★鍋屋横丁から半日かけて、中野駅に辿り着く
 |
⇒中野区の地図
■新中野の駅上にある書店で、友人と待ち合わせた。きょうは鍋屋横丁から、中野坂上、さらに JR の中野駅のあたりまで歩いてみようということになっていた。とくに理由があるわけではないが、こちらはこの辺りの地理に不案内で、相手はかなり強いという関係である。先導してもらえば、楽だろうと思った。
■結果としては、だらだらと歩いている分には、地理の得手不得手はあまり関係のないことがわかった。もっとも、相手のおかげで、このあたりの街の気分というものが、かなり呑み込めたと思う。
■おそばを食べてから、歩きはじめたのは午後 1 時半過ぎで、中野駅周辺にたどりつき居酒屋に直行したのが 6 時過ぎ、その間、ほとんど歩いていたことになる。
■鍋屋横丁は、東京に暮らしている人間ならたいてい、少なくとも名前ぐらいは知っている。しかし、商店街だと言われて、意外な思いをする人もかなりいるのではないか。だから、よく知られたとまでは言い難いところがある。鍋屋横丁と言っても、別に鍋を売る店があるわけではない。元禄年間に、入り口付近に茶屋があり、その名前が鍋屋だったところから来ているのだとか。そういう由来を聞いても、相当昔に開けていたことはわかる。*(1)
■同行者は、子どものころから、このあたりに住んでいるという。その話では、つい数年前まで、青梅街道から曲がり込む入り口には、薬局や喫茶店など、おじいさんとおばあさんがやっている店があったそうだが、いまはすっかりなくなっている。
■再開発のビルが、通り沿いにいくつも建っているか、建ちかけになっているから、鍋屋横丁の視覚的なイメージは、激変しつつあるのにちがいない。ぼくは、このほんの数年を逃したおかげで、鍋屋横丁という名前に違和感がそれほどなかったころの鍋屋横丁を永久に見られずにしまったという思いがする。
■そのせいかどうか、通りの片側をずっと歩いていったが、なんの感興も湧かなかった。しかし、鍋屋横丁の尽きるところから、反対側へ通りを渡り、戻りだすと、だいぶ印象が変わってきた。ごちゃごちゃして、秩序があるようなないような商店街の残りに、遭遇するからである。
■おりかえしてすぐに「中野かつらセンター」という、心騒ぐ看板が現れた。そこの店は、たしかに、かつらを売っているようだけれど、中古のテレビなども扱っている。だから、せっかく新しいかつらまで、どうしても古ぼけて見えてしまうのは、商売の上からは損ではないかと思ったものである。
■その店の脇の路上にキャベツの葉っぱを並べて干してあって、なんのためなのか、しばらく考えたけれど、わからなかった。
■まもなく遭遇した店のウィンドウに貼り付けてある紙の文句は、なかなかに刺激的なものであった。
■〈ふるさとの帰省みやげに 21 世紀 東京名物 人形焼き〉
■こっちはそれでも、もう一枚の張り紙に比べるとだいぶおとなしい。
■〈浅草のよりおいしい 雷おこし〉
■これでは、中野からはるか浅草へ向かって、挑戦状を叩きつけているようなものではないか。2 軒あるはずの、浅草仲見世の人形焼き屋さんたちは、このことを知っているであろうか。*(5)
■となれば、雷おこしを自分で買って試してみたら、少なくとも自分としては白黒をはっきりさせられるところだけれど、あいにくとおこしには食欲が湧かない。人形焼きだったら、ひとつぐらい食べられるかもしれないという気がした。訊いてみると、店の人は「いまここにはありません。いつできてくるかわかりません」とつれない返事で、あきらめた。どこか別の場所に工場があるのであろう。
■おかげですっかり和菓子モードになってしまったから、数軒先の和菓子屋の前を通り過ぎられなくて、鍋横最中をひとつだけ買った。鍋型のカワのなかに、黒いあんがぎっしり詰まっていて、求肥のかけらがひとつ、ぺらっと挟み込んである。このココロは、あんが汁で、求肥は具というところにあるにちがいない。これを食べ食べ歩いているうちに、青梅街道へ出たというわけである。
■そのちょっと手前の路地の奥に、しっかりした銀杏の木 3 本に囲まれた稲荷社があるのには気づいている。おそらく、これが鍋屋横丁の原風景の切れっぱしなのであろう。
■青梅街道を歩いていくと、坂上にこのごろ屹立している、30 階クラスの高層ビルが近づくにつれて、ビジネススーツの通行人がどんどん増えてくる。ビルのところまでたどりついて、スケルトンのエレベータに乗り、上ったり下りたりしたけれど、すぐに飽きてしまった。こういうところで毎日働くというのも、ずいぶん忍耐がいるものだろうなと思った。
■新宿寄りのほうのビルの一角に、鯉の泳ぐ浅い水たまりみたいなのがあって、その前に、だいぶ石が欠けた石臼が並んでいる。これは、坂上に、以前、米問屋がたくさんあったなごりらしい。多摩辺りで収穫する米をずっと運んできて、ここまで来ると、問屋が引き取って精米し、江戸市中に運び込んだということである。*(2)
■そういう米屋の記憶も、建物と一緒に、高層ビルの下に埋め込まれたことになる。鍋屋横丁から坂上の米屋にかけての風景が、それでもおかげでぼんやりと見えてきたような気がして、歩いてきたかいはあったかな、という気がする。
■ここからは青梅街道を北側に渡ってから、もと来たほうへ戻っていく。交差点に面して大江戸線の駅ができたりして、活気づいているようである。「中野駅なんかめじゃねえよ、いまや坂上が中野の中心だい」といった声が聞こえてきそうな勢いであった。
■ジーゲス・ゾイレという洋菓子店で、陶器の器に入ったケーキを買う。900 円であった。この店の本店は神戸なのだと、後に聞いたがほんとうかどうかは調べていないのでわからない。*(3)
■洋菓子店の先に、甲斐犬だけを扱っている犬屋があった。甲斐犬は特別天然記念物に指定されていて、後で、インターネットで調べたら、南アルプス市役所のホームページに、こんなことが書いてあった。
■甲斐犬は大正の末期頃、虎毛の日本犬として発見されています。甲斐犬の特徴として体高は 32〜51cm、体重は 12〜24Kg、耳はやや長く、四肢は強健で飛節が発達し、尾は差尾又は巻尾、毛は虎模様で粗剛。血統が山野にクマ、イノシシ、シカなどを追う山犬だけに、猟にかけては特に優れており、また警察犬や番犬としても物覚えのよさ、主人への服従の点からも優れていると云われています。
■甲斐犬の原産地は山梨県南アルプス市、早川町、上九一色村、牧丘町、甲府市宮元などの山間僻地にのみ限られていますが、中でも南アルプス市のものが最も勝れていると云われています。
■減りつつある甲斐犬ですが、甲斐犬の優れている性質を認めて、昭和9年1月 22 日に文化財保護条例によって、「生きた天然記念物」に指定され、その繁殖と保護に力をいれています。
■真っ黒い犬で、立派な顔をしている。「やっぱり日本の犬がいい」とは、同行者の感想だが、ぼくはそうも思わない。それにしても、こいつらは精悍そのものだ。毛がぴったり身体にはりついていて、どこを探しても余分な肉がついていそうもない。小さな足先が印象に残った。犬が嫌いでなければ、もっと近くに寄って見たのかもしれないが、歩道にしばらくしゃがみ込んで眺めただけであった。
■犬屋の先から横丁へ折れて、くねくね曲がりながら中野駅を目指した。途中はさほどのこともなかった。はじめて歩くあたりだけれど、ずんずん歩いてしまった。五時近くになっていて、歩き疲れてきたせいもあるかもしれない。
■中野駅が近づくにつれて、見慣れた街の姿がはっきりしてきて、安心したような、もう終わりが近づいてきて残念なような、入り組んだ気分を抱いたものである。
■駅前のブロードウェイ・マンションに続くアーケードが以前とちがっているな、と思ったら、やはりしばらく前に架け替えたのだそうである。アーケードをだいぶ奥まで歩いて、ちょっと路地に入ったところの、古びた喫茶店に、同行者が案内してくれた。入り口でチケットを買うのだが、珈琲は 400 円であった。これも少し前は 150 円だったのにという解説があった。*(4)
■二階への階段の真下に座ったけれど、人があがったりおりたりするたびに、頭の上で、ミシミシミシミシと音がして怖かった。窓際には、壊れた真空管がむき出しになったラジオとか、黒い扇風機とかが並んでいて、石油ストーブの上には、水を張った鍋が載って、湯気が立ち上っている。
■流れている曲は、もちろんのことにクラシックで、こういう、やる気があるんだかないんだかわからないけれど、きっとなにかの哲学があって、同じスタイルをずっと維持しているにちがいないと思わせる喫茶店は、ぼくなどが学生の頃にはよくあった。いったんそんな店のなかに入ると、ふだんは話さないような、理屈っぽいことをしゃべったりして、すごく疲れたものである。きょうは同行者もぼくも無口で、お互いあまり居心地がよくないことがわかったので、珈琲が終わったところで、外にでた。
■ブロードウェイ・マンションの商店街もいちおう見よういうことになって、エレベータを上っていったが、どんどんどんどんと、まんだらけが侵食しているのを確認しただけであった。以前には飲食店があったはずだというところが、たいていまんだらけになっている。
■漫画本、原画、カード、フィギュア、トレーディング・カード、コスチューム、刀、制服、切手、ナイフ、がしゃぽん、こういうのの全てが、直接まんだらけの経営というわけではないけれど、全体がコミックワールドを形成している。コミックの持っている感性の広がりが感じられたのは、とても面白かった。
■それに、通路を歩いている若者が、同行者の感想でもあるのだが、「おしゃれっぽくて」、安物のトレーナーやスカートを一生懸命工夫して身につけているのが目についた。
■この後は、駅の近くまで戻って、居酒屋へと、ゴールテープを切ったわけである。
★
 |
■「中野歩き」については、界隈にお住みの方、かつて住んだ方から、いくつかの指摘をいただいたので、以下にそれらを記述することにしたい。
| *(1) |
「鍋屋横丁は、もともと妙法寺という寺への参道として栄えたのであり、だから茶屋もあった。この点に触れなくては、鍋横の存在意味の説明にならないのではないか」 |
| *(2) |
「石臼は蕎麦粉を挽くためのものではないか。かつて、このあたりは三多摩地区で収穫した蕎麦の集まるところだった。米屋という話は聞かない。だいたい多摩でそれほどの米が獲れたとは考えにくい」
■「中野坂上は、そばだけでなく雑穀類の集散地であったようです。そばは深大寺、吉祥寺、荻窪などの江戸西北部のソバだけでなく、青梅あたりからのソバも集まって来たそうで、江戸市中に供給されました。中野のそばとして人気を得たといいます。その流れをくんで、明治になると製粉会社が多くできたわ けです。醤油屋、味噌屋もあったことは、大豆なども集まったのですね。米のことはわかりません」 |
| *(3) |
「この洋菓子店の名前は、正しくはジーゲス・クランツ。梅ヶ丘にも店がある。ジーゲス・ゾイレは、ベルリンにある戦勝記念塔のことだ」 |
| *(4) |
「あの喫茶店の名前はクラシック。以前、店の人で、蝶ネクタイのおじいさんがいたのをおぼえている」 |
| *(5) |
「仲見世の人形焼き屋さんから、なにか言ってきた?」 なにもありません。 |
[2003.8.15.]

この記事のURLを友人・知人に知らせる
│HOME│自由意志購読│BACK│