TOKYO
2007.12.17.

☆師走の浅草に、羽子板が妍を競う

カット

 浅草へ行くと、なにはともあれ浅草寺に参る。本堂が開いていても、閉まっていても。ともかくもお賽銭をあげて、手を合わせる。これが済まないと、浅草で遊んではいけないような気がしている。

 同じ東京でも、他の街では、そういう「縛り」はなにもない。子どものときからの慣わしを捨てられないだけのことかもしれない。不思議なものである。

 その日も地下鉄を出て、裏道伝いにお寺めがけて歩いて行った。闇のなかに、娘道成寺や助六がきらびやかに躍っていた。そうか、きょうは羽子板市であったか。不意を突かれて、12月のしんしんと冷える夜のなかに立ちつくした。そんなことがあった。

 大小さまざま、飾り羽子板の壮麗が、眼前に広がる。江戸の昔がそこに出現しているようでもあり、華やかな幻をながめるようでもあり。

 もともとは、江戸の武家や商人の家に女の子が生まれると、お歳暮に羽子板を贈る習慣があったという。それが、文政年間に至って、お正月用品を商う歳の市でも売るようになったのが、羽子板市の発端と言う。

 華やかな色彩の乱舞は、人々のわくわくする思いをいっそうかきたてたのにちがいない。

 明治の末に出た『東京年中行事』という書物には、こんなことが書いてある。「雷門から本堂にかけては、羽子板店がビッシリ並んで、仁王門を入って左側には宮師、所帯道具屋、本堂裏は注連縄と云うように、千二、三百軒と云う露店がずらりと店を並べてにぎわうのであるが……」

 いまとは比べようのない盛況だったにちがいない。暮れの準備に右往左往する人々の雑踏のなかに、美しい羽子板の列がどこまでもつづいていた様子が想像できる。

 明かりに浮かぶ羽子板の、鮮やかな色合いが流れだし、人々を包み、しっかり抱え込んでしまうかのような。人もモノも渾然として、光の海を漂っている。

 前月の11月、同じ浅草の鷲神社で行われる酉の市には、なにか殺気立った気分がある。それに対して、羽子板市は、人出の多いわりには、伸びやかであり、穏やかでもある。

 年の終わりがすぐそこで、もはやなにをどうすることもできない。そんな諦めの思いと、一方で新しい年への胸ふくらむ期待とが交錯するのであろうか。そんな心の揺らぎが、羽子板の華麗に慰撫されるのかもしれない。

 江戸時代には、歌舞伎のその年の当たり狂言に出演した俳優の似顔絵が盛んに売れて、高級なブロマイドのように珍重されたという。大店のお嬢様が小僧を連れてやってきては、羽子板の役者に恋い焦がれることもあったであろうか。

 浅草に住む友人が、以前、「ぼくは、羽子板市を一緒に歩きたくなるような女性と恋をしたい」と言ったことがある。羽子板のモデルにしたくなるほどの美女と出会いたいのか。「そうじゃないんだよ。羽子板市の、ちょっと古風な情緒がわかる女の人にあこがれているのだ、ぼくは」

 この友人は、いまは結婚して、3人の子の父である。奥さんという人には、まだお会いしていない。
[2007.12.17.]
(浅草の羽子板市は、12月17日から19日まで)


この記事のURLを友人・知人に知らせる
HOMEフレームを外すBACK