★「マダム」の弁当・写真ギャラリー・専業主夫

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 年かさの女性ばかり20人。毎日交代で7人が60坪の厨房で立ち働き、弁当やパーティ料理をつくる。最年少が58歳、最高齢は74歳。マダム石島株式会社(大田区山王)の実戦部隊である。元気いっぱいのおばちゃん方に混じる、社長の石島まり子さんも72歳。全員が第一線である。

 「ここの定年は90歳です。そのぐらいになってやっと、料理を極められるみたいですから」

 石島さんがケータリングの事業を起こしたのは、22年前。ここの女性たちは一緒に年を重ねてきた。

 はじめは、味の甘辛、薄い濃いで、料理好きの女性同士、始終ぶつかった。いまは、各人の考えをわかりあえる年齢になった。

 年をとるとよいことが、まだまだある。まず睡眠時間が短く、朝早い出勤が平気になる。石島さんは、7時には出社している。会社も社長も年中無休である。コーヒーを沸かしパンを用意して、出勤してくる人たちと、朝食を共にする。8時には揃って厨房入り。

 食の注文はいろいろ。「おにぎり千個、午前9時半に届けて」とか言われることも。すると午前5時にかからなくては。それでも当番のおばちゃん方、暗闇のなかを平然とやってくる。

 さらに、年齢から来る健忘症も、石島さんはプラスに考える。

 物を忘れると、広い厨房をあっちこっち探し回る。見つかるまで、周りから助け舟を出さないことにしている。これが足の運動になるという。石島社長の万歩計は1日14000にもなる。

 自分の発言を忘れてトンチンカンなことを言い出す人もいる。納得するまで説明してわからせる。あいまいにしない。そこで、よくよく考えなければ。結果、頭が活性化するのだ、と。

 平均年齢68歳のクッキング・チームの面々。その最大の強みは、心のこもった家庭料理で育った世代だということである。外食も飽食も関係ない。石島さんは、65歳を過ぎた頃から、自信が湧いてきた。

 「以前は、注文のままに料理をつくってきましたが、いまは、客に『あなた、これ食べなくてはだめよ』と、逆に言えるようになりました。おいしくてバランスのとれた日本の家庭料理を、ケータリングを通じて取り戻したい」

 自分たちの手になる料理が並ぶパーティには出かけていって、人気度をチェックする。最近の一番人気は、ぶり大根だという。大根の真ん中が白く残り、外は飴色につやっと光らせるのが、調理のコツ。「うちには、これをつくれる名人がふたりいます」

 北関東の郷土料理、蓮餅などという、隠れた逸品も登場する。蓮根をすり、たまご、酒、醤油を少しずつ加えて、ハンバーグ状にしたのをフライパンで焼き……。おいしそう。

 もっとも、ほんとうの美味は厨房にあり、かもしれない。仕事の手を休め、みんなで囲む昼食。捨てられるのがふつうの「野菜の屑」を使ったおかずが出てくる。大根の皮の松前漬や、うどの皮のきんぴら。「これが一番でしょうか」

 みんなから「マダム」の愛称で呼ばれる石島さん、「私の青春はいまと思っています」と。(2007.2.8.)

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 魚が嫌い。でも父は「食え、食え」と迫る。苦悩。皿を床に投げる。泣き叫ぶ。無理やり口に押し込む。吐きそうになる。――子ども時代の苦い思い出の真実を追う写真展が、開催中である。

 上野重一さん(56)が、写真中心の「アップフィールドギャラリー」を開いて、2年が経つ。

 水道橋もはずれ、日本橋川にくっつくような、古いビルの3階。ピータイルの床をはがしたままで、接着剤の跡が黒々と、大きな指紋を思わせる模様になって残る。25坪の展示スペースである。

 展示写真のなかで、魚と格闘しているのは、ヌードの女性。写真家は、少年の日の記憶を、彼女に託して表現する。写真でこんなこともできるのだと、展示を企画した上野さんは、誇らしい気持ちになる。

 2年前、ギャラリーのオープニング展には、女性写真家のセルフポートレートを取り上げた。大自然のなかでの排泄行為を自ら撮る、異色の作品であった。

 海面下にカメラを沈め、襲いかかる大波を見上げるアングルの水中写真のときは、1枚を引き伸ばして天井に張りつけた。そこで入場者は、波と海に翻弄される疑似体験ができた。

 あるいは、展示室を街なかに見立て、そこを彷徨う猫たちのショットを、撮影者と同じ目線で眺められるようにしたこともある。

 「このギャラリーが、私の作品です。何度でも見たい、見られる、いい写真を、このスペースでさまざまに表現することの喜びが、生きがいになります」

 上野さんが写真のギャラリーを開こうと思い立ったのは5年前。プロラボ(プロ専門の現像所)に勤めながら、物件を探しに探した。見つからない。最大のネックは家賃。高すぎる。

 東京では、写真展などの展示期間はまず1週間。出かけようとするともう終わっていることがしばしば。回転率を上げて利用代金を稼がないと、高額の家賃に追いつかない。で早々と、お次と交代、に。

 一方、欧米の都市では1ヵ月開催があたりまえ。スペースもゆったりで、しばしばカフェが付属している。だから、評判を耳にしてから訪ね、じっくり見てまわれる。

 この超スピード東京で、1ヵ月は無理としても、せめて2週間あまり、企画展示をつづけられないか。

 上野さんは、安い家賃と、もうひとつ、ゆとり感のある高い天井にこだわった。最後にたどりついたのが「東京ドームと馬券売り場しか知らなかった」水道橋の裏通りだったわけである。

 ギャラリーの経営者になったいまも、週に3日、プロラボの仕事をする。「二股で稼がないと、ギャラリーが維持できません」

 なぜそこまでこだわるか? 「自分の空間を持つことが、私の長年の夢だったのです。そして、そこを使い、写真家と一緒に写真展をつくっていくことが」

 ところで、先の「魚大嫌い」写真の撮影に使われた魚はイワシである。「築地でイワシが安かったので」山ほど買ってきて焼いた。撮影が終わった後、関係者みんなで食べ尽したという。いまは魚が好きになっているという写真家も一緒に。(2007.2.15.)

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 毎朝、きまって5時59分に目覚まし時計が鳴り響く。ペネロペ・ドブソンさんと、夫のデイビッド・テイラーさんは、寝床を後にする。東京暮らしが足かけ3年になる。

 15歳から11歳まで、3人の子どもたちを起こす。彼らの弁当をつくるのは、夫の仕事。朝食を済ませ、7時半に妻が出勤し、子どもたちは学校へ。夫はひとり、掃除、洗たく、買い物と忙しい。午後4時ごろ子どもらが帰ってくるときは家にいるよう心がける。

 この15年、オーストラリア人の夫が専業主夫で、ニュージーランド国籍の妻のほうは「専業会社員」。「同姓にするきまりはない」から、22年前の結婚以来、ずっと別姓。

 1990年代のはじめのオーストラリアで、ふたりが子どもをつくろうと決めたとき、「生まれたら、どちらかがフルタイムで家にいよう」と話し合った。子どものためによいだけでなく、自分たちも一緒に成長していくのに、それが最善と考えたからである。

 どちらが家庭に? キャリアに執着が少なく、給与の額が低いほうが家事と育児をすればいいということに。男か女か、夫か妻かは問題にならなかった。

 最初の子が生まれて半年後、妻にニュージーランド転勤のオファーがあった。しかも管理職への昇進である。ふたりは、妻が外、夫は内の役割分担をする決断をした。勤務先の医薬品企業「米国メルク社」が、女性のエグゼクティブを積極的にサポートしていることが決め手になったという。

 ドブソンさんは、その後、アメリカ、オーストラリアと転勤を重ね、キャリアアップをしてきた。一昨年の5月からは、同じグループの日本法人「万有製薬」でマーケティング本部長を務めている。

 午後6時半には、九段下のオフィスを出て帰宅する。残業するみんなに申し訳ない気がする。いまは慣れた部下たちも、はじめは「未知との遭遇」のように唖然としていた。

 家では夫と子どもたちが待ちかねている。家族一緒の夕食をすることが決まりである。夫の手料理を楽しみ、子どもたちの話を熱心に聴く。ウィークデイはテレビを消す。親子が会話を欠かさなければ、なにか問題があっても深刻になるのを防げると考える。

 ともに40代後半の妻と夫は、かつて大学の薬学部の学生時代に知り合った。30年前である。

 夫「ぼくも薬の専門知識があるから、彼女の仕事について、十分話相手になれる。それになんといっても、食べさせてあげてるのは、ぼくだからね(笑)」
 妻「精神的に夫に支えられます。彼が自分の役割を果たしてくれなければ、私は仕事ができないわけですから」
 夫「ペニー(ドブソンさんの愛称)は上級職になっても、家族最優先の原則を譲らない。もし仕事が家族に悪い影響を与えるようなことになれば、家族がハッピーかどうかを考え直すことになるだろう」

 11歳の娘は、家にいるパパが大好きである。学校の遠足には「きっと付添に来て」と言う。パパに来てもらえる子なんて、まずいない。みんなに自慢したいのである。(2007.2.22.)
[2007.5.25.]

読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!


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