★築地・月島・佃島──江戸前の海辺を歩く

てるてるぼうず

 湾岸という文字を日常的に目にするようになったのは、いつのころからか。それほど以前ではないはずである。都心から少し脚を伸ばすだけで、溢れるばかりの水を含む東京湾を前にすることができてしまう。そういう含意が「湾岸」には込められている気がする。

 手元に目を落とせば、掌に握りしめるペットボトル。水をふだん携行するのがあたりまえなっている自分がいる。水を手放せない日々を生きはじめている。となれば、湾岸の縛りからもはや逃れられない。

 去る一日、築地本願寺の門口に立った。左手の奥に「森孫右衛門供養塔」があるはずなのだが、案に相違して、その前面に「カフェ・ド・シンラン」を名乗るガラス小屋が立ちはだかっている。雑穀米使用のサラダやバスタを提供するカフェである。自然派レストランが、本願寺の境内に進出したことになる。

 しかし、本日の御用は別にある。親鸞上人、御免。

 カフェの裏手にまわると、「供養塔」は健在であった。孫右衛門は、摂津国佃村の名主。つまり、いまの大阪・住吉区の人である。天下をとった家康に従い江戸に下り、佃島を拝領し、江戸前の海の漁業権を手にした。関西から仲間を呼び寄せ、江戸城に魚を納めながら、その余りを一般に販売しはじめたという。それがで、関東大震災まで日本橋にあった魚河岸の発祥ということに。

 もっとも、森一族の素性については諸説あるらしいけれど、まずは素直に孫右衛門の碑に仁義を切る。ここが、江戸前の水を訪ねる本日の旅の出発点である。

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 魚河岸は大震災後に築地に移ったわけだが、その築地市場が、湾岸の新たな中心になりつつある豊洲地区への、差し迫った移転問題で揺れている。

 いまから20年あまり前、初めて夜明けの市場に足を踏み入れ、まぐろのセリ場の意外な静寂に感動した。何度かその後来ているけれど、そんなこんなで今回は格別の気がする。新大橋通りに面した正門から入り、場内をひとまわりするうち、近い将来、この風景が見られなくなるかもしれないと思いはじめ、感傷的な気分になる。

 最近は、行くたびに、場内の人たちがぼくたち部外者に優しくなっている気がする。今度もそれを感じる。ターレットは、まごまごする他所者の前で停止するし、仲卸しのお兄さんは、問われれば、懇切に魚の説明をする。

 にわかづくりの掛け小屋風の売り場に貼りつけた、小学生の女の子が描いたらしい移転反対のイラスト画が目につく。

 びっくりするのは、魚がし小路の人垣。昼近くで、飲食店の前に黒山の人だかり。河岸の関係者がのんびりと食べ、仕事の後の一杯をやっていた風景はもうない。きょうは、以前の築地市場の風景がしきりに思い出される。

 先を急ぐことにしよう。

 食堂のカウンターに割り込んで、まぐろステーキ定食を注文し、昼食とする。

 晴海通り方向の海幸橋、と言っても、下の川は埋め立てられ、橋げたと欄干しか残っていないが、この橋から波除神社の前を通り過ぎながら、市場関係者に倣い本殿に一礼する。

 江戸前の海は家康開府以来、埋め立てがつづいたが、4代家綱時代の最後の工事が困難を極めた。つくる堤防、つくる堤防、ことごとく壊れることがつづいたという。

 ある晩、海面を光るものが漂い、引き上げると、これが稲荷大明神のご神体で、さっそくお祀りしたところ、波風が直ちに収まり、埋め立てもうまくいった、という。

 これが「波除様」で、築地の守り神として、以来尊崇を受けることになったと。水のなかから御神体が出てきた話なら湾岸には山ほどある、とかなんとか、ぐずぐず言わずに頭を垂れること。

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 晴海通りに出たら、銀座に背を向けて歩き出す。目指すは月島。

 当然、勝鬨橋を渡るのだが、橋の入り口でどうしても思い出してしまうのが、新珠三千代と三橋達也。世の中見限り見限られた男と女が、この欄干に寄りかかる。都バスがやってくる。どことも確かめず乗り込むふたり。行き先表示は洲崎弁天町。赤線で知られた。時は昭和30年代に入ったばかり。川島雄三の『洲崎パラダイス赤信号』の、これが幕開け。

 さて、月島川にかかる西仲橋を渡る。屋形船が、夜の宴を待ちながら、川面に横たわっているのを横目に、アーケードの街、西仲通りに吸い込まれる。道路の両側一帯の路地が、言わずと知れたもんじゃワールドということになる。

 しかし、それだけに昼間は地のままの下町気分が、たとえば、地元の人ばかりが利用する喫茶店に坐ると漂っているのが感じられる。おばさんたちの会話も、こんな具合に生々しい。

 「やることなすことダサイんだよね」
 「そうそう、三人ぐらいで、(勘定を)オレ出すオレだすって。そういうのにかぎって出さない」
 「すると、脇からバッとね。ひとりだけ。いいね、ああいうの」

 外からしばし入り込むもんじゃの客も、こうして丸裸にされるわけ。水に隔てられ、水に漂って生きてきた人々の、歯に衣着せない話しぶりが健在なのも知れるわけである。

 西仲通りを歩いていて、地下鉄月島駅が近づき、みずほ銀行前あたりで目を上げると、眼前の風景が一変するのに気づく。二階建ての街が高層マンション街に変貌し、通りの人々の歩調が速くなって、服装はお出かけ風。

 これが佃島超高層マンション街リバーシティにまで続く印象で、月島と佃島とがもともと地続きだったかのように感じてしまう。

 実際には、先の森孫右衛門らが家康から下げ渡された干潟からつくったのが佃島で、江戸時代初め以来の歴史がある。他方の月島が生まれたのは明治半ばのことで、当時、隅田川の河口に大東京港を建設することになり、そのための埋め立て地第1号として誕生した。成り立ちがちがう。

 しかし、隅田川の水を隔てて、月島と佃島とを「本土」に結びつけていたのは、どちらも、長いこと渡し舟であった。月島の渡しは、昭和15年に勝鬨橋が完成して客足が減り、廃業している。さらに、昭和39年、佃大橋の開橋を受けて、最後まで残っていた佃の渡しが廃止になった。

 水を背にした「佃島渡船碑」の記述によると、佃の渡しのはじまりは1645年のことだという。それから300年近く、江戸時代から近代を貫いて運行されていたことになる。

 碑を背にして立つ。すると、佃島の街の中心部が見渡せる。正面の広々としたアスファルトのスペースは道路なのだが、その拡がりは広場を思わせる。目の両端に、佃煮の店が3軒とらえられる。佃煮の製造技法もまた、もともとは大阪からつたえられたものだという。

 正面奥には、朱塗りの佃小橋があるはず。路地の奥に入り込むと、子育て地蔵尊のバックに、巨大な銀杏の木がそびえ立っている。この大木は天井を貫き、屋根をものともせずに、空へ向かって伸び上がる。そんな異景にも出合うにちがいない。

 左手の横丁に折れて、ほんの数歩、もうそこはもう、守り神の住吉神社の鳥居である。

 もちろん、大阪の住吉大社に連なる神社であり、海上安全、渡航安全の守護神ということになる。3年に一度の大祭には、大幟を押し立てた舟で神輿が水上を運ばれる水上渡御もある。

 祭りは、ふだんでも見物客が殺到するのに、今年は、NHKテレビの朝ドラ『瞳』と連動して、ドラマと同時進行形式で放映されるという。どんな騒ぎになるか。想像するだに恐ろしい。

 鳥居の向かいの林を抜けた高台の「石川島灯台跡」には、灯台のレプリカが、威風堂々、海上を凝視している。幕末のペリーの来航で、突然、海防の必要に目覚めた幕府は、江戸湾の石川島(佃島の一部)で、造船を始めた。これが現在のIHI(石川島播磨重工)の発端になるわけである。

 この灯台は、人足寄場の奉行が、航行安全のために灯台を設けた史実に拠っている。神頼みも、人頼みも共におろそかにせず、昔の人はなんと懇切丁寧に暮らしていたものか。

 きょうは朝10時過ぎに本願寺の前に立ったはずだが、すでに夕暮れどきになろうとしている。急いで、きょうの最後にとってある場所へ向かうことにしよう。(と思ったが、まだ佃煮を買っていないことを思い出して、いつもの店ヘ寄る。「いつも」はどの店かって? それは、言わないことにする。)

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 最終目的地は、住吉神社界隈からだと、清澄通りをはさんで、ちょうど反対側ということになる。かつて新佃島と呼ばれた埋め立て地である。現在はすべて佃になってしまったが、新佃島東町、西町と、旧町名の響きが、間違いなく新開地だと告げている。

 このあたりに、「海水館」という旅館が、明治30年代末にあったという。昔の文士は、旅館を根城にして、街を徘徊し、文章に綴ることをよくしていた。この宿もそんな拠点のひとつだったのであろう。

 宿泊客のリストがすごい。島崎藤村、小山内薫、木下杢太郎、市川左団次、三木露風、吉井勇、久保田万太郎、竹久夢二、日夏耿之介らが挙がっている。藤村の場合は、『春』を、ここで執筆したらしい。

 部屋から房総半島が一望にできた、というのがまたまたすごい。現地にたどりつくと、平たい石の無愛想な碑が、そっくりかえりながら、立っているだけなのだが。

 現在では、ここから眺められる風景にも、あれこれ批評できるほどのものはない。しかし、かつての素晴らしい眺めを想像すると、胸の高鳴りをおぼえるのである。少しだけ昔の時間のなかに入り込むことができた気がしてくる。

 それもこれも、きょう一日、あっちこっち歩きまわったおかげと思えば、勇気づけられるのである。
[2008.8.1.]

読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!


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