★活弁・チーズ・多摩ニュータウン

 芸人が芸ををするのは舞台の真ん中のはず。それなのに、活動弁士は、舞台の端にいる。無声映画がはじまる。弁士は、登場人物のセリフを代行するだけではない。縦横無尽の話術で、解説し、盛り上げる。引き立て役のはずが、主役の映画を完全に食ってしまうことも。

 これが噂に聞く活弁というものか。教師に引率されて出かけた映画鑑賞教室。上映作品は、チャップリンの名作無声映画『キッド』であった。中学2年の頼光(よりみつ)少年は夢中になる。弁士になりたい──。

 きれいに撫でつけた髪、黒いフロックコートを着こなし、蝶タイで決める、弁士ファッションもなかなか。自分の「錆びたような」地声だって、目をつぶって聴き入ると懐かしげで、なかなかにいい。

 父母が離婚し、祖父母に育てられたためか、子どものころは、家のなかでよく遊んだ。

 幼稚園のとき買ってもらったお化けの本が気に入り、やがて水木しげるの漫画の大ファンに。小5のとき、最寄りの西日暮里駅から電車を乗り継ぎ、調布の水木アトリエを訪ねた。スタッフに歓迎された。

 以来そこには、勝手に上がり込んで、漫画を描く「恐れを知らぬ」頼光少年の姿がたびたび見られた。

 それが一転して、弁士にと、思いつめる。もともとみんなの好きなことに合わせたり、同調することが苦手な性格。その場を自分だけで仕切れる弁士に、天職を直感したのかもしれない。

 家族の反対を押し切って、高校を2年で中退した。弁士になるために。アテがあったわけではない。プロでやっていくほど弁士の需要はない、と映画関係者からも忠告された。

 活弁愛好者の趣味の会に加わると、メンバーは見事に高齢者ばかり。自分の祖父と同じ世代の人たちの前で演じた『鞍馬天狗』がデビューとなった。いまから10年前である。

 弁士をあきらめなかった。しかし「食えない」。俳優の付き人もした。ガードマンもした。病院の夜警のバイトは、一日1万8千円になったけれど、霊安室が思いきり怖かった。

 場をひとりで支配し、客の気分をかきたてる弁士の術が、奮励努力で次第に身についていく。

 上映中に突然、場内の明かりがすべて消えたことがある。停電である。真っ暗闇。どうする? 弁士!

 映画はたまたま海水浴の場面。海中の岩に取り残された弟を救おうと、兄が海に飛び込んだところで切れていた。頼光くん、すかさず「兄はいま、真っ暗な海中を泳いでおります。この深い闇はいつになったら晴れるのでありましょうか」

 暗い客席から、いかにもおかしそうな笑い声。弁士は必死。まもなく明かりが点く。頑張ってつないだ弁士に、客から惜しみない拍手が送られた。「でもこの映画、じつは新派大悲劇。お客さんはアドリブを喜んだけれど、この後もう一度悲劇調に戻すのが一苦労でした」

 これこそライブの面白さ。準備してできるものではない。日々の研鑽が威力を発揮する。頼光少年は、いまでは活動写真弁士、坂本頼光(らいこう)である。全国に十人あまりいるという弁士のなかでは、男性で最年少の28歳。(2007.12.6)

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 偶然、ポルトガルの民謡ファドを耳にした。52歳であった。衝撃を受けた。若い頃に夢中になった、ファドの女王アマリア・ロドリゲスの歌声が甦る。

 齋藤敏明さん(66)は、その2年前に愛する妻を亡くし、気持ちが屈していた。「ファドは演歌に似ている。でもちがう。落ち込んでいる人間に立ち上がる勇気を与えてくれた」

 ポルトガル語を学びはじめ、休暇にたびたび、ファドの国を訪ねた。60歳の定年で大手乳食品メーカーをやめる直前には、半年近く首都リスボンに語学留学もした。

 身長159センチと小柄。ハンチング帽をかぶり、パイプをくゆらす日本人。齋藤さんは「かわいい、かわいい」と、生でファドを聴ける現地のレストランで人気者に。

 パイプは齋藤さんのトレードマーク。20歳から吸っている。中途採用で会社に入ったのは30歳。面接の席で切り出した。「パイプいいですか。もしだめなら、御社に入るのは遠慮します」と。これで面接官の心を動かしたか。職場でも当然パイプを離さず、あだ名が「パイプさん」に。

 型にはまるのが嫌い。「多少給料が高くなるだけの出世より、いかに楽しんで仕事ができるかだ。食品の営業なので、スーパーの売り場で、手書きのポップ広告を自分でつくり、喜ばれた。自社のことより、販売店のためを考えた」

 もっとも、齋藤さんの本領が発揮されるのは、定年を過ぎてからである。

 65歳の昨年秋、恵比寿に「カーザ・デ・ケージョ」(ポルトガル語で、チーズの家)を開店した。

 ポルトガルに通ううち、おいしさに開眼した、加熱処理していないナチュラル・チーズを、14カ国50種類あまり揃える。

 店内には、チーズの香りが満ちている。客は好みを言い、齋藤さんのアドバイスを受けて注文。ワインを傍らに味わう。日本で初めてという本格チーズバーは、13名で満席になってしまう。

 定年直後に、チーズがつまめるイートインを手伝ったことがある。朝11時から夜10時まで働いた。身体はきついけれど、苦にならなかった。

 「お客さんの驚く顔、喜ぶ顔を見ると、私のほうも楽しくなった。もっともっと、おいしいと言われたい。そればかりを考えていた。新しい発見だった。そこで、自分の店を持ちたいと思うように」

 現在、客の中心は30代の女性たち。店内の男性は店主の齋藤さんだけということがしばしば。「このまま彼女たちが年を重ねていけば、10年後、20年後も、この店をつづけられるかもしれない」と、あくまで楽天的なのである。

 齋藤さんは、高校卒業後、電気器具の量販店に就職した。これが社会人スタート。その後、友人ふたりと会社をつくり、音響機器やアクセサリーを販売した。しかし、婚約者の親たちから「大企業勤めでなければ娘を嫁にやらない」と言い渡され、乳食品メーカーに転じたわけ。

 「あれ以来、人生、ずっと回り道と思っていたけれど、道は一直線に、いまここに通じていたのかもしれない」

 プラス志向の齋藤さん。(2007.12.13.)

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 鉄道の駅から、冬枯れた雑木林のなかをゆっくり歩くこと30分。1台のクルマにも妨げられない。多摩ニュータウン(多摩市)は、歩車分離が徹底している。

 広場に面した団地棟の1階。白木の引き戸を開けると「アートサロン ポラン」である。ビューティサロンと間違えた人が「パーマ屋さんじゃないのね」とつぶやいて去ることも。じつはギャラリーである。

 「ポラン」は、宮沢賢治の作品世界の中心にある広場の名前からとった。

 床に目を落とせば、セロ(チェロ)、象、ヨタカ、日輪(太陽)、そして、どんぐりと山猫が、モザイクで描いてある。いずれも賢治作品の主役たち。オーナーの峰岸久雄さん(60)は、「生きもの全てを分け隔てない」賢治が好きだと。

 ここでは、公園や公共スベースに置くパブリックアートや、優れた才能を持つ障害者の作品を主に展示する。客の入りはまあまあ。

 ときにどっと入ってくると、近くの保育園や学童保育の子どもたちだったり。さぞうるさいだろう。「その前に、かわいいね、楽しんでいるんだな、と思えば、騒音には聞こえない」

 高さが4メートルはある天井へ、10段の木造り階段が伸びている。その上に峰岸さんの「本業」の仕事場がある。環境デザインのプロである。街づくりに加わり、公園緑地を設計し、遊具のデザインもする。

 「かつてふつうにあった風景が、都市化によってなくなっていく。そこで、さりげない環境をあらためてつくっていく。あるとき、こんなところに花が咲いているよと気づいてもらえたり、珍しい小動物と遭遇するような場になればいい」

 自然散策を愛し、クリスマスに欠かせないモミの木についても、ニュータウンの公園に、緑の葉を茂らせて大木が自生しているのを見逃さない。緑地にたくさん植えられたモミの苗木の成長ぶりにも詳しい。

 都立園芸高校(世田谷区)の造園科を卒業した後、庭づくりの現場から、今の仕事に入った峰岸さん、ニュータウン住まいも23年になる。還暦を迎えたいま、大切にしている大きな夢がある。

 それは、地域の空き地に、障害者と高齢者が共に暮らし働くグループホームをつくることである。ここを拠点にして、寝食を共にしながら、新しい共同事業を起こし、自立を目指そうとする。「生き生きと暮らす」ために。

 老齢化が進むニュータウンの住民を対象にした総菜や食事の提供。メンバーで作業を分担し、配達も引き受ける。さらに、アーティストの協力で窯をつくり食器を焼くこともできる。自前のガラス工房を持てば、グラスも自家製。当然、売ることもできる。

 宮沢賢治の世界を連想させる。「ポランの広場」では、悪い支配者の山猫が逃げ出し、残った住民たちが「立派な」産業組合をつくるのである。自分たちの手でハムや皮類など日用品を製造し、販売網も拡げ、やがて軌道に乗っていく。

 ──ニュータウンの「ポラン」では、コーヒーやビールを手にしながら、アートを楽しめる。つまみも少々。「賞味期限が近づいたのは、ぼくが自分で食べる」と峰岸さん。(2007.12.20.)
[2008.2.8.]

読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!


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