★広報学・ロックバー・女性バーテンダー |
28歳の頃、原爆の被爆地・広島市で「放射線影響研究所」に勤めていた。放射線が人体に及ぼす影響や疾病を調査研究する機関で、日米が共同で運営する。山下節子さん(46)はここで、ニュースレターを編集したり、海外からの客を案内する仕事に就いていた。
企業や団体の事業とか製品について情報を発信する業務。これを広報(PR)というのだと知る。この仕事のこと、もっと勉強したい。1980年代末の当時、日本で学部学科を探しても見当たらない。しかし、あきらめない。
それまでの自分の人生、成り行き任せであった。
高校時代は、スチュワーデス志望で、大学受験など頭になかった。ところが親しい友人が受けるというので便乗。相手は落ちて自分だけ合格。大学3年でアメリカへ1年留学した。おとなしかった女の子は外向的に変わり、短髪が超長くなり、体重が10キロ増に。
ところが、一流企業の就職試験に落ち「人生初の挫折」を味わう。実家に戻って農園に勤め、観葉植物の輸出入業務に。わずか3ヶ月で辞めてしまい、転じた先が英会話教室の講師。そこも2年で、さようなら。
山下さんはずっと、自分探をしていたらしい。広報の面白さに触れ、日本の大学に見切りをつけて「アメリカへ戻ろう」と決心。米大学院入試の勉強に一直線。呉市(広島県)の自宅で。
「あの頃の私は日本と海外の架け橋になるのだと、意気込んでいました。乙女の憧れみたいですけど」
その後はわきめもふらない。米軍の岩国基地で行われた一斉入試に挑み、メリーランド大大学院で広報学を専攻することになる。
90年代初め修士の学位をとると、世界最大級の会計事務所に入り、ニューヨーク本社の広報部門に。
マンハッタンのど真ん中、自宅からオフィスまで徒歩3分。オペラが大好き。シーズン中は週に一度、わずかに地下鉄2駅で行けるリンカーンセンターの劇場に通いつづけた。
そんな山下さんにとって東京は「21世紀都市」である。2001年に日本の製薬企業に転職。生まれてはじめて東京に来た。
大混みのスクランブル交差点で茫然。展覧会は他人の頭の観賞会。ふらっとは入れない映画館。最初の1年半はイライラの連続。生活に慣れるのに3年かかった。
現在、世界一の医薬品メーカー「ファイザー」の日本法人(渋谷区代々木)に勤め、製品広報部長の要職にある。
打ち込んでいる仕事は疾患啓発。たばこの害、緑内障、脳卒中など、患者は多数なのに知られないことも多い疾患について、一般の人に意識を高めてもらうための情報を掘り起こし伝える活動である。
東京の会社に転じてうれしいのは、日本語で思う存分に仕事ができること。やはり母国語はありがたい。
残念なのは、もはやオペラが趣味と言えないこと。東京でもオペラは観られる。しかし、チケットが高過ぎるし中身の質が悪いと思う。なにより、開演時間が午後6時とか6時半では会社勤めには無理。
仕事は東京、生活はニューヨーク、というわけにはいかないものか。ともあれ山下さん、これをと思った道を貫いて生きている。(2008.2.21)
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一昨年暮れ、仕事仲間と気まずく別れた。ひとりになった。妻も子もない。手元に150万円ある。なにをして生きていこう。外国為替取引に没頭した。眠る間も惜しい。3ヶ月もせずにスッテンテン。一獲千金・悠々自適の夢は、潰えた。
大儲けしたら、ネットで自分の主張を発表しつづけようと決めていた。残念。でもロックがあるじゃないか、と西川宏樹さん(49)は思い直す。
西川さんにとって、ロックはただの音楽ではない。人間の生き方を教える「先生」である。
「世の中は、不寛容、傲慢、乱雑、無知、悪意に満ちている。そのなかで身も心もすりきれてしまわずに生きていく力を与えてくれる。それがロックだ」
ロックバーを開き、同じように考える人々が充電できる場にしよう。
西川さんは、30代のはじめに一流商社を辞め、その後、西新宿の路地裏で、地下のロックバーを共同経営したことがある。夜が更けるにつれ、大音響が地上まで這い上がり、周りの建物を揺らすかと錯覚する異空間であった。8年つづき、終わった。
今回は「出戻り」。前回「最後のロックバー」と名乗っていたから、ややこしい。
それにしても「大博打」に失敗した西川さん、開店資金をどうする? 人生の土壇場。知り合ったばかりの37歳の不動産業者に自分の半生を語る。偶然、業者はロック好きと判明。話に身を乗り出す。
西川さんに最後に残っていた財産が「オヤジの形見」60平米のマンション。そこで、これを売るときは、その業者を通すと約束し、借金を申し込む。こうして当面の生活費を確保し、借金を清算し、活動資金にもまわせる。ふたり連れ立って物件を探した。
マンションが売れ、住居を手当てし、店舗の保証金を払い、内装を依頼し……、思いがけない助っ人のおかげで、西川さん、人生をもう一度立ち上げる。
因縁のロックバーは、昨年7月7日午後7時7分7秒、新宿3丁目にオープンした。777はスロットでもバチスロでも「大当たり」である。西川さん、一獲千金の夢を諦めていないのか。
店名がなんと「アップセット・ジ・アップルカート」。英語で「企てをぶちこわせ」である。
元来は「りんごを運ぶ手押し車をひっくりかえせ」の意味。運搬途中に転覆し、赤や緑のりんごの実が地面をころがる。その姿は愛らしくユーモラス。同じ壊すんだったら、遊び心で楽しくやろうじゃないか。ロックは若い心を持ちつづける者のためにあるのだから、と西川さんは考える。
このロックバーの面積は10坪。なにもない空間。バーに欠かせない酒棚も脇へ押しやられた。ギターもポスターも、ロック雑誌も、あるいはロックスターのフィギュアも一切置いてない。耳を聾するロックだけが、気ままに鳴り響く。
カウンターに並んでスピーカーに正対する客たちは、「出撃を前にした特攻隊員」みたいに、静か。運命に身を委ね、ひっそり。
「ロックを聴く人は人間として優れたモラルの持ち主だ。その証拠に、以前の店でもこの店でも、トイレは汚れたことがない」(2008.2.28.)
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銀座で飲食店を営んでいた人が、突然、街を去る。困った事情がありがち。銀座は双六のあがり。そこを目指して頑張り、店を持つ。それがゴールのはずだから。しかし、永田奈奈恵さん(43)の場合はちがう。
奈奈恵さんは、女性バーテンダーの草分け。銀座で働きだした20年あまり前、若い女性がカウンターのなかで酒をつくる姿はほとんど見られなかった。
カクテルコンクールでたびたび優勝してスターになり、多くの女性がその後を追った。ところが2年前の春、突然、自分の店を閉め、去った。
いまは中央線沿線で、目立たない界隈の年経た木造の家に暮らす。夫と3歳半の子どもと。主婦をしながら、三ヶ月に一度はジャズのライブで歌う。
奈奈恵さんが育った家系は、父母はじめ、ジャズミュージシャンがいっぱい。音楽の世界はきびしい。親たちは娘に同じ道を歩ませまいとした。娘のほうも、歌が好きだが親にいちいち批評されたくない。聴くのにも隠れて。
妥協のない家族。奈奈恵さんは、手に職をつけて自立しようと、専門学校進学を選んだ。バーテンダースクールに応募したところ、女性で第1号の学生に。2年で卒業すると、銀座の有名バーが「おもしろい」と採用してくれた。
そこは初めて接するサラリーマンの世界。電通も博報堂も知らない奈奈恵さん、領収書に客の社名を書き込みながら「博報堂は白洋舎と関係あるの?」と尋ね、笑われた。「広告代理店だよ」と教えてくれた相手に「代理店って何?」とたたみかけ、絶句された。
夜の銀座は不思議な世界。一部上場企業のエライ人がべろべろに酔っぱらっているのも銀座。きれいなホステスがおじさんと「同伴」出勤するのも銀座。
その独特の風俗に馴染めなかった。バーテンダーの仕事にも満たされない。しんどさが募る。
自分のバー「ハートカクテル」をオープンしたのは31歳のとき。銀座には珍しく気楽な店にして、一息。夏には外のドアを開け放った。
そして奈奈恵さんは、おおっぴらに歌いはじめた。店内で月に一度のジャズライブを企画し、ボーカルを務める。キッチンでチャーハンのフライパンを振りながら、出番を待つ慌ただしさも楽しかった。
同じころ家族のなかのブロたちが、つぎつぎにこの世を去り、封印状態の歌心が解き放たれたらしい。
ある深夜、外国人ビジネスマンがひとり、店に入ってきた。コンピュータのプログラマー。数ヶ月のプロジェクトに携わるため、店に近い帝国ホテルに滞在中、と。空腹を抱え銀座を彷徨ううち、迷い込んだ。酒はともかく、メニューのタンドリチキンなどを喜んだ。
ふたりはやがて結婚し、奈奈恵さんはイスマイル奈奈恵になった。こどもが生まれ、開店10周年を過ぎたところで閉店した。
奈奈恵さんは新しい家族を得た。さらに、人前で歌を歌い聴いてもらわないでは済まない業(ごう)が、自分にもあるのを納得した。「これからは歌を突きつめていきたい」
あれもこれも銀座のおかげである。(2008.3.6.)
★[2008.5.9.]
読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!
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