★旧新橋停車場が語りかける「鉄道の時間」

2 月半ばに、東海道本線を乗り継ぎして終点の神戸駅までたどる六百キロに近い旅をした。貴重な経験であった。
 
明治 22 年に、東海道線が全通した当時の始発駅は、もちろん新橋である。神戸との間を、一日一往復したという。この由緒に敬意を表して、旅立ちは、東京駅ではなくて新橋からになった。雨模様の寒い朝であった。
 
旧新橋停車場が、以前と同じ場所にそっくり復元されつつある。そこは汐留の再開発地区、いわゆるシオサイトということになる。そこでで、かつての駅舎に「参拝」し、旅の安全を祈ることにしたわけである。
 
瀟洒な石積み二階建ての建物は、ほぼ出来上がっていたけれど、周囲の植栽がまだらしくて、黒っぽい土がむき出しになった状態であった。ここに敷かれるはずの芝を詰めてあるらしい段ボール箱が積み上げてある。人影はない。明治初年の石造りの背後に立ち上がる、鉄骨とガラスの超高層ビルの対照に、見とれてしまう。明治の建物は、なんと優しい外観をしていることか。

いまから百年あまり前、当時の文学者、尾崎紅葉は、この駅の夕暮れどきの活況を、次のように描写している。
 
「(蜿々と横たわる列車は)真承(う)けの秋の日影に夕ばえして、窓々のガラスは燃えんとすばかりに耀(かがや)けり。駅夫は右往左往して、早く早くとわめくをよそに、……」(『金色夜叉』)

そんな活況を忘れてしまったのか、いまはひっそりたたずむ駅舎が、日本の鉄道が経てきた、長い時間を思わせる。

建物の裏手にまわると、二十数メートルのレールと、建物同様に石を積み上げて形成されたホームが再現されていた。その端に、白木を組んだ車止めに守られるようにして、数字の 0 を浮き上がらせた「0 哩標識」が打ち込んである。
 
「標識」は、とりわけ印象深い。ここからすべてがはじまるのである。かつて江戸幕府を開いた徳川家康は、日本橋を架けて、日本の道路の基準点とした。江戸が終わり、近代が幕を開けるとともに、日本の鉄道建設がはじまった。そして、鉄道網を駆け巡る列車が、日本近代の「牽引車」になっていったと言っていいであろう。
 
このすべての始まりを目に焼きつけてから、「新橋 9 時 01 分発快速アクティー」から、東海道線の旅をはじめたのである。途中、由比、米原と一泊ずつして、三日目の午後に、終着の神戸駅にたどりついた。
 
神戸駅のホームから見下ろす線路の向こうに、何気なさそうに、白塗りのキロポストが立っている。「東京起点 589K340M」と読める。現在の東海道線の起点、東京駅からのキロ数である。
 
これが、あの「0 哩標識」のイメージと重なって、しばらくその場を立ち去ることができなかった。神戸では、打って変わって、明るい陽射しが、ホームを斜めに横切っていた。
 
長く忘れることのないであろう旅になった。旅というものの原点に立ち戻ったような気持ちでもあった。
 
それから四ヶ月後の六月半ばになって、もう一度、旧新橋停車場を訪ねた。すでに、建物は一般に開放されていた。館内の鉄道歴史展示室が、東海道線の旅をさらに深めてくれる。錦絵や古い写真が、過去を鮮やかによみがえらせるのである。
 
とりわけ興味深いのは、この旧停車場の土地から出土したという小物たちである。初期の鉄道建設に従った、「お雇い外国人」が使っていたらしいパイプや陶器の皿、瓶、あるいは工具などの類いに見入ってしまう。
 
彼ら遙かヨーロッパからやってきた鉄道技術者たちはなにを思い、なにを喜び悲しんで、この異郷に暮らしたのであろうか。建設当時の情景が目の前に蘇るようである。
 
駅舎の裏にある線路の周囲には、いまでは、樹木の間にテーブルと椅子が置かれている。楽しげでのびやかなスペースである。
 
ちょうど昼時にあたり、そこでは、超高層のオフィスから降りてきた人々が三々五々食事をしている。「あら、こんなところで似合わないですよ」と、知り合いの女性に声をかけられ、むっとする若い男性がおかしい。
 
こちらは、館内にあるカフェで、パスタランチの贅沢をしようかと思いつく。それこそ「似合わない」気もするけれど。

[2003.8.25.]


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