TOKYO
2007.7.9.

☆ラッパー・ベルリンの串揚げ・中国人ジャーナリスト

カット

 幼稚園のころ、夏みかんの種を砂に埋めたら芽が出た。バケツに植え替える。どんどん育つ。根を掘り返し、地面に移した。それから四半世紀近く経ったいま、トゲのある葉もたのもしい、堂々の成木に。

 仁井山征弘さん(27)は、「ぼくの夏みかん」の幹をときどき撫でてあげる。

 その物語って、曲にならないだろうか。「考えたことなかったけどなりますね、きっと」と声が弾む。

 仁井山さんはラッパー(ラップのミュージシャン)。ラップはブレイクダンスと共にアメリカに生まれたストリート・ミュージックである。韻を踏み、語呂を合わせ、まるでしゃべっているように歌う。

 若者たちの集うクラブで人気のラップ。さらに広く題材を求めて、自分独自の表現手段にしようと仁井山さんは心に決める。

 結果、落語の名作を一ヵ月かけてラップ化した「ときそば」、食べもの賛歌「ジンギスカン」や「ビールDE乾杯」など、意欲的な曲を連発することに。

 ライブでは、織田信長の一代記をわずか6分にまとめて歌ったり。「さあみなさんもうご存知ぃ/戦国時代の風雲児ぃ/その名はぁ 織田信長ぁ/イエー さあそんじゃいこうぜ カモン レディ ゴー……」

 というわけで、オリジナリティを求め、ラッパーは日本の歴史もさかのぼってしまう。

 ラッパー仁井山さんは多摩川に近い町、雪谷大塚(大田区)で育った。町の人にかわいがられ、裏表がなく、人前で恥をかくのを厭わない。父も母も美容師。子どものころ、自宅に帰ればいつも両親がいた。愛情に飢えることはなく、人を疑わず、真っ直ぐに。

 始終うなるドライヤーを縫うようにして、ラジオの音が低く、父母の美容室に流れる。いまも仁井山さんは、親たちが立ち働く店の空いた椅子で、午後いっぱい考えをめぐらし、曲を書く。「あそこにいると、いろんなことが自然に頭に浮かぶんです」

 クラブのイベントがあれば、深夜過ぎの仕事になる。空きの日は、たびたび真夜中の街を歩く。

 最近の最長散歩距離は、友人と蒲田で別れた後、大森まで歩き、さらに「気持ちいいから」環七を経由して自宅まで。ゆうに2時間かかった。

 距離も時間も気にならない。歩きながら、思いついた言葉をつないでラップを歌いつづける。「足音ワンツーのリズム/に乗っかって/俺が韻踏む/ここは大森ぃ/そんじゃ行きますか/雪谷大塚までの道のりぃ」という具合に。

 自転車に乗った人が不思議そうに振り返るのもかまわず歌う。コンビニの灯が遠くに見えてきれいだなと思ったりしつつ。

 仁井山さんにとって、ラップは、生きるためのエネルギー源になっている。

 「ぼくの夢は、ずっと笑って楽しくハッピーに過ごせること。年とって死ぬときになって、ああ楽しかったと言って息絶えたらいい。それだけかな」

 新曲「MOTTAINAI〜もったいない〜」では、ラップで子どもたちに節約の心を教えようとする。この曲はいま、テレビの『みんなのうた』で、毎日流れている。(2007.4.12)

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 ドイツの首都ベルリン。街の中心部に拡がるティアガルテンの森から遠くないザビニー広場には、ぽつぽつと「いい感じ」のレストランがいくつか。その一軒に2ヵ月に一度、日本から大荷物の男がやってくる。

 荷物の中身は子持ち昆布やかつお節などの食材がぎっしり。重さ80キロの石灯籠を、日本から運んで飾ったこともある。ここは、ベルリン初の串揚げ屋「串乃家」である。男は、店主の松本巧さん(57)。オープンして5年になる。

 「私が優秀な事業家なら、まずパリに出店したでしょう。日本人客で固めてから現地の人を取り込むべきですから。パリなら日本人がベルリンの20倍もいるのに。落第経営者は苦労してますよ」

 本店は神戸三宮にある。創業して間もなく30年。しかし、松本さんには、もっと長い付き合いの「友」がいる。チェロである。高校生のとき、かわいい女の子に会いたくて、弦楽部の部室を覗いたのが運のつき。以来、この楽器から離れられない。

 外国人の音楽仲間と心から話したくて、串を揚げながら、ドイツ語を学びはじめる。やがて、年に数回ドイツを訪ねるようになる。交友の輪が拡がる。

 11年前、神戸の店に、ベルリン・フィルハーモニーのチェロ奏者がやってきた。皇居で御前演奏の経験もある名演奏家。プロアマを横断して、300人あまりの奏者によるチェロ・コンサートを、ドイツで実現したという。「日本でもやらないか」ともちかける。

 これがきっかけとなり、阪神大地震から3年経った98年、「1000人のチェロ・コンサート」が神戸で実現する。集まったチェリストの実数は1013人にのぼる。一昨年まで、3回開かれている。

 この壮大な試みで、松本さんは事務局長として陣頭指揮にあたってきた。コンサートには、地震で生命を落とした人々の追悼の意味が込められる。松本さん自身も被災者で、倒れてきた書棚に押しつぶされかけ、肋骨を折っている。

 第1回のコンサートを成功させて、その後に訪ねたベルリンで、チェロ仲間たちが市内を連れ歩いてくれた。いちばん気に入った界隈に「ベルリン店」を立ち上げてしまったという。

 松本さんの人生はチェロを抜きにしては考えられない。チェロのおかげで、ドイツに縁が生まれた。

 さらに、一昨年の暮れに銀座店をオープンする。店内は、串揚げ店の常識を破る真っ白いカウンター。韓国から運ばれた人工大理石である。椅子がアメリカ製、タイルはイタリア製のインターナショナル。

 この内装を依頼したスイス人のデザイナー夫妻は、ベルリンの店の常連客というつながり。「私は彼らに任せっきりでしたが、本店ともベルリン店ともちがっていていいのでは」

 銀座店のお通しに、ハープのパイや野イチゴのシャルロットなど、見慣れないフィンガーフードが出る。松本さんのドイツの友人に政府の迎賓館で料理長がいる。彼が外国からの賓客のパーティに工夫した、おもてなし逸品である。

 チェロの音が低く流れて、神戸、ベルリン、そして東京をつないでいるみたいではないか。(2006.4.19.)

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 井の頭公園の界隈に暮らして10年。先のことはわからないが、他の街へ引っ越すつもりはない。

 東京ではじめて住んだのが蒲田。駅から徒歩30分の木造アパートであった。かつて中国で観た映画『蒲田行進曲』が大好きで、地名だけで期待に胸ふくらませた。しかし、あの街は自分には合わなかった。その後、下落合を経てここに落ち着いた。

 于前(38 ユー・チェン)さんは、生まれも育ちも北京。父親は、大学で語学を教えてきた。夕食を終えると家族みんなで散歩に出かける。朝は早起きして運動をする。于さんの一家だけでなく、これが中国の都市生活者一般の慣わしである。

 「だから、東京で生活をはじめたころ、ショックだったのが、街で家族の姿、子どもの活き活きした姿が見られないことでした。それが悩みでもあり、おそろしくもありました」

 吉祥寺駅の周辺を歩いていて、井の頭公園に出合った。そこには、散策を楽しむ老若男女の姿があった。犬の散歩。おしゃべりする若者。表情豊かな緑と水。心の余裕が感じられた。「中国に似ている」と思い、近くに住むことに。

 東京の大学で写真の勉強をし、卒業して北京に戻り就職する。于さんは、そのつもりでいた。ところが、単身で東京に来てから18年、いまも東京に居続ける。どこかで、人生の設計図を描き替えた?

 「私が留守してる間に、中国は信じられないぐらい変わりました。影もなかったカラオケがどこにもあるし、かつて1元あればいろんなものが食べられたのに、いまは10倍の値段です。そこへ帰っていくのには相当の勇気が要ります」

 急速に発展する中国は、自分の育った社会とは別なものになっていると感じるのであろう。

 写真専攻で大学を終えた当初は、東京を撮りながらバイトした。映画のロケ先で、中国人役の日本人俳優に「中国語的日本語のしゃべり方」をコーチしたことがある。香港の雑誌の依頼で、ロケ現場の写真を撮り、同時に記事も書いた。これが端緒になった。

 香港、台湾、それに中国本土、合わせて7つの雑誌と契約するフォト・ジャーナリスト。于さんの現在の仕事である。写真と原稿の両方を受け持つ。

 「東京は世界中の情報が集まる都市です。ここから中国が、世界が見える。それがおもしろくて」

 この5年ほどは、中国本土のメディアに、日本文化について書く機会が増えた。日本人も中国人もお互いのことを知らなすぎると思う。

 先日、茶道について、日本の著名な文化人に取材を申し込んだ。すると即座に「知らないよ。茶会? ぜーんぜん」と言われて笑ってしまった。中国人の常識では、日本人はみなお茶を立てる。また、日本の女性はふだん和服で歩いていると思い込んでいる中国人だって少なくない。

 ──于さんは以前、一時帰国するため、成田空港行きの電車に乗っていて、急に涙があふれたことがある。中国も日本もどちちも「遠い国」に感じられて。

 最近、北京の狭い狭い胡同(路地 フートン)で遭遇した老女。その屈託のない笑顔に、懐かしい故郷へと連れ戻される思いがした。(2007.4.26.)
[2007.6.11.]

読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!


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