★大衆演劇スター・絵画修復家・アンティークドール |
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マンションの寝室に、母の仏壇を置いている。「うそも隠しもなく、いつも一緒にいたい」から。
母親の美千子さんは12年前、がんで亡くなった。54歳であった。ひとり息子の竜小太郎さん(33)に残した最後の言葉は、「これからはあなたが思ったことをしっかり、前向きにやりなさい」
竜さんは、いまでは大衆演劇のスターである。年に数回、各地で座長公演を打つ。ダンサーだった母譲りの踊りは華麗。歌にも芝居にも才能を見せる。大の得意は、早変わり。観客をめいっぱい楽しませる。
しかし、母が逝った頃は、前途を悲観していた。客が自分を一人前の男として見てくれない。客の入りもひどいもので、わずか5人ということもあった。役者をやめようと何度思ったか。
ところが、母の死から1年が経った頃、客の反応が変わったのに気づいた。自分を見る目が、明らかにちがう。男として見てくれている。波が来たのを感じて勇気が湧く。
実は竜さん、かつて「山ひとつ爆発したような」人気者であった。大阪・名古屋方面の劇場で、浪花のチビッコ玉三郎、略してチビ玉として喝采を浴びた。舞台の公演は一日2回が常識だが、チビ玉は5回もこなした。当時まだ10歳。
お金を稼ぎ出しているのは自分だからと、同行する継父に迫って、ファミコンを買ってもらう。舞台の休み時間に熱中する。しかし心は満たされない。劇場から劇場を回る「旅芸人」に友だちもできようはずがなかった。
秘かに交通費を貯めては、だれにも告げずに、行方をくらました。「家出」である。自由がほしかった。連れ戻されても連れ戻されても。
チビ玉ブームは、やがて終息する。竜さんの中学入学時期と重なった。こうして大好きな母とふたりきりの生活がはじまった。継父は劇団と共に始終旅回り。
母子の住まいは、新小岩(葛飾区)の木造モルタルアパート、五十嵐荘。四畳半一間。幸せだった。
竜さんが生まれたのは浅草。浅草寺の裏手。実の父を知らない。写真もない。「ほんとのお父さんはどこにいるの?」と問えば、母の答えは「知りません」ばかりであった。
母を失って、竜さんはチビ玉から脱皮を遂げた。母は我が子をひとまわり大きな役者に成長させるために死んでいったのかもしれない。そんな気がする。
竜小太郎さんは、きょうも、北千住のステージに立つ。(2008.4.3)
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JR神田駅から南に下り、隅田川に至る界隈。日本橋本町、小伝馬町、大伝馬町、横山町などの町名がつづく。一帯は、昔ながらの卸問屋の街である。その一角に、洋画家、飯田達夫さん(59)のアトリエはある。
なにか不似合い。「そんなことはない。私はキャンバスを手作りするから、良質の布生地が近くで手に入りありがたい。それに5分も歩けば薬品が各種揃う」
薬品? 「そう。絵の修復に欠かせない。小売りもする店で買い求める」
飯田さんは、絵画の修復家でもある。傷んだ作品に、新たな生命を吹き込む。「まったく無名な絵なのに、傷みを取り除くとすごくいい絵になることがある。とても気持ちがいい」
このアトリエは「油彩画技術修復研究所」と名乗る。油彩画とは油絵のこと。イーゼルを数脚、楽に立てられる広さがある。
3年前、個人のアトリエを閉じ、ここに移った。技を磨いてきた自分を初心者のレベルに戻し、後進に教えるため。「生徒」は数人。芸術は徒弟制しかないとの考え方。一昔前のパリのアトリエの感じか。
飯田さんの絵画遍歴は、東京芸大に入学した年の暮れにはじまる。油絵の模写をしようと、友人に誘われた。描き出して疑問が湧いた。同じ絵の具を使うのに、ヨーロッパの昔の絵といまの自分たちのとは、なぜちがうのかという疑問。技法(テクニック)がちがっているためとわかる。
絵ってなんだろう? 技法を学ばねば。休学しフランスに留学した。憧れの教授に師事。ループル美術館などに通っては、模写に没頭する。2年後、日本に戻り芸大を卒業した。しばらくして、またフランスへ。
30代にかけ絵画の修復を徹底的に勉強し、一流の腕に。ユトリロやアンリ・ルソーなどの作品の修復を手がけた。「でも、絵が分かるようになったと自覚したのは40歳過ぎ」
画家であり修復家でもある飯田さんの場合。どちらの世界も見通せる。
美術館ではふつう、50年もちこたえた所蔵作品は修復する。どんなにいい仕事をしても、50年の命ということでもある。これが修復の運命。後世に自分の名前が残ることもない。ただし悪名ならいやでも残る。失敗作は悪評が消えないからである。
飯田さんは、ベルギーの美術館で、「恐ろしく下手な」ポートレートがかかっているのを見たことがある。顔の部分がひどい。じつはこれ、もともと顔が欠けていたのである。そこへ修復家が、自分で勝手に描き込んだ。
「作品を遺した作家の感性と修復家の技術との橋渡し役が必要になる。その役目を引き受けていきたい」(2008.4.10.)
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幼いころ、人形を60体は持っていたはず。ずっと人形に夢中。帰宅する自分を、愛してやまない人形たちが出迎える。「生まれながらの人形体質。おもちゃ屋でも、人形しか目に入らない子どもだった」
「人形命」の川島美智子さん(45)はさらに、2年前、根津(文京区)の裏通りで、人形店「懐古どぉるMicico(ミチコ)」を開いた。9坪弱の店内は、アンティーク・ドールと呼ばれる西洋人形でいっぱい。
19世紀の後期から20世紀はじめにかけ、ドイツやフランスのお金持ちの奥様、令嬢に愛された、素焼きの磁器製。二度焼きして丁寧につくられた。同じものはひとつもない。値段は一体が百万円を超えることも珍しくない。
川島さんは店の床にかわいいマットレスを敷き、裸の人形を寝かせ、慈しみながら着替えをさせている。
15歳の女子高生のとき、学校帰りに制服のまま立ち寄った銀座の人形店で、初めてアンティーク・ドールに出合った。強い目の光に魅かれた。一度壊してしまうと二度と元に戻らない、その危うさにも。
ただし、高校生が買える値段ではない。結婚し、専業主婦になっても、事情は変わらなかった。
家庭を壊すことなく、自分の心を満たすために、バイトを始めた。16年前、浅草の場外窓口で、馬券を売る仕事をする。これなら週末だけだから、負担は軽い。
おかげで、14年前、初めてアンティークドールを買えた。さらにバイトを増やし、マンション販売や保険の勧誘も手がけた。睡眠時間を削っても、人形の世話は欠かさない。真夜中にドレスを縫ってあげることも。満ち足りた一刻。
人形は増えていく。「初めて買った人形とは、いまもずっと一緒にいます。私以上に人形をかわいがる人はいないと思いますから、私と暮らしているのが、人形にはいちばん幸せにちがいありません」
人形好きの人の縁ができ、デパート催事や骨董市で、人形を売る手伝いをするように。売り口上もおぼえた。そしていまは、独立して人形店主になったわけ。ずっと人形に導かれて生きているような気もする。
川島さんの夫も、ふたりの息子たちも、妻あるいは母親を虜にしている人形に、まったく興味を示さない。近くに来ると古っぽい匂いがするから近づかないで、などとも言われる。「夫の場合は、私を別の生き物と見ているようです」
年に3回、それぞれ10日ずつ、人形を買い付ける旅に出る。行き先はつねにパリ。「これからも、この店を守り、人形たちと静かに人生の残りを生きたい」(2008.4.17.)
★[2008.6.2.]
読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!
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