| ★将棋プロの「わかってもらえない」世界 | ![]() |
「仕事はなに?」「将棋だよ」■
3年前のことである。飯島栄治氏(現在25歳)は、子どものころの友だちにばったり再会した。「いまなにしてるの?」と、大学の4年で就職活動に奔走している相手に尋ねられた。
「将棋」と答えると、「そうなんだ。ぼくも将棋好きだよ。で、仕事のほうはなにやってるわけ?」と重ねて訊かれる。「将棋だよ」
同じ答えを繰り返しながら、〈またか、困ったな〉と、心のなかでつぶやいていた。それまでも何度か、そっくりの袋小路に入り込んでしまったことがあるからである。
飯島氏は、150人前後いる、日本将棋連盟所属の棋士のひとりである。現在の段位は五段。つまり将棋のプロということになる。ところが、世間では、将棋を仕事にしているということが、なかなか理解されない。それで、こんな珍問答にもなってしまうわけである。
将棋連盟所属のプロ棋士には、ちゃんと給与が支払われている。それも、普通の生活が成り立つだけの金額という。そこまで説明してなんとか、「そうか、仕事なんだ」と納得してもらえるらしい。そうなって初めて、「自分の好きなことをして食べていけるなんて、うらやましいよ」と感心されたりもするわけである。
飯島五段を自室に訪ねた。6畳の部屋の真ん中に少し離して、立派な将棋盤がふたつ置いてある。仲間の棋士をここに呼んで、研究会を開き想定試合をするのだという。見回せば、窓の下や、押し入れの前に、うずたかく積まれているのは、全て将棋雑誌のバックナンバーである。持ち時間を告げるチェスクロックがひとつ。
将棋が全て、の幸せな世界に生きていることが、これだけでもわかる気がする。もっとも、プロに至るまでの道のりは、「人生の全てを賭けたようなものでした」と述懐するほどに、不安だらけで、とてもつらいものであったという。
全国小学生名人戦で準優勝■
古石場保育園、平久小学校、深川三中、そして、高校は両国の安田学園。飯島氏は、深川で生まれ、ここで育った。いまのところ、深川地域で唯ひとりのプロの将棋指しである。
保育園に通っていた頃のある日、雨が降った。外で遊べない。園長先生が思いついて、いろんな室内ゲームを抱えてきた。子どもたちはひとしきり、ゲームで遊んだ。しかし、すぐに飽きてしまう。なかでひとりだけ、将棋盤から目を離そうともしない小倅がいた。5歳の「エイちゃん」こと、飯島氏である。
帰宅しても、将棋が忘れられなかった。自宅で姉や父を相手に指すようになる。しかし間もなく、だれとやっても負けなくなった。これではしょうがない。仕方なく、児童館の老人クラブに出かけていった。そこにひとり、強敵のおじいさん(「この人には最後まで勝てませんでした」)がいて、教えを乞う。「きみ、将棋道場へ行ったらいいよ」とアドバイスされた。
これがきっかけで、小学校3年生のときに御徒町の道場に入門した。学校から帰ってくると出かけていって、夜まで指しつづけた。子どもの大会に出場すれば、優勝して帰ってくる。そんなことが何度もつづくうちに、「変だ。うちの息子は強いのかな」と、製麺業を営む親たちが、やっと気づきだした。
遂には、NHK主催の全国小学生名人戦を勝ち上がって、準優勝してしまう。飯島氏のプロへの道は、ここから本格的にスタートする。12歳の小学校6年生であった。
赤点の恐怖に耐えながら■
プロへの登竜門は、将棋連盟の新人養成機関、奨励会である。試験を受けて、ここに入り、純粋培養で育て上げられる。外の大会に出ることはできない。会員同士、切磋琢磨する。飯島氏は、師匠の桜井昇八段の推薦を受けて受験し、一発で合格した。
12歳の少年は、6級からスタートして、こつこつと階段を上りだした。男子でプロの棋士を志す場合は、だれもがこの道をたどらなくてはならない。
飯島少年を悩ませたのは、学業と将棋を両立させることのむずかしさであった。
奨励会での対局は平日だし、プロの先生の対戦に立ち合い、記録係を務めることも義務としてある。そのため、学校を休まざるをえない。しかし、先生たちは理解してくれない。とくに高校生になると、もう義務教育ではないから、休んで成績が下ってくると、相当にやばくなるわけである。
「はっきり言うと、ぼくは学校の勉強はしたくなかったのです。大学へ行くつもりがないのだから、勉強しても意味がないと思っていました。プロの棋士になる自信はあったから、将棋の勉強に打ち込みたかったのです」
赤点にも耐えて、なんとか高校を卒業し、将棋のほうでは同時に、三段にまで到達した。しかし、喜ぶにはまだまだ早い。プロへの最大の難関が待っていた。
三段リーグである。このリーグ戦を突破しなくては、プロになれない。勝ち抜くと四段の段位が与えられる。それも半年に一度、わずか2名に限られる。将棋では四段になって初めてプロと認められる。
「プロになるまでは、収入もほとんどありません。両親にも言われました。21歳か22歳までに上にあがれなければ、就職するとか家業を継ぐとか、考えないとダメだよと。でも、ずっと将棋ばかりしてきたぼくに、なにができるでしょう。親からそう言われたのは、けっこうプレッシャーになりました」
連盟の規定で、26歳になるまでにプロになっていないと、それっきり道は閉ざされることにもなっている。この年齢制限もまた重くのしかかる。
「上がれそうになったときが、いちばんつらかったです。ほんとうに上がれるのか不安でしょうがない。機会を逃すと、半年待たなくてはいけない。それだけトシを食ってしまいますし」
飯島氏は、20歳のときに見事にリーグ戦を勝ちつづけて、プロへの切符を手した。その8年半前、同じときに奨励会を受験した35人のうちで、プロの棋士になっているのは、わずかに3名だという。「それでもいいほうだそうです。同期でプロとして残るのがひとりだけのときもあるのです」
もしプロになれなかったらどうなっていたか。いま振り返ると、ぞっとするという。
「プロへの道のりは、ほんとうにつらいものでした。いまの子どもや、その親たちに簡単に勧められません。夢の実現などというきれいごとではありません。もっとも、いったんプロになれば、たしかに楽しい。自分が勉強して、チャンスをつかむと、名人を目指すこともできるわけですから」
勝った日のネクタイを、次にも■
プロになったいま、飯島氏の日常は、月に3回ないし4回ある対局を中心に巡っている。
次の対局がどうなるかを予測する、練習の日々がつづく。戦型を想定して、どう戦うかを煮つめていくのである。「ところが、実際戦ってみたら予想したのがはずれたりして、ほんと馬鹿だなぼくはとか、対局中に自分を責めたりすることもあります」
戦いはしばしば長時間に及ぶ。午前中にはじまったのに、夜にずれこんで、さらには翌朝、空が白々と明けてくるころまで決着がつかないケースも珍しくない。
だから、体力がないと、戦いぬけない。飯島氏は、自宅の近くのジムに通っている。いちばんの苦痛はランニングだという。スポーツ選手ならともかく、棋士なのに、なぜこんなことをしているのか、と自分に問いかけてしまうこともある。
対局最優先だから、数日前からお酒を控える。もっとも怖いのは、当日、腹痛に襲われることである。だから、前日は生ものを食べるのは避けている。対局の日には、昼の休憩で食べ過ぎてしまうと眠くなるので、麺類などの軽いもので昼食を済ませて、夕食だけ普通にするなどの工夫もしている。
飯島氏はまた、縁起をかつぐほうで、「最近は少なめにしているけれど」お不動さんや八幡さまへ、お参りに出かけては、必勝を祈願する。
勝ったときにつけていたのと同じネクタイを選んで着用する。さらに、朝食に食べる物、出かける時間、乗る電車を、すべて勝ちパターンで統一しないと気が済まない。
「眼鏡をいくつも持っているのですが、負けた日にかけてたのは、負けを忘れるころまでけっしてしませんね」
勝ちのイメージをいっぱいにふくらませて、対局に臨むわけである。「結局、ぼくたちの世界には、勝ちか負けしかないのです。どちらかで決着がついてしまいます。だから、なにかにしがみついていないと、不安でたまらないのです」
この言葉からは、妥協を許されない勝負の世界のきびしさがひしひしと伝わってくる。
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[2005.5.30.]
初出=下町情報誌『深川』164号
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