★「東京はぜ釣り研究会」会長の和竿ひと筋 |
工芸品のように美しい■
木場に生まれて木場に育ち、サラリーマン生活を恙なく終えて、いまはハゼ釣りに興じる。「ひっくり返らない程度にウイスキーなめてね、最高」
それはそうであろう。「東京はぜ釣り研究会」の会長、小笠原尚武氏(76歳)の余生は、天気晴朗にして波静かな、うらやましいくらいに理想的な航海にも似ている。
木場3丁目のお宅へうかがうと、ダイニングルームの壁に、布の袋におさめた釣り竿が、まるで刀か槍のような風情で並んでいる。釣り会の番付を収めた額がふたつ。さらに、テレビの隣りには、「倅が持ってきた」というクチボソやフナが泳ぐ水槽が置かれている。
小笠原氏は、挨拶もそこそこに、竿に手を伸ばして、袋の紐をほどく。と、見事な和竿が出てきた。漆でコーティングされた、竹製の釣り竿。まるで工芸品のように美しい。これで釣るのかぁ。
「この部屋にあるのはみんな和竿。ハゼは和竿で、というのが、我々の会のポリシーだから」
当方、釣りにまるっきり不案内だけれど、この竿を見せられた瞬間、ハゼ釣りの世界が急に魅力的なものに感じられた。それほどに迫力のある逸品であった。
魚釣り人生、佳境に入る■
小笠原氏のハゼ釣り人生も、じつは竿からはじまっている。それも竿を自分でつくるところから手をつけているというから、深い。
木場の生まれだから、小さいときから、釣りには親しんできた。昭和3年生まれの同氏が育つころは、深川は、文字通りの「水の都」であった。とりわけ木場には、細かい水路が張り巡らされていた。材木を組んだ筏が浮かんで、その間にクロメダカが泳いでいたりする。
一帯は材木店ばかりで、小笠原氏の父親も、羽柄屋の2代目であった。羽柄材は、小さい断面の板材で、天井裏とか床下など、家が完成すると隠れてしまう下地に使う木材である。
そのまま行けば3代目を継ぐはずだが、先の戦争で進路がカーヴした。実科工業学校(現在の都立墨田工高)に進学して、さらに、寺社建築で知られる池田建設に入り、「建築屋」の道を歩んだ。営業でバリバリやってきたが、50代で内勤になり、考えた。
〈会社はやがて定年になる、しかし、人生はつづく。ずっと自分が打ち込めるものを身につけたい〉
大好きな釣りを究めよう、それには竿づくりがいい、という結論であった。赤坂にある会社の帰りに、中野まで行き、和竿工房の教室に通った。自宅のある木場とは、反対方向である。赤坂−中野−木場というルートを思い描いてみれば、小笠原氏がいかに竿に打ち込んでいたかが想像できる。
「布袋竹でつくるんだけど、竹はまっすぐじゃない。曲がりを直すのが難しい。火入れをすると、細い先端がしょっちゅう焦げて落ちてしまう。そのたびにはじめからやり直し。素人にはなかなかにきつい」
と話しながら、なんだかひどく楽しそうなのである。
10年にわたる修業の末に、竿に名前を入れられる允許状を受けた。自分の本名の一字をとって、寿尚と名乗った。教室を通じて、はぜ釣り人の集まり「東京はぜ釣り研究会」を知り、会社を辞めたのと同じ平成2年に、入会した。マイ和竿も、こうして釣りの現場にデビューすることになる。その数、50組に及ぶという。ハゼ用だけでも20組はあるとか。
小笠原氏の釣り人生は、和竿のハゼ釣りで、いよいよ佳境に入ったと言える。
練り舟は巡る、東京湾岸の運河■
午前8時、「研究会」の面々は、門前仲町に近い古石場の船宿「深川富士見」に集まる。40人近くの会員がいるが、顔を見せるのは、だいたい半分ぐらい。
一行を待っているのは、和竿釣り用の船である。釣り場まではエンジンをかけて走るが、到着すると、櫓を下ろして手漕ぎに切り替える。これを練ると言い、和船仕立ての船は、練り舟と呼ばれる。現在、練り釣りが楽しめる船宿は数軒しかない、という。
くじ引きで座席を決め、船の両サイドに分かれて、座を占める。やがて船が動き出す。
どこまで行くのか。年によって釣り場は変わる。日によってもちがう。ハゼに訊くわけにもいかない。食いがいまいちとなると、すぐに船を移動する。東京湾に流れ込む、東雲運河、朝潮運河(通称月島川)、あけぼの運河など、周辺の運河を巡り、隅田川に出ることもある。
熟練の船頭が、潮の流れを見ながら練りだすと、静かな釣り人たちは、神経戦に突入する。
「ハゼ釣りは、レースなんだ。江戸時代からそうだった。あいつに前のときしてやられたから、今度こそ負けるもんか、つぶしてやるんだと誓うわけ。みんなそうだよ」
隣りの人の、竿にちらちらと目をやって、その長さをチェックする。同じ長さの竿を出すと、先に魚がいる場合、とられてしまう。そこで、短いのがいいか、いや、いっそ長いのにするか。駆け引きと計算である。だから、数本の竿を持参していて、時に応じて替えていく。
他人には、何事も教えないのが鉄則である。なごやかな仲間同士ではあるけれど、手の内はけっして見せない。「そっちの仕掛けだけどさあ」などと探りを入れられても「ううん、みんなと同じだよ」ととぼけるわけである。
ハゼはいったん食いがよくなると、どんどんかかる。と、一転して、手早く餌をつけ針を取り換える「スピード競技」に一変する。のろのろしていると、「なにやってんだよ。こんなときにもたもたして」と、遠慮のない罵声を浴びせられたりもする。
戦いは午後2時半には終わり、3時には戻ってくる。300尾も釣り上げて、優勝をさらう者もいる。小笠原氏は、平成6年に3代目の会長に就任した当時は、準優勝の経験もあるが、その後、「だんだん腕が落ちてきたな。年のせいだ。だけど、隣りより釣れたら、最高と思うし、だめだと、俺の数なんか言ってくれるなよ、という気になってしまう」と話している。
釣り人の心中は複雑であるらしい。
釣り竿への愛、ハゼへの愛■
ハゼ釣りの魅力って、一口で言うと、どういうことですか。
「一口って言われてもね。その竿がいい具合に調子が合って、錘の重さとかも合って、ふふふふふふ」
うれしそうですね。要するに、和竿だからいいってことですか。普通の竿とどうちがうのでしょう。
「なんかあれだな。感覚がまるでちがう。竿の跳ねっ返りの弾力性。跳ねっ返りがハゼに合ってるのかな。グラスファイバーなんかより。あの竹のしなり、見ていてもいい、とてもいい」
小笠原氏はさらに、江戸時代の釣り風景を描いた版画を示して、「そのころとおんなじだよ、釣り方が。いいだろ」とすっかり悦に入っている。
つまり、これは美学である。和竿の美しさに魅せられ、やがて離れられなくなる。男と女の間柄みたいでもある。すると、こうして釣り上げるハゼに対しても、深い愛情を抱いているのでは、と想像したくなるのですが。
「夏のまだまだ小さなハゼは、このあたりの親水公園でも、糸を垂らすと、ちゅっちゅっと食っていく。もちろん、見えるわけではないんだけど、ちゅっちゅっちゅっとやるのがわかるんだ。でかくなると、ちゅっちゅっなんてもうやらないんだな。自分のお腹で餌を押さえてみるんだ。それを、ハゼが乗るって言うんだけど。食べても大丈夫かなと調べる。それからはじめてくわえる。はぜは賢くなるんだよ。その賢くなったハゼを釣る。だからおもしろいんだ」
いつまでも聞いていたいハゼ談義である。ハゼ釣り人の優しい心根が伝わってくる。こういう微妙なハゼとのコミュニケーションも、魚の動きを細かく知らせてくれる和竿だからこそできる、ということであろうか。
夏から秋へと、「賢く」なっていくハゼを相手にするのが、和竿の練り釣りというわけである。小笠原氏の「研究会」では、9月から12月までの間に、7回の例会が組まれている。
不粋なことをお尋ねしますが、釣ったハゼは、その後どうなるんでしょうか。
「うちのカミさんは寿司屋の娘だから、魚の始末ならうまいんだ。だけど、ハゼは小さいし、数が多いし、面倒くさがってやんないんだ。だから、ほしいと言う会員にもっていってもらうことにしている」
刺し身、天ぷら、甘露煮。釣りの奥義に無縁の当方、ついつい、食い意地のほうへシフトしてしまうのである。悪しからず。
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初出=下町情報誌『深川』162号
[2005.1.14.]