報室の課長、係長に面会し、署名の扱われ方や他にいくつかのことについて質問を伝え、メモを渡してきた。

 夜下高井戸シネマで行なわれた「君が代不起立」上映会に駆けつけた。昨日のDさんも参加されていた。

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2007年5月7日(月)

 立川二中へ。今朝はいつもより早くに校門前に到着したので、正門を利用して登校する生徒たちのほとんどを出迎えた。4月に「出勤」した時には会わなかった3年生が「お久しぶりです」と声をかけてくれたり、にやにやして通り過ぎたり。いろいろな反応が面白い。

 生徒たちの登校が終わるといつものようにいすに座って、仕事にかかる。

 しばらくして、私の前を通る車が速度を落としたかと思うと、窓が開き、男性が身を乗り出すようにして「がんばって!」と言い、再びスピードを上げた。私も立ち上がって、「ありがとうございます」と大きな声で返した。お顔はわからなかったけれど、車や声の感じから、きっと昨年も声をかけてくださった方だと思った。朝早くに元気をもらうと、1日がいい気分で始められる。

 今日は、プラカードを見て歩を止められた人が2人。一人は70代の男性。お兄さんが特攻でなくなられたことから、「愛国心」を否定することはお兄さんの死を否定するとイコールになってしまうようで、「愛国心」も「君が代」も大事だとおっしゃる。「でも、こんな処分は変だ」とも言われた。

 60代後半と思われる男性は、「(処分は)ひどすぎるよね。滅茶苦茶な世の中だよ。がんばって」「ここにあなたが立つこと、それが意味のあることです」と言って行かれた。私が全身で私を表現し、東京の教育の異常性を訴えようとすることを、「意味がある」とおっしゃってくださり、勇気を得た。

 午前中の訪問者は3人。

 1時から増田都子さんの分限免職処分取り消し訴訟の法廷があったので、途中抜け出して傍聴をした。再び校門前に戻ると3時半。今日は5時間授業だったから、下校時間には間に合わなかった。

 5時、そろそろ帰ろうかと思っているところに電話が入った。隣の高校に進んだAさんからだった。高校に近い南門で待ち合わせ、そこにBさんも加わり、おしゃべりを楽しんだ。南門は高校の門より100m手前に位置するので、駅に向かう高校生はここを通る。AさんBさんの友人たちが、「Aのお母さん?」「何してんの」と声をかけていく。

 高校の最終下校時刻の6時を過ぎるまでおしゃべりをしていたので、他の二中卒業生とも会えた。

 Aさん、楽しい時間を作ってくれてありがとう。Aさんはインターネットで私の「停職『出勤』日記」を読んで、訪ねてくれるようになった卒業生だ。

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2007年5月10日(木)

 鶴川二中へ。登校する生徒たちの何人かが、挨拶だけでなく、「がんばってください」「いつもいつもご苦労様です」と声をかけてくれる。私も、「ありがとう。君も1日勉強がんばってきてください」と返す。

 今日の訪問者は、早かった。生徒の登校時にすでに到着していた。この訪問者と話をしているところを何人もの人が通った。60代と思われる男性は、「石原都知事になってしまいましたからねえ」と声をかけてこられた。怪しい空模様ではあったが、昼まで天気がもって、助かった。

 午後は、大学で聴講。学ぶことにわくわくした。

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2007年5月11日(金)

 8時、都庁第一庁舎前でチラシを配る。河原井さんと私の他に13人もの人が来てくださった。

 昨年熱い思いをつづった手紙をくださり、チラシ撒きは今日が初参加のCさん、先月知り合ってすぐにチラシ撒きに来られ、今日が2回目のDさん、仕事を休んで参加してくださったEさん、ありがとう。

 毎週のチラシまき・情宣は、無理を押して来てくださる人たちがいなければ成り立たないこと。皆さんに、ほんとうに感謝です。

 チラシ撒きの後は、会報の印刷発送作業をした。

 国民投票法案が、参院憲法調査特別委員会で採決され、可決された。またも参院の機能果たさず。憲法9条2項を削除し、「戦争のできる国」に踏み出す。

 戦後、「教え子を戦場に送らない」と決意した教職員組合は、今の事態を「教え子を戦場に送」ってしまう事態と、どの程度認識しているのか? 「君が代」の強制と処分もまた、これと同一線上にあることだと、どの程度認識しているのか?

 連休を境に暖かくなったので、とても楽になった。
07.5.12.
〈日の丸・君が代〉の最前線から=3
〈日の丸・君が代〉の最前線から


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