TOKYO
2004.4.2.
☆日本のコンビニ 1 号店@豊洲、若き店主の奮闘努力

「後戻りできなかった」■
 
 インタビューの間に、山本憲司氏(54 歳)は、「後戻りできなかった」と、三度繰り返した。前へ進むしかなかった「あの頃」の記憶が、しきりに頭のなかを巡っているようであった。

 いまからちょうど 30 年前、昭和 49 年 5 月 15 日、当時 24 歳だった山本氏は、海のものとも山のものともわからなかったコンビニエンス・ストアをオープンした。それが、日本に於けるセブンイレブンの 1 号店である

 信じられないことだが、ファミリーマートもローソンもサンクスも、まだ存在していなかった。アメリカから上陸したセブンイレブン。その日本で最初の店が、このとき江東区豊洲4丁目に生まれたのである。若い山本氏は不安に胸を震わせながら、ひとりレジに立っていた。

 それから四半世紀あまり、現在の豊洲では大型再開発が急ピッチで進み、大学のキャンパスも移ってきた。

 地下鉄駅に近い 40 坪あまりの 1 号店には、昔を思い出させるものはなにもない。見事に整頓された商品棚、丁寧な手書きポスター、明るくはきはき応対する従業員、それは模範的なコンビニ風景である。

 なお、セブンイレブンは、昨年、遂に 1 万店を突破した。
 
「もう店は壊してしまっていたし」■
 
 山本氏の「後戻りできない」人生は、19 歳のときに酒店を経営していた父親が急死したときにはじまる。大学生で長男であった。妹が高 2、弟はまだ中 2。母親もかなりの年配になっていた。家族の生活を成り立たせるために、大学を中退し酒店を継いだ。

 当時、酒の小売店は、商売の 7 から 8 割を配達に頼っていた。はじめはクルマの免許もなくて、自転車で得意先をまわった。効率がひどく悪い。なんとか客に店まで来てもらう手だてはないか。

 若い経営者は、答えを求めて、あちこちの商業セミナーに参加し、情報を集めた。すると、アメリカには、コンビニエンス・ストアという業態があるという。年中無休で、夜遅くまで開けている。店舗面積は、スーパーなどと比べてずっと小さくて成り立つらしい。これだ、と思った。

 しかし、自分ひとりではできない。商品を配送してくれるシステムがないとやっていけない。困ったな。

 そんな矢先、そのころは中堅どころのスーパー・チェーンだったイトーヨーカ堂が、アメリカ・テキサス州のサウスランド社と提携するという新聞記事を読んだ。同社は、全米に 4000 店のコンビニ(もちろんそのころは、こんな略称もなかったけれど)を展開する、業界最大手だという。日本に進出するのである。

 さっそくヨーカ堂に手紙を書いて、「私に店をやらせてほしい」と名乗り出た。昭和 48 年の真夏のことである。秋が過ぎ、暮れにはアメリカから視察団が来日して、山本酒店にも立ち寄った。「来年になったら具体的なことを」との話であった。

 年が開けて正月 2 日、電話が鳴り、日本側の担当者が「突然だが、明日お訪ねしたい」と告げた。「来年」にはなったけれど急過ぎる。東京は近来稀な大雪であった。来訪した面々は、「ほんとうにやる気があるか」「やるなら早くしたい」「2 週間程度で返事をくれないか」と畳みかけた。

 この若い酒屋さんに、なぜ白羽の矢が立ったのであろう。「さあて、わかりません。私がやりたい、やりたいと盛んに言っていたからでしょうか」

 ぜひやってみたい。しかし、どうすればいいのか。運営の方法がまるでわからない。しかし、これについては、アメリカ側に詳細なマニュアルがあり、その翻訳が進んでいる最中という。そこで山本氏は、店舗の改造に踏み切った。

 ところが、やがて、とんでもないことが判明する。マニュアルがほとんど役に立たないという。そこには、レジの打ち方やレポートの書き方はあるが、肝心のコンビニ運営のノウハウはない。また、日本とは流通の仕組みも税制もまるでちがうので、なにからなにまで一からはじめなくてはいけない、という。

 「あのときは、もう店は壊してしまっていたし、後戻りできなかったのです」と、山本氏の柔和な表情が、このときだけ一瞬曇った。
 
「店づくりの借金が 2200 万円」■
 
 日本初のコンビニ・ビジネスを手がけることになったイトーヨーカ堂にとっても、絶体絶命のピンチであった。すでに契約は結んでいる。8 年で 1200 店を開くのが条件であった。ダイエーのような、当時のトップ・スーパーチェーンでさえ、そんな数の出店はしていない。

 折りから日本はオイルショックに襲われていた。そのため出店費用が高騰する。100 店さえ夢のまた夢に思われた。一方、豊洲の山本氏は、自分の店のことで頭がいっぱいである。

 アメリカから出張してきたガイジンによるトレーニングでは、5 日の期間中ずっと、相手を質問攻めにした。なぜ? なぜ? どうして? 通訳を介しての受け答えはもどかしい。とうとう相手が怒り出した。

 「なぜって言うのをやめろ。我々は 50 年かけて、このシステムをつくったのだ。信用しろ」

 しかし、こんなチャンスは二度と来ない。未知のコンビニに賭けるしかない若者は、くじけず、粘り通した。

 すべてがはじめてのことで、準備を進めている段階で、しばしば立ち往生する。

 ビールなどを冷やしておくための、特別仕様の冷蔵庫が、アメリカから空輸されてきた。背丈が高過ぎて、店に入らない。下部を切ってやっと入れた。このとき、山本氏は、背面に扉がないのは問題だと気づく。酒店の経験上、後ろから新しい商品を補充して、客には、前のドアから冷えたのを取り出してもらうのがいいと、直感したからである。

 そこで、いまではどのコンビニでも当たり前の背面扉をつけてもらうように交渉しなければならない。万事がこの通りで、いちいち、おそろしいくらいの時間とエネルギーが費やされた。なんとか、1 号店が店のかたちをなしたのは、オープン 2 日前だったという。

 しかし、開店にこぎつけると、新たな難問が待ちかまえていた。それはまさにコンビニの急所、つまり配送に関わる問題である。

 品揃いははじめ、ヨーカ堂本体のスーパーでよく売れている、売れ筋商品を集めて構成した。

 商品は、スーパーの最小単位の量がまとめて配送されてくる。これでは多すぎる。わずか 22 坪の店(平成 4 年に現在の広さに改築)である。売れ足もスーパーにはるかに及ばない。店頭に出せない分は倉庫に保管する。それでもはみ出して、店の二階にある居間まで占領してしまう。出したり入れたりに時間と労力を食う。長いこと在庫のままだと、モノによっては鮮度が落ちる。

 そこで、小分け配送してほしいのだけれど、その分、仕入れ値が高くなる。なにより頭が痛いのは、利益が見えないことである。利益が出ても、商品に化けてしまう。店頭と倉庫に「隠れ利益」がぎっしり詰まっていることになる。現金の姿がまるで見えず、さて、どうなることやら。

 「でも、店づくりに 2200 万円も借金していて、後戻りはできなかったのです」と、山本氏は述懐している。

 懸案の小分け配送は、オープンして 1 年半後に実現した。コンビニがいくつか近い距離にあれば、少量でもぐるっと回るとトラックが空になるではないか、というアイディアが出た。そこで、同じ区内の牡丹、森下、東陽など周辺の街に、次々に新しい店が生まれていった。店が増え、一回の配送が次第に少量になることで、希望が生まれた。

 こうして、東京都江東区は日本のコンビニ発祥の地となるのである。
 
「形にしないと将来もない」■
 
 当時の店は、24 時間営業ではなく、セブンイレブンという名前の通り、午前 7 時から午後 11 時までであった。それでも、山本氏は、ほとんど四六時中、店を離れられなかった。妻は、開店時には身重で、9 月の出産後は、当然のことに育児に追われた。

 山本氏の一日は、朝 7 時に店に立つことからはじまった。客の相手をし、商品の電話注文もこなす。昼時は混むので、少し前に昼食を済ませる。午後 1 時半ごろから、5 時頃までは休憩をとる。この時間帯は客足が引くので、忙しい妻の助けを求めた。さらに、夕方から閉店までは、自分が頑張る。この頃のコンビニは、他の商店が閉まる、夜の時間帯が書き入れどきであった。

 店は 11 時に終わるけれど、店主の仕事はまだ残っている。キャッシュ・レポート(営業日報)を書き、商品の棚替えや補充をして、やっと床に就くのは午前 1 時である。しかし、朝の 6 時前にはもう起き出して、店のドアを細めに開けて待たなくてはいけない。焼き上がりのパンが届けられるからである。

 従業員はふたりいるけれど、通常の労働時間が過ぎれば帰ってしまう。あとは自分と妻がかぶる他になかった。「アメリカでも夫婦を一単位と考える商いがコンビニです。日本でも協力してやらないことには成り立たない。なんとか形にしないと将来もなにもないのですから。後戻りできなかったのです」

 そのころの豊洲は、現在のような地下鉄はないし、バスもめったに通らず、地元の人は「野っ原同然だった」という。「あらゆる条件が悪かったのです。それだけに工夫し、考え、おかげで鍛えられました。大変だったけれど、おもしろかったですよ」

 山本氏の表情は、終始明るい。写真撮影のために、店の前に立ってもらっている間も、笑顔であった。「もういいでしょう」と、しきりに恥ずかしがる。撮影が終わると、大慌てで店内に駆け戻っていった。
[2004.4.2.]
初出=タウン誌『深川』157号


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