| ★駒込から歩きはじめて、巣鴨を経由し、大塚に至る。 |
ネット上で遭遇した気になるニュースを、ケータイに飛ばしておいて、出かけたときの電車のなかとか待ち時間などにまとめて読むようになって半年ぐらいが経つ。本や雑誌を持って歩く習慣が身につかず、音楽などを直に耳から供給するのにも馴染めない。そういう自分には合った時間消費法ではないかと思っている。
しかし、これの困った点は、つい熱中してしまって、電車を乗り越したり、約束の時間を過ぎているのに気がつかないといった失敗が、間々あることである。このメディアにまだ慣れていないために、「足」をとられるのだと思う。酒を呑みはじめたころと同じで自分が見えていない。この日も乗り換えるべき駅をふたつも飛ばして、戻らなくてはいけなくなった。その結果、約束の時間に遅れた。
午後2時にということになっていたのに、JR駒込駅改札口の待ち合わせ地点に到着したときは、15分ぐらい過ぎていたと思う。相手は別に不機嫌な表情ではなかったけれど、内心まではわからない。わからないのをいいことに、遅れた顛末をぺらぺらとしゃべった。相手はその間ずっと黙っていたが、最後に、笑いながら「例によって例のごとしだね」としめくくった。それでともかくも、ほっとした気持ちになれた。これも決め言葉ではあるけれど、某政治家の「人生いろいろ」とちがって、こちらに向けて投げかけられる心がよく見えるからである。
きょうのふたりのテーマは、お互いが知らない街へ出かけて知らない飲み屋で飲む、というものであった。駒込あたりがいいと希望したのは相手のほうであった。ぼくにとって、駒込は「知らない街」とは言えない。学生のころは、ここか隣りの巣鴨駅で下車してキャンパスまで歩いて通ったからである。しかし、それはすでに40年も昔のことである。東京は半年行かないとちがう街というのが、ぼくなどの実感で、40年経っていれば未知の街に限りなく近い。その間、まったく行かなかったわけではないけれど、「しみじみ」歩いた記憶はない。
こうして駒込駅の待ち合わせが決まったのである。改札口の近くで、立ち話をしている間に、昔のことを思い出した。駅舎も、線路を横切る高架の通路も、当時とまったく変わっていない。このごろJRイーストでは、首都圏の駅をつくりかえる事業に手をつけているそうだが、このあたりはまだなのであろう。
「六義園って、この近くなんだろ?」
相手のこの問いかけが、後から振り返ってみると、その日のふたりの行動パターンを決めた。この発言の重要性に、どちらもこのときは気づいていなかったけれど。
「じゃ、六義園へまず行こうか」
とぼくが応じて、歩きの枠組みが決定したのである。街を歩く、それも漫然と歩くと言っても、なんらの意思の働きもなくただ歩くわけではない。それができるとすれば、よほどの達人の所業である。とてもとてもその域には至らない。そこで、なんらかのきっかけがあり、そこから心が動いて、一定のフレームのなかで移動することになる。したがって、後で考えれば、そのように歩いたワケを他人に説明ができるし、自分でも納得がいく。なぜあんな風な歩き方をしたのかな、と首をひねれるようになれたら、そのときこそ、達意の歩行者を、少なくとも自称することができるのであろうが。
六義園なら、学生のときに二度か三度か行ったことがある。その後にも、一度ぐらいはあるかもしれない。一方、相手はまったくのはじめてである。したがって、「知らない」度合に差がある。まったく知らないと、少しは知っていると。この日のぼくたちは、その差の狭間を楽しみながら歩くことになった。ぼくのほうは、まったくはじめての街に接する相手の反応から刺激を受けられるし、相手も、ぼくの錆びついた記憶からなにがしか得るものがあったのではないか。
その結果、あのころといまと、時間を行き来しながら歩くこともできた。気持ちのいい一日になった。
駒込駅から本郷通りを歩き出すと、すぐに六義園の染井門が見えてくる。この日もそうだが、この門はふだんは閉じているようである。しかし、40年前には門そのものがなかったように思う。さだかではないけれど。
入り口に至るには、ほぼ四角形の庭園の一辺を歩き切らなくてはいけない。その間に、土産物店やレストランなどがずいぶん並んで、観光名所になっていることがわかる。角まで歩いて右折したところに、門がある。門も、ずっと伸びる外壁も、煉瓦ブロックで美しく仕上げられている。また、庭園に沿う舗道も、同じ素材の舗石が並んで、目を見張るばかりのたたずまいになっている。さらに、入り口を入れば、すぐの広場に立つシダレザクラの大木に迎えられるという仕掛けで、かつてはこんなアプローチはなかった気がする。
内部をめぐりながらも思ったことだが、樹木や施設ももっと雑然として、いまのようにくっきりした目的意識に貫かれていたとは思えない。
六義園は18世紀のはじめに柳沢吉保によって築かれたというが、明治維新後に、三菱の岩崎家の持ち物になっていた。さらに、岩崎家から東京市に寄贈されたものである。戦後まもない時期に、国の特別名勝に指定されてはいるが、ぼくが初めてここに来た頃は、十分な整備もされていなかったのではなかったか。
庭園の真ん中にある池の周りを巡りながら、
「ここにはナマズがいるんだよ」
と言ったら、相手に、
「それって40年前のことだろ」
と苦笑された。あのころ池の縁にしがみついていたヤツの姿がはっきり目のなかに残っているけれど、たしかに、当時の髭の魚がいまも健在とは思えない。
漫然と歩きながら、さまざまの土地の風景に見立てた景色を楽しむ「回遊式築山泉水」の、豪勢な大名庭園だということも、いまになって初めて知った次第である。
「そうだったのか。そんな仕掛けのある庭園なわけね」
「なにを寝言言ってんだろうね」
というような会話が何度となく繰り返されることになった。
年をとったせいもあるのだろうが、庭園の石ひとつ、樹木一本に至るまで、味わいつくさないではいられない、自然に対する日本人の貪欲さが、遅ればせに、ひしひしと身に迫る思いがする。
ここのように街なかにある庭園の楽しみは、一歩外に出れば対面する街のことを忘れ果て、いま自分のいる場所に没頭できることで、湊あり、島あり、茶店もあり、峠がある。登っていく峠のてっぺんから見下ろす眺望は、まるでほんとうの自然を相手にしているみたいに完ぺきである。
不思議なことがあった。池を半周したかなと思うころ、相手が、「なんだか見慣れた景色のところに来たな。もうそろそろ終わりじゃないの?」と言い出したのである。「そんなことないよ。まだ半分ぐらいのはずだから」「だけど、これさっき見たよ」「見てない」「見たってば」
この言い争いは、すぐに決着がついた。入園してまもなくに、いじましくビールはないかと探した、同じ売店に、遭遇したからである。ぼくは、自分の誤りを突きつけられて、動転した。変だ。そんなに簡単に一周するはずがない。
これにはなんらかの秘密があるはずだ。熟考した。そして、解く鍵を見つけ、相手に提示した。秘密の焦点は、池の真ん中の島、その名も中の島にあったのである。この島の地下に巨大な石臼状の回転装置が設けられていて、そこでは常時50人ほどの奴隷が、汗水垂らしながら「臼」を回転させ、この庭園全体をゆっくりと自転させているのである。風景をよりドラスティックに変化させるための大工夫ということになる。
ぼくたちはたまたま、この回転方向と逆向きに回遊したために、とんでもなく早く出発点に到着してしまったのである。それ以外に考えられない。なお、六義園の文字は当初、現在の「りくぎえん」という読み方ではなく、「むくさのその」と読んだ。「むくさ」とはじつは英語のミクサー(ミキサー、攪拌器)が訛ったのである。(なお、これらの大発見は、未だ一般には承認されていないことをお断りする)
おそるべし、回転庭園の謎は、これで解明された。奴隷たちの働く現場を検証する作業は、後日に譲って、ぼくたちは、粛々として六義園を後にした。もっとも相手は、こちらの精緻をきわめた説明にも関わらず、まだ不審そうに首を振っていたが、ぼくはかまわず、煉瓦タイルの壁沿いに、巣鴨方向に歩を進めたのであった。
駒込駅から歩いて六義園までやってきたので、もう一度駒込方向に戻るのは、シャクにさわる。そこで、隣り駅の巣鴨へ向かったわけで、この歩き方に他意はない。
庭園の壁が切れたあたりから、知らぬ間に大和郷(やまとむら)に入っていたことに、まもなく気づく。辺りに漂う茫洋とした空気から、なにかが変だと感じるところから、それははじまっていた。

大和郷のアルファ・ロメオ
大和郷はもともと大和村と書いた。東京のなかに「村」というのもおかしいというので、文字だけ「郷」にして読みはそのままにしたという話がある。大和郷は、六義園に隣接した三菱の所有地が売りにだされてできた分譲地が発端である。そこに、有力政治家や財界人あるいは東京帝大の教授などが住みついて、いちやく有名になった。大正の末から昭和の初めにかけての話である。なお、現在、鳩山一族の鳩山邦夫元文相の邸宅などがある。
いまは分譲地がさらに細分化されて、かつてのようにゆったりしたスペースではないけれど、歩くと、往時の匂いが残っていることに気づく。街の残り香はおもしろい。
「そう言えば、巣鴨のお地蔵さんとか行ったことないな。おばあちゃんたちがよく行くところ」
相手は、大通りの白山通りに出たあたりで、こんなことをつぶやいた。巣鴨と言えば、とげ抜き地蔵、「おばあちゃんの原宿」、これは食堂の定食みたいなもので、一度は味わっておく必要があるのかもしれない。
それに、駒込を出発して以来の、大名庭園と由緒正しい住宅地という雰囲気から、一挙に変わるのは、楽しいにちがいない。東京を歩く場合の楽しさのひとつに、こうして街の気風、気分がころころ変わることがある。あっという間のどんでん返しに見舞われる場合もあり、ゆるやかにいつのまにかちがう街になっていることもある。
地蔵通りがはるかに見えてきたけれど、その前にどうしても寄りたい店がある。巣鴨駅からは広場を隔てて向かいにある「駿河屋」である。そこには、きょうも店の前に数人の行列ができている。ここの福々まんじゅう(但しあんまんに限る。肉まんは試したことがないので知らないし、試す気持ちもない。)を、ぼくは東京三大福々まんじゅうのひとつに数えている。他のふたつは、墨田区東向島地蔵通りと、神田小川町靖国通りにあるが、最近はそのどちらも訪ねていないので、健在かどうかわからない。
「駿河屋」は健在どころか大繁盛と見える。列に加わりふたつ(ひとつ95円)買い求め、ひとつを相手に渡し、その場で食べる。ほかほか、うまい。もっとも、以前つまり40年前は、皮がもっと白くて滑らかだった気がする。現在のは、中華の点心に近いものがある。そこで、例によってブツブツ言い出したら、相手の一発が飛んできた。
「ごちゃごちゃ言わない。うまきゃいいじゃないか」
その通りである。言い返す余地が見つからない。
それにしても飲食が身近に感じられる街には、親しみがある。巣鴨駅の周辺に来たら、とたんに元気になった気がする。自分も、周りにいる人たちも。路上の人々が、みんなで元気の素を交換しあっているようである。白山通りの南側の舗道は、それにつづくとげ抜き地蔵の通りの助走路のようになっている。そこで、十分に期待に胸をふくらませ、地蔵通りに入った途端に、左右の店々の、満載の飲食物と、巧みな呼び込みの声に引き入れられないわけにはいかなくなるのである。
街全体で、とげ抜き地蔵周辺の賑わいの演出に加わっている。
型通りにお参りをして、そのまま退散しようとするが、どうしてもそれができずに、漬物の店に寄ってしまう。結局、たまねぎの醤油漬けなどという、別に買うつもりでもなかったものをひとつ買ってしまって、なんとか脱出する。ほんとうを言えば、店頭の塩大福(塩豆大福というのもあったが、これは初見。)に手を伸ばしたいところなのだが、やたら食べていいものか。
時計を見れば午後5時に近い。相手と話し合い、地蔵の賑わいは、この程度で打ち止めということにして、どこかで休みながら、少しビールでも飲むことにしようじゃないかということになった。駒込駅を出発してから、ほとんど腰を下ろしていないのである。さすがに疲労を感じるようになっている。
そこで、白山通りを北側に渡った。南側の喧騒からはなんとか逃れられる。暇そうな蕎麦屋を見つけて、てんぷらといたわさだけを注文し、ビールを飲む。キリンのクラシックである。さっきまでの騒ぎがうそのような、他に客のいない空間は、気持ちが落ち着く。
相手が、てんぷらのえびの揚げ方が不十分だと言い出して、結局えびを残すことにする。そこへ、客がひとり入ってきて、えびのてんぷらを持ち帰りしたいと、どこかアジアの訛りの従業員に告げている。注文を奥へ通したが、これがすんなりいかない。持ち帰り用の容器がないから、この注文は受けられないということらしい。客は、ちょっと包んでくれるだけでいいんですから、と言っているけれど、なぜかガンとして受けようとしない。とうとう、おかみさんらしい人が出てきて、通りの向こうを指さし、「あそこへいらっしゃったらどうですか」と、とうとう断わってしまった。ポリ容器のぐらいひとつぐらいありそうなものだが、と思うけれど、このやりとりの「真相」はよくわからない。
相手は食べたくないというので、勝手にひとりでもりそばを注文する。これがなかなかに歯ごたえのある、なめらかな麺で、するすると気持ちよく入っていく。この店での一連の展開には不似合いな味に思える。やめようかと思いつつ、結局頼んでみたのだけれど、予想外のことで、飲食店はわからないものである。
ここまで歩いてきたのだから、どうせならもう一駅分、大塚まで歩いてみようじゃないかと、これはぼくの提案であった。どうせなら、というのは、大塚まで行けば、案内することのできる酒場などもあるし、この日の着地点としてはまずまずではないかと考えたのである。無理にまとめる必然性もないのだけれど、ただ歩きっぱなし、やりっぱなしというのも、落ち着かない気がする。落ち着きというものをいやがっているはずなのに、やはり形をつくろうという意識が、無意識の力を借りてせりだしてくるのであろうか。結局、知らないほうへ知らないほうへ、ではなくて、逆に知っているほうへ知っているほうへと引きずられていく。
このあたりのJRの軌道は、道路から見下ろす「谷間」を通り抜けるかたちである。これを横切る白山通りは、したがって、陸橋の役割も果たしている。これを東側に渡り、すぐに右に折れて、大塚へ向かった。線路を見下ろす崖上にも道はあるのだが、崖っぷちの道というのも、日が暮れかけた時間には、あまり気持ちがいいものではない。もうひとつ内側の道を下ることにした。大塚は巣鴨方向からは、長い下り坂を伝っていく形になる。
この道は歩いたことがない。ラブホテルがもうしわけみたいに2軒ほどあり、ところどころに店屋の明かりが見えるけれど、暗く沈んだようなしもた家が大半を占めている。
わずかにある店屋のひとつのなかから、中年の女の大きな声が放り出されてくる。「いまね、隣りの家から電話してるんだけどさ。……」 ぼくたちは顔を見合わせて笑った。隣家に電話を借りに行ったり、電話のない隣家の家人を呼びにいったりする人がいまでもいるらしいということが、おかしかったのである。
当たりは暗さを増している。夜の時間へ向かっているからではあるのだが、巣鴨からの傾斜面の底に近づくにつれて、闇がたまって、いっそう暗くなっているような気がする。かつての大塚の三業地は、この底の部分にあったということになる。
ぼくたちは、入り組んだ裏通りのあるあたりを突っ切って、大塚駅の南口から小石川方面へ抜けている大通りに出た。ぼくは二、三度は連れられていったことのある酒場で、この日の歩行にとどめを刺そうと思っているんだけど、と相手に告げた。相手も異論はないということであった。すでに7時に近くなり、自分たちの奮闘努力を讚えあってもいい時間のような気がした。別に7時だから、8時だから、というきまりもあるわけではないのだけれど。
酒場は、コの字のカウンターがちょうど2席空いていた。運がいいと言えばそういうことになるが、きょうは土曜日で、いつもは客のなかで多数派の占めているサラリーマンの人たちが、少ないせいもあるにちがいない。樽酒を冷やでそれぞれに注文し、焼きタラコと大根おろしを大事に食べながら、飲んだ。ぼくもここに主体として来るのは、このときがはじめてなので、店の流儀がわからず、それを習得するためにほとんどの時間を費やしたようであった。
奥に腰を下ろしているおかみさんを勝手に呼びつけたりするのは、お行儀のいい振舞いではないこと、何を呑み何を食べたのかをよくおぼえておかないと、勘定のときに店の側に無用の負担を強いること、焼きタラコを食べて大根おろしが残ったら、ほったらかしにしないで、皿にまだあるおろしもちゃんと食べて始末をつけること、黒豆のおつゆも同様であることなどなど、そういう大切な雑事をいちいちおぼえこんだ。この次までに忘れていなければ、けっこう上手に振る舞えるのではないかと、相手とも話したものである。
周りの客たちのほとんどは常連らしく、手早く呑み食べしては出ていき、気がつくと、二人分の席を確保してほっとした、あのときに並んでいた、他の客はまったく姿を消していた。ぼくたちも、このあたりが潮時ということであろう。
★
[2004.6.18.]
![]()
この記事のURLを友人・知人に知らせる
│HOME│自由意志購読│フレームを外す│BACK│