★〈日の丸・君が代〉の最前線から 根津公子 |
2007年2月
2003年10月23日、東京都教育委員会は「『君が代』斉唱の際起立をしなかった教員には懲戒処分を発する」とした通達(10・23通達)を出しました。それによってこれまでに延べ345人の教職員が懲戒処分を受けました。
懲戒処分は戒告から始まって、減給、停職、免職に至ります。「君が代」処分で今一番重い処分まで行っているのが、私と河原井純子さん(八王子東養護学校)です。
私は04年の卒業式では不起立ではあったものの、「職務命令が明確ではなかった」(産経新聞)ということで、処分はなしでしたが、05年卒業式で減給6ヵ月、入学式で停職1ヵ月、06年卒業式で停職3ヵ月に処せられました。私の場合は、94年に「日の丸」を降ろしたことや、01年に「従軍慰安婦」問題を家庭科で取り上げたことに端を発した攻撃で減給3ヵ月処分までの階段を上っていての「君が代」処分の始まりでした。
河原井さんは、04年卒業式で戒告、入学式で減給1ヵ月と進み、06年1月の30周年式典での不起立で停職1ヵ月まで行っています。都教委は、06年5月の教育委員会定例会で「停職は6ヵ月まで」と言明しました。その言に倣えば、私の処分は次は停職6ヵ月、その次は免職となるのではないかと予想され、河原井さんは停職二回のあと、免職が心配されます。2人とも定年前にそのときがやってきます。
◇なぜ不起立なのか
不起立不伴奏をする人たちのその理由はさまざまです。
河原井さんは、「子どもたちに『イエス、ノーをはっきり言っていいんだよ。自分らしく生きよう』と常に言ってきた。だから、私は意に反して職務命令のままに起立することはできない。また、子どもたちにも、『起立しなさい』とは言えない」「教員を続けたいから、起立は出来ない」と言います。
私が起立できないのは、一言で言えば、教員である私は、教育を否定する行為に加担することはできないということです。
「日の丸・君が代」問題は2003年に初めて出てきた問題ではありません。1989年に学習指導要領に「掲揚し、斉唱するものとする」と書かれた時が攻撃の始まりでした。子どもたちには「日の丸・君が代」の意味も歴史も知らせずに、指示にだけ従わせようとするやり方でした。子どもたちから考え判断する権利を奪い、真理を追究することを禁止し、一つの価値観を植え付ける。これは、教育に反すること、学校がしてはならないこと。再び教育を時の政権の具としないと誓った教育基本法を否定することです。
そう考えた私は、声を上げ、「日の丸・君が代」の特設授業をしてきました。「日の丸・君が代」を実施するかしないか、起立するかしないかは、卒業式の主人公である子どもたちが決定すべき問題であり、それを保障するために教員は、子どもたちが考え判断するために必要な「日の丸・君が代」についての多方面からの資料を提供すべきであると考え、89年以来それを実行してきました。
2000年に長く在籍した八王子の学校を転出させられ、制裁としか思えない異動(担任外し、1〜3年で異動、2人体制の授業)をさせられてからは、それまでのような十分な「日の丸・君が代」の授業はできなくなっていますが、起立できない私の気持ちは語るようにしてきました。
河原井さんも私も、「日の丸・君が代」が好きか嫌いか、いいか悪いかという段階以前のところで、起立はできないのです。起立を拒否する教員たちのかなり多くは、「日の丸・君が代」それ自体の問題は感じながらも、一番は強制することに反対しています。
◇なぜ、免職の危険まで冒して不起立・不服従を続けるのか
河原井さんも私も、子どもたちに対して嘘はつけない、教員としての職責を全うしたい、教員である限りは立てないと思っています。その思いは揺らぎません。
私の場合は、05年卒業式での体験がその思いを強固なものにしました。私のからだが「君が代」の強制を拒否したのでした。
05年卒業式を間近に控え、校長は市教委から「根津を指導したか。根津は何と言っている」と毎日訊かれ、憔悴しきっていました。私は不起立の選択を決めていましたが、校長の様子を見るにつけ、彼のからだのことが頭から離れなくなっていきました。また、当時都教委は、「3回不起立したら免職だ」と言っていたこともあって、それまでに被処分を重ねていた私は、退職までの年数と残りの手持ちカードとを比べ思案していました。そうしたことから私は、自分の気持ちを整理し、校長に「途中までは立っている」「市教委には、根津を指導した。根津は立つと言っている、と言ってもらって構わない」と告げ、子どもたちには予め謝ってその日を迎えました。
「開式のことば」「一同ご起立ください」に引き続く「国歌斉唱」。「国歌」ということばが発せられた瞬間から心臓が脈打ちました。心臓が飛び出すのではないかと思うほどに。目の前がくらくらします。少しして、「銃剣を突き刺せ」と上官から命令されたセピア色の初年兵の姿が脳裏に浮かびました。「お前は刺すのか」と言われているよう。何人かの生徒は私を凝視しています。長いながい時間でした。予め教頭に告げていた歌詞のところに来て、私は着席しました。着席して、「ああ、銃の引き金を引かなくてよかった……」と安堵しました。
この体験から、もうどんなことがあっても子どもたちにも自分にも嘘はやめようと思い、現在に至っています。
◇不起立の思いは停職「出勤」でさらに確かなものに
05年入学式での不起立で停職に処されたこの年5月終わりからの1ヶ月、私は当時の勤務校の立川二中の校門前に立ちました。私は悪いことはしていない。悪いのは都・市教委だ。私は仕事をしたい、という極自然の思いからの行動でした。初めはそれだけの気持ちでしたが、この中で子どもたちから教えられたことがたくさんあり、おかしいことには従わないという気持ちをますます確固としたものにしました。
ある生徒は、「先生が不起立をすることで、人はおかしいと思ったときには、立ち上がっていいんだということがわかった。私はこれから、そう行動します。この学校に来て一番よかったことは、根津先生と出会えたこと」と、第三者としてではなく、自分のこととして受け止めました。すごいことだと思います。「先生偉いね」「がんばってね」「応援しているよ」と生徒から声をかけられるのもうれしかったですが、自分のこととして捉えたこの生徒は、私に大きな力を与えてくれました。私は「君が代不起立で停職」という素材を投げかけただけですが、その素材自体が、生徒に気づかせる力を持っていると思いました。ありのままを提示することが教育行為なのだと気づかされました。
またそのことは、かつての教え子が停職「出勤」中の校門前を訪ねてくれ、話をする中でも確認できたことでした。
ですから今私は、私を排除する勢力がどんなに強くとも、停職になっても免職になっても、私の教育活動をし続けていこうと思っています。「格差社会」「自己責任」ということばが示す生きづらい社会にあって中学生たちは、今は私のことを理解できなくとも、この先自分が理不尽な扱いを受けたときに、私のことを思い出し、自殺を選ばず、抵抗する道のあることに気づいてくれるかもしれない。そんなことも予測しています。
ですから私には、免職を防ぐために不起立を避けるという選択肢はありません。河原井さんにもこの選択肢はないそうです。
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2007年3月
新聞報道等ですでにご存じかと思いますが、昨日、卒業式での「君が代」処分がありました。予想と覚悟はしていましたが、停職6ヶ月という、もう猶予のない処分でした。
昨日の報告と、処分発令の場で読み上げることができず、渡しただけの抗議文を添付します。併せて以下に貼り付けます。
4月2日は、異動先の養護学校の門前に行きます。
◇3月30日(金) 卒業式・「君が代」処分の報告
29日の都教育委員会定例会で承認されたことを受け、午後から処分発令。
中学校2、養護学校5、高校28、計35名。今回初めて処分を受けた人が20人。停職では、私が停職6ヶ月、河原井さんが停職3ヶ月、渡辺さんが停職1ヶ月。10・23通達以降の被処分は381名に上る。
私に告げられた処分発令は3時。「収容所へとつながる」とふっと連想する待合室で待機し、3時、処分発令3箇所のうちの一室に通された。校長、市教委指導課長が同行。室内には都教委菊池管理主事をトップに3〜4人の関係者が待ち構えていた。「処分書発令・伝達式」とでも言うのだろうか?
「一同礼」(だったか?)から始まった。2番手らしき人物が、「地方公務員法29条第1項第1号、第2号及び第3号により6月間停職を命ずる」(=29条は、懲戒処分に関する規定)と処分発令書を、続いて処分理由書を読み上げた。次にその2枚の紙を菊池管理主事が私に渡そうとするので、「受け取る前に質問があります」「職務命令はなぜ私にだけ出されたのですか」「抗議文を読み上げるので、それくらい聞きなさい」と言うが、管理主事はどでかい声で、「ここはそういう場所ではない。受け取りを拒否するんですね。拒否ですね」とわめき、さえぎる。
仕方なく抗議文を菊池管理主事の前に置き、「不当処分に抗議します。こんなことを続けて、あなたたちには天罰が下りますよ」と告げて、退室した。
この部屋でこの人たちの顔をまじまじと見ながら、この人たちの本心はどこにあるのか、良心の呵責は微塵も感じないのだろうか、人間だから恐ろしいことができる、といつものことながら思った。
ここからは、年次休暇に入った。皆が待つ建物の前の路上に出た。駆けつけてくださった皆に温かく迎えられ、ほっとする。この後、集会と記者会見。
八王子に戻り、友人と呑み、バス停に向かう道で「根津先生!」と声をかけられた。美しい若い女性。11年ぶりの対面、石川中の卒業生だった。
処分のことを告げると、彼女は都教委への憤りをあらわにし、中学校時代のことを次のように言ってくれた。
「中学校の先生たちは本当に私たちのことを考えてくれた。先生たちみんなとっても仲がよかったよね。押し付けでなく、どう思う? こんな考え方もあるんじゃない? という風に、いつも私たちに考えるきっかけをつくってくれた。731部隊のことでも、事実をしっかり知り、考えた。だから今も、社会のこと政治のこと選挙のこと、考えようとできるんだと思う。とっても感謝している。中学時代の友達と会うと、みんなそう言っているよ」と。
処分発令の嫌な日に、とってもうれしい、最高のプレゼントだった。都・市教委にどんなにひどい攻撃・弾圧を受けても、おかしいことはおかしいと言い続けようと思える、私の活力の源は、私と出会った生徒たちのこうした言葉。ありがとう。今日の疲れがいっぺんに吹き飛び、さわやかな風が私の体を包んだ。
ところで私たちは、起立しなかったから、学習指導要領に違反したから処分されるのではない。校長が発した「起立すること」との職務命令に違反したことで処分を受ける。都教委は「『学習指導要領どおりに』『国歌斉唱』を実施している」と言うが、東京だけが突出した処分をすることを正当化するには、学習指導要領違反での処分が難しいということ。職務命令違反にしかその根拠を求められないのだ。こんな存立基盤脆弱な理由をもって、私には停職6ヶ月。
「停職は6ヶ月まで」と言った、昨年5月の都教育委員会定例会での都教委発言によれば、私は、来年の卒業式で免職ということだろう。一方に職務命令が出されないで処分とならない全国の教職員がいて、東京でさえそうした教職員がいて、しかも4年前までは問題にされなかったことで、しかしいま私にはこの処分。
どこに処分の正当性、公平性があるというのか! 処分の不公平性は、都教委トップの極度の異常さをあらわす。このような暴走がいつまでも続くはずはない。
話しは変わって4月からの身分の問題。29日の午後、異動の内示を受けた。異動要綱は2003年にまったく都教育委員会のしたいように、1年での異動を可能とさせるものに作り変えられた。不服であったが、ここに時間を使うのはやめた。1年ごとの異動は二重処分であることは歴然としているが。異動先は、都立○○養護学校だと言う。
異動先について校長に尋ねたところ、校長は市教委梅原教職員課長から言われたことを書き取ったというメモを示し、「都教委が照会した全ての教育委員会から根津の受け入れを拒否されたので、都教委は任命権者として、根津の能力を特別支援教育の場において活用するため、都立○○養護学校への異動を決定したとのことです」と告げた。
2003年に調布中に異動になったときには、当時の校長は、都教委から言われたから受けたと言い、しかしその裁判の中では一変してその話を否定し、「家庭科を充実させて新3年生の問題行動を解決したいと考え、家庭科の過員配置を希望した」と証言したのだが、真相は初対面の時に校長が言ったことばであることは疑うべくもない。
立川二中、鶴川二中の校長および立川市教委指導課長から聞いた言葉も同様に、「都教委から言われたから」であった。しかし今回は、都教委の照会に、どの区市町村教委も独自性をもって受け入れを拒否した、なんてことがあろうはずはない。区市町村教委に独自性が残っているなら、披露してほしいものだ。
30日午前中、処分発令の前に、校長面接(3人の副校長が同席)と荷物の搬入にこの学校を訪ねた。処分発令を待っている部屋にこの副校長の一人が息せき切って入って来られた。「お渡しするのを忘れたから」と、着任先を証明する、4月1日付け「発令通知書」を持って来られたのだった。こんなもの、送れば済むものなのに。大事にすべき仕事の優先順位が違うんだよなあ。
以上、報告まで。
次に、抗議文を掲載します。
2006年3月30日
「君が代」処分に抗議する
東京都教育委員会
教育長 中村 正彦様
教育委員長 木村 孟 様
町田市立鶴川第二中学校教諭 根津公子本日都教委は、3月19日に行われた町田市立鶴川第二中学校の卒業式での「君が代」斉唱の際、起立を指示した職務命令に違反したとして私を停職6ヶ月の懲戒処分に処した。9・21東京地裁判決を無視し、弁護士会の警告を無視し、不当な処分を、とりわけ累積処分をやめない都教委の暴挙に強く抗議する。
私はこれまで一貫して、都教委が強行する「日の丸・君が代」は教育の条理に反すること、都教委のイデオロギーを一方的に注入する、調教・洗脳行為であることを指摘・批判し、行動してきた。
都教委は、破廉恥にも言う。「起立を拒否する教員がいると、生徒としては、国歌斉唱の際に、国旗に向かって起立してもいいし、しなくてもいいと受け取ってしまう」と。子どもたちに、判断力も批判力も育ませない、洗脳すると公言しているに等しい。子どもたちを都教委の好む色に染め上げること、教育を政治利用することばかりに邁進する都教委を、私は決して許さない。
都教委を批判するのは、起立しない私たちだけではない。ほとんどの教職員が同様に批判的であることを、都教委は謙虚に受け止めよ。論議・検証・反省し、健全な組織とすべく必要な機能を回復させよ。
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2007年4月2日
停職6ヶ月「出勤」初日の報告です。
4月2日(月)
朝、真っ先に外に出てみた。夜中の雨はほとんど上がり、時折霧雨が降る程度。まずはほっとした。今日は、南大沢学園養護学校に「初出勤」。
30日に校長面接に行った折、「2日に行われる職員紹介で私を紹介してほしい。自己紹介もさせてほしい」と校長にお願いしたけれど、「都教委に訊かなければわからない」とのことだった。この日帰宅すると、「参加はできないことを都教委と確認した」との返事がファックスで入っていた。
でも、このままでは6ヶ月間、私は“ユウレイ”にされてしまう。いやだ。あれこれ考えて、出勤する職員に手紙を手渡そう、と決めた。
7時40分、校門前着。友人2人が同行してくれた。「おはようございます。今日からここの職員になりました根津と申します。『君が代』で停職6ヶ月の……」と自己紹介し、一人ひとりに手紙を手渡した。あるいは手渡そうとした。
「新聞で見ました。がんばってください」「私たちの代表でやってくださっていて、と思っています。ありがとうございます」「来られたこと、友人から聞いています」などと言ってくださる方もいて、一人じゃない、とうれしかった。でもやっぱり一方には、手を出してくれない人や、「中に入るようになってからいただきます」という人も。まあ、これが社会だけれど。
手渡し始めてまもなく、2人の副校長が、「止めてほしい」と言いに来た。学校管理者側の「職務」を意識して来たのだろうか。その割には、2人は、あっさりとしたもので、すぐに中に入ってしまった。
今日は、短時間で「退勤」した。
以下は手渡した手紙。
南大沢学園養護学校教職員の皆さま
4月1日付でこの学校に異動になった根津公子と申します。31日付新聞報道でご存じかと思いますが、今年もこの3月の卒業式の際の「君が代」不起立・不伴奏で35名の教職員が懲戒処分を受けました。私は、停職6ヶ月に処され、ここの職員になったにもかかわらず、中に入ることができません。自己紹介だけでもさせてほしいと校長にお願いしたのですが、「都教委との確認」で承諾できないとのご返事でした。
そこで、紙面をもって自己紹介等させていただきたいと思います。どうぞ、最後までお読みくださいますよう、お願い申し上げます。そして、1年間どうぞよろしくお願いいたします。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
1950年生まれの56歳。担当教科は家庭科です。新任校は江東区立大島中学校でしたが、第一子の喘息で八王子に転居。喘息が軽減するまでの数年間市内の小学校に、その後は同じ市内の中学校2校に10年ずつ在職し、担当教科の授業づくりだけでなく、学年職員集団で平和教育等に情熱を注いできました。とっても楽しい日々でした。
2000年に八王子から多摩に、2003年以降は、調布、立川、町田の各中学校に1〜2年での異動を強行されてきました。
ですから、養護学校の経験は全くありませんし、知識もありません。皆さんから教えていただくことばかりだと思います。よろしくお願いします。
ところで、停職6ヶ月の先はもう猶予はなく、次は免職です。ですから、1年後の卒業式で、校長が起立を求める職務命令を出さない決断をしてくれない限り、私は免職にされます。免職覚悟で、おかしいことにはおかしいと言い、行動していくつもりです。
私は「君が代」が国民主権の憲法に抵触し、歴史的清算も終わっていないと考えます。しかし、だから起立しないのではありません。「君が代」に限らず、強制に反対なのです。
私は生徒たちに、こう話してきました。「ここにいる人におまんじゅうをあげる、と言われたら喜んでもらう。でも、全員が食べることを強制されたら、私は食べたくても絶対に食べない。食べたくない人の権利を侵害することになるから。君が代に反対するのも同じ理由です」と。
強制の行き着く先は、自由と民主主義が奪われた社会、ファシズムです。70年前に日本の歩んだ道を想起すれば、これを良しとする人はいないでしょう。大きく前提として、このことがあります。
加えて、都教委が進める「日の丸・君が代」は教育行為に反し、教育を破壊することだと考えます。知識や資料をもとに考え合うのが教育です。「日の丸・君が代」について生徒が考え意見形成できる資料も機会も提供せずに、起立・斉唱を指示することは、調教に他なりません。子どもたちを戦争に駆り立てた戦前の軍国主義教育と同じです。
また不服従の教員を処分することで徹底させるこの強制の仕方は、生徒たちに「命令には考えずに従え」「長いものには巻かれよ」と教えるようなものです。子どもたちを時の政権担当者の好みの色に染め上げることは許されないことです。
私は生徒たちが自分の頭で考え判断できる人に、「真理と平和を希求する」(改定前の教育基本法)人になってほしいと願い、仕事に当たってきたつもりです。ですから、私はこうした都教委に加担はできません。
さて、養護学校の子どもたちとの接触がなかった私がここで養護学校と「日の丸・君が代」、あるいは「君が代」について申し述べるのはおこがましいことですが、誰を対象としても、教育の条理に違いはないと思います。強制で縛るのではなく、自分の気持ちを出し合い、考え合い、尊重し合ってともに進んでいくことが、大事だと思います。
とりわけて知的障がいや学歴に対する偏見・差別が根強く残る日本社会において、ここに通う子どもたちが、自己に誇りを持ち、正当に自己を主張し表現して生きていくことを学び取ってほしいと思います。そのとき、「君が代」の強制は子どもたちの学びを妨げるものになるはずです。
東京の教職員で、都教委の「君が代」強制・処分に賛成する人はほとんどいないだろうと思います。校長たちも賛成ばかりではないようです。
私は2年前の卒業式での体験で、もう自分に嘘をつくのはやめよう。おかしいことにはおかしいと言っていこうと決めました。治安維持法下では、生命の危険に晒されましたが、今はまだ生命の危険はないですし、56歳の私には養育義務も家庭責任もありません。懲戒免職になっても何とか生きてはいけます。だから、大して迷うことなく、この決断ができたのだと思います。将来があり、家庭責任がある若い人たちの分も声をあげたいと思っています。
停職期間中、私は不当処分に納得していませんし、仕事をする意思が十分ありますので、「君が代」処分を受けた当時の学校(立川、町田)、そして今日から着任するはずだったここに、順繰りに校門前まで「出勤」します。また、都教委には抗議に行きます。
皆さま、どうぞご理解ください。声をかけてくだるとうれしいです。
2007年4月2日
根津公子
(ここに住所と電話番号を書いた)
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2007年4月6日
4月6日(金)
今日は始業式、7時40分、鶴川二中の校門前に「出勤」した。友人が同行。暖かい、いい天気。
「進級おめでとうございます。/『君が代』不起立で不当にも停職6ヶ月処分です。/『君が代』の歌詞の意味を知っていますか。知って歌っていますか?/今は戦前のようです。」(趣旨)と書いたプラカードを立てかけて、登校する生徒や出勤する、数日前まで同僚だった人たちに挨拶をした。元気に挨拶を返してくれると、心が弾む。
生徒の登校中ずっと、忙しいだろうに、副校長が昨年と同じように私の横に立った。「1年間付き合ってきて、私が静かな人間だということも、生徒に何か心配なことをしないということもよくわかったでしょう? ここに立って、監視する必要なんかないですよ」と告げると、副校長は同意する表情や言葉を出した。個人的にはいい人なのだ(いや、だからこそ怖い社会だと思う)。それでも、始業時刻まで立っていた。彼はこれを、「職務」と思わされているのだろう。
この鶴川の地域では1年前の着任早々、私について「ルールを守らない教員」「引き取り手がなかったこの教員を校長先生が預かってやったそうだ」等々のことばが流されていたと聞いていた。また、10・23通達以降の、戦争に突き進む世の変化、人々の意識の変化はすさまじい早さだ。そうした影響を受け、私を排斥する声は、「正義」の声となり、生徒たちの間にもたちまちのうちに浸透した。
生徒からのバッシングはとてもきつかった。しかし、70年前を再現させる状況に、めげてはいられず、気持ちを整理し、ことに当たってきた。
3月、この学校では今流行りの、生徒からの「評価」があるのだが、そこにこんな風に書いてくれた生徒もいた。「先生がこの学校に来てくれて、私はいやなことはいやだと言っていいことが分かった」「先生は意志が強いですね。すごいと思う」「新聞で読みました。がんばってください」など。
とりわけ、「いやなことはいやだと言っていいことが分かった」という、たった一人かもしれないけれど、私の行動から学んでくれたその生徒の言葉に、私がこの学校にいた意味があったと思えた。うれしかった。それを支えに、私はまた、先に歩むことができる。そんな風な気持ちで、今日ここに立った。
登校が終わり、ボーッとしていたところに、「またですか」「またですか」と敵意むき出しの表情で私をにらみつけ、吐き出すように言って通り過ぎ、学校に入っていったPTA関係者。
それからしばらくして、表情やしぐさから(公安警察?)と直感させる男性が、プラカードと私に目をやり、通り過ぎて行った。
それに続いて、その数分前から100mほど離れたところに止まっていた濃紺の車が、私の前をゆっくり通り過ぎたところで、その男性を乗せて走り去っ た。公安警察間違いなし! と確信するような風景だった。
友人はその前に、停車を続けていたこの車から降りたこの人が、学校に入っていったのを目撃していたと言う。ますます、確信した。時計を見ると、8時50分だった。
また一方、忙しい時間をぬって4人の地域の方が訪ねてくださった。お二人は、初対面の方。昨年ここで知り合った○○さんから電話を受けていらしたのだった。
同じ鶴川地区のある小学校では、先日の卒業式で「君が代」の際、卒業生の保護者の2/3が着席されたそうだ。何があったのかは分からないが、すごいことだ。そんな話しに盛り上がった。
学校の前にお住まいの、いつも挨拶を交わす方たちとも、楽しく話しをした。
今日生徒は、午前で下校。始業・着任式で校長から話があったのだろう。「もう、いなくなっちゃうの?」「先生、新しい学校に行っても、僕のこと覚えていてね」と声をかけてくれる生徒もいた。「半年間はまだ、時々ここに来るからよろしく」と変な会話を交わした。
かつての生徒の一人□□さんからのメールが、校門前「出勤」に勇気を与えてくれます。
「去年 先生にお会いしたとき、実際生徒が先生の姿を見て、問題の存在を認知できることはすごく大切なことだと思いました。その時すぐに問題を理解して行動に移すのは、おそらくほとんどの生徒には無理です。私も無理でした。
でも 日本国内には同じような問題がまだまだ沢山あって、先生が異動した分だけ(先生には大変ですが)それらの問題を疑問視できる将来の社会人が増えるのではないかなと思うのです。(中略)
私自身も、最近「愛国心」と「祖国愛」をわけて考えるようになりましたが、それは石川中での平和教育だけでなくて、今の先生の活動を知ってるからだと思います(後略)」。有難いことです。
★2007.4.13.
《冒頭の「2007年2月」の項は、根津公子さんが謄写版誌「あめつうしん」239号に執筆した文章を転載した。それ以外は、根津さんが送り出しているメールを載せさせていただいた。》
〈日の丸・君が代〉の最前線から=2
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