TOKYO
20078.17.

☆トライアスロン・ロック中毒・不動産好き

カット

 午前3時ごろ、銀座から走りはじめる。赤坂を過ぎ青山を越えて1時間。渋谷の奥の自宅に帰り着く。樋渡(ひわたし)洋さん(37)は週に1度は、こうして深夜の東京を走る。単なるジョギングではない。トライアスロン競技に出場するためのトレーニングである。

 トライアスロンは、過酷な長距離耐久レース。距離数はさまざまだが、スイム・バイク・ランの形は同じ。伝統のハワイ・アイアンマン(鉄人)レースの場合だと、まず3.8キロ泳ぎ、180キロを自転車で疾走、最後にフルマラソン(42.195キロ)を走りきる。

 樋渡さんの仕事はバーテンダー。酒を飲んでいない晩、店を閉じてから走り出す。それがほぼ週1。夜の銀座で現役のトライアスロン競技者は、自分を含めふたりだけ。

 夜の街のはずれ。狭い螺旋階段が地下へ下りていく。重いドアの奥にあるバー「酒仙堂」(銀座6丁目)は、7人で満席。樋渡さんはたったひとり、客の注文に応じて酒をつくりつづける。

 「ここでの主役はお客さん。ぼくは裏方。おいしいと言われればうれしいけれど。内に秘めた、めらめらする部分は、トライアスロンでさらけだす。競技は、見たこともない自分を探す旅に出るようなもの」

 800人近く参加するレースで100位ぐらいに入る。トップが9時間を切る記録なら自分の目標は11時間に。問題は勝負ではない。自己表現の場と考える。

 トライアスロンをはじめて5年。仕事のことばかり考えていた以前より集中力が出てきた。30分空きがあれば無駄にせず走り、あるいは自転車を漕ぐ。時間を有効に使おうとする。結果、考え方がポジティブ(前向き)になった。

 バーには「毒を吐きにくる」客がたまにいる。グチを言いつづけたり、不平不満ばかりだったり。そんな客に負けない体力気力がついた。逆に「いやあ、大丈夫ですよ。がんばりましょう」と、明るく言ってあげられる。

 樋渡さんは10年前まで、故郷の久留米(福岡県)で、ラウンジバーの店長をしていた。テレビで、棚にたくさんの酒瓶が並んでいる東京のバーの映像を見て、憧れる。あそこで働きたい。その一心で上京した。親に借りた10万円を手に。

 知り合いが物置に使っていたマンションの6畳間。1畳半ぐらいのすき間に寝起きするところから、東京暮らしがはじまる。奮闘努力の末に、銀座のバーのオーナーになったのである。

 「自分は地方の出だからか、人込みではくつろげない。緊張する。そこで、仕事が休みの週末に山登りをするようになったのがはじまり。登りながら、知らない人から、こんにちはと声をかけられ、ほっとした」

 その後、高校生のころから憧れていたトライアスロンへ。かつて、失恋した翌朝など、気を紛らすため、なにも考えず走りに走った。すると、ストレスが気持ちよく発散された。

 いま、深夜の街を走る樋渡さん。珍しい樹木を見上げ、これ何の木? と自問。しばし立ち止まって道路工事現場を覗き、がんばってるなと思う。走っているのに散歩の気分になる、きょうこのごろ。(2007.6.14)

-----------------------

 中学のときは、いつも頭痛がしていた。高校では、受験のためのクラス分けに翻弄された。大学に入り、20歳になるころには、魔法でもないかぎり俺たちに年金はまわってこないな、と確信した。

 頭に来る。みんなどっかで嫌な感じがしていた。だから、若者たちは学生運動へ行き、ヒッピーに憧れた。アリこと、有田武生さん(59)は、ロックに出会い、電気ギターに没入し、いまも弾きつづける。団塊真っ只中の世代である。

 30代のころ、すでに音楽をやめた仲間から「まだやってるのか」とあきれられた。40代になると、逆に「いいなあー、おまえは」と羨ましがられた。50代のいまは、いったい何と?

 もう何も。

 有田さんは、ロックバンド「ヤーズ」のギタリストである。力強く重い音が、ロックに年齢はないことを告げる。他のふたりのメンバーは、50歳前後。年に数回はライブをする。好きなのは野外ステージ。「圧迫感がないから」

 ロックは仕事ではない。趣味でもない。中毒である。勝手に中毒をやめるわけにはいかないのである。

 「20代のころは、世界が即変わると思った。魂が見えると信じた。魂を表現するのがロックだった。フォークは語りかけたけれど、ぼくらは叫んだ。生命を讚える叫びだった」

 しかし、世界は変わらなかった。あれは予告編か。それなら、生きつづけて本編の終わりまで見届けようじゃないか。その気概を支えるのがロック──。

 東京造形大で彫刻を学んだ有田さんは、40代のころ、彫刻家として活躍した。住宅団地や公共空地のモニュメントの制作をして、大きな収入を得た。仕事の受け皿にする会社を設立し、自ら社長になった。

 ちょうど同じ頃、まだ出始めのパソコンに遭遇する。画像処理が簡単にできる。夢中になる。時間ばかりか、彫刻の稼ぎを注ぎ込む。生活費に食い込むほどに。

 バブルの崩壊も重なり、成功からは見放された。「結局、音楽が邪魔した。生活のために必死にがんばる気持ちになれなかった」

 もっとも、パソコン狂いのおかげで、いまはウェブデザイナーとして、ともかく生計が成り立つ。

 「絵に描いたような」郊外都市、国立市に住んで30年。有田さんの一日は、朝6時ごろにはじまることも、9時の場合も。目覚めたとき次第。

 パソコンに向かい30分ほど、ホームページ管理の作業をする。やがて、傍らにいつも置いてあるギターを取り上げ、しばらく弾く。音が、遠慮がちに独り暮らしのアパートを回る。やがて仕事に戻る。この繰り返し。

 酒も煙草もほとんど縁がない。知己にもあまり会わない。ひとりの時間を楽しむ。週に1日だけ遠出をし、隣県に暮らすガールフレンドに会いにいく。うれしい。そこなら、大音響でギターが弾け、ピアノを叩けるから。

 いまは、団塊定年の時代と言うけれど、有田さんに定年はない。淡々と仕事をし、ギターの弦をまさぐる日々がつづく。そして、夏が過ぎればまもなく、還暦がやってくるであろう。それだけ。(2007.6.20.)

-----------------------

 不動産はおもしろい。人間と同じで、ひとつとして同じものがない。同じマンションでも間取りがちがい、似たロケーションでも、日当たり風向きは別。上窪美奈さん(30)は、週末になると、都内の物件を見に出かける。ほとんど趣味である。ワクワクする。

 都心物件が大好きで、他の地域には足を踏み入れない。不動産の業界で「城南エリア」とも呼ばれる地域である。南麻布、元麻布などの港区、あるいは目黒区、渋谷区、さらに世田谷区の一部を含む一帯。

 「むかしの街並みが崩れていないのが特徴で、昭和のはじめから静かな環境を保ち続けてきた街です。築20年にもなるマンションが、いまなお新築当時より値上がりする現象も見られます」

 都内各地で再開発が進んでいるが、それら新しい街に比べ、都心の住宅地は、資産価値からも魅力がある。

 3年前、上窪さんは、年長の夫と暮らす自宅を建てた。その際、約100箇所の土地物件を見て回った。その結果選んだ、渋谷区内のものは理想的であった。

 前面に6メートル幅の道。これだけ大きい道路付けがあれば、地価は下りにくい。南側には寺と墓。日当たりがよく、将来も採光を遮る建物ができる心配が少ない。さらに周囲は、伝統のある私立校の多い文教地区だから、社会環境が良好。犯罪率も低い。

 これでほぼ「決まり」だが、さらに、買おうとする土地の土壌を調べる。両国の江戸東京博物館の図書室に出向いたり、ネット上で江戸の古地図にあたり。そこにむかし武家屋敷があり、土壌が固いのを確かめた。以前は沼、などでは困ってしまう。

 上窪さんの不動産を見る目は、20代の早い時期から、デベロッパーで分譲マンションの販売企画を担当し、銀行の不動産部門にも勤めて、養われた。土地建物を見て精査する楽しさも。
 1年前、不動産オークション事業をするベンチャー企業に転職した。日本では、不動産をオークションで売れるようになって日が浅い。これをインターネットで仲介し広めていくという「開拓者」のような仕事に就いたわけである。

 一方で、4年前の結婚後から、個人的に不動産投資をはじめた。対象は住宅で、売買を通じて利益を挙げるのではなく、取得した物件はずっと所有していて賃料で収入を得ていく。

 「借り手がなくて空室になるのが、いちばん怖い。借りてくれる人をイメージしやすい界隈やスペースを選んで投資することがいちばん。だから、日々の暮らしやすさ、住み心地に敏感な女性の感覚が役に立つ」

 将来は、寒い季節には海外の暖い土地で暮らし、温かい季節に日本に戻るという、1年を2分する生活をすることを考えている。だから、外国の不動産を持ちたいと、強く思う。

 預貯金は目減りの不安。年金はこころもとない。そこで、キャリアも人生設計も、「より確実な」不動産の上に立ち上げるという生き方。「カメラもパソコンもスペック(仕様)を細かく検討するのに、住む家を不動産屋さん任せなんて信じられない」と。(2007.6.28)
[2007.8.17.]

読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!


この記事のURLを友人・知人に知らせる
HOME自由意志購読フレームを外すBACK