|
★亀戸の裏通り、日本で唯ひとり西洋甲冑師
ありふれた木造家屋の土間■
ご職業は? と訊かれれば「甲冑修理」と答える。もっとも、たしかに修理もするけれど、本来は「甲冑製作」であろう。鎧兜をつくるのである。ただし、日本の侍たちの具足ではない。西洋の王侯貴族が自ら着用し、あるいは傭兵たちに貸し与えた、あの全身をピカピカの鉄板で覆うシロモノである。
三浦權利氏は、日本で唯一の西洋甲冑師であり、したがって、他にはだれひとり、英語で言うarmourer(アーマラー)を名乗れない。欧米でも、博物館の学芸員のなかに、修理の技術を持っている人はいるけれど、甲冑専門の職人はもはやいないそうで、世界中でもきわめて珍しい存在にちがいない。
蔵前橋通りから裏道に入っていくと、地番で言えば亀戸4丁目の、このあたりではごくありふれた木造家屋のコンクリ土間に、「世界の名工」はしゃがみ込んでいた。一見、昔気質の自転車屋さんである。また、ハンマーを振り上げて鉄板を叩きのめしている風情は、親父ゆずりの板金加工を生業とする頑固者という感じもする。
その背後に立ち上がるのは、まるで人間が中に入っているみたいに生々しい、マクシミリアン式甲冑である。16世紀初頭のドイツでつくられた馬上鎧の逸品で、三浦氏が、4年前に精魂込めて復元した。
「馬に乗ったときに最高のシルエットになるようにつくってありますから、ほら、こうして見るのがいちばんなんですよ」と、60代半ばの小柄な甲冑師は、しゃがんだまま自作を仰ぎ見る。その瞬間、誇らしくも面はゆそうな表情が浮かんだ。
「これ着てハーレー乗りたい」■
「臑当てをごらんなさい。あの線がいちばんむずかしいのです。臑の左側と右側の膨らみのかっこうはちがう。私は、マリリン・モンローの脚線美を思い浮かべながら、甲冑の臑をつくることにしているのです」
踝にかけてのラインが、ほっそりとして形がいい。臑はまた、その長さが各人で異なる。これを正確に計測しておかないと、甲冑の膝の位置がずれてしまって、歩くことができない。つまり、すべて着用者の身体サイズに合わせてつくられているのである。
コンクリ土間のマクシミリアン式は、三浦氏自身の体型を元にしているから、自ら着て歩けるし、馬上で剣を振りかざすこともできる。「これで、ハーレー・ダビッドソンなんか乗ったらいいだろうな」と、かつて陸王のナナハン・ライダーだったという甲冑師は、目を細める。
実際、西洋甲冑を身にまとった自分の姿を鏡に写すと、気持ちが心地よく高揚し、「おお、かっこいいな」とついつぶやいたりするそうである。
職人冥利に尽きる仕事ではないか。しかし、一体の製作に1年を要すると聞けば、そのぐらいの喜びに浸ることは、当然許されているいいという気がする。
だいたい甲冑づくりは、三浦氏も語るように、「融通むげな柔肌を固い鉄で覆うという、人間的ではないことをする」のである。だから、人体の動きを阻害しないように、ひとつひとつの部品に気を使い、念入りにつなぎ合わせ、組み合わせつづけなければならない。
甲冑師は、鉄の板を叩いて延ばし、ひとつひとつ部品から自作する。鉄の厚みも、いちばん厚い胴から、中ぐらいの腕、さらにもっとも薄い指へと変化する。それでいて、全体の重量は、人が身につけて戦うために動ける限度内に抑えなければならない。馬上鎧などの全身甲冑の場合で20キロ前後、上半身のみの半甲冑で15キロ程度という。
手の部分を装着させてもらい、驚いた。甲を覆う鉄の板の先に小さな鉄片を数枚つなぎ、その全体が、革手袋と合体している。鉄の覆いのついた手袋をつけているかたちなのである。つまり、固い鉄と柔らかい皮を組み合わせ、人体と折り合いをつけている。
肘や膝の関節部分も、表面には見えていない裏側で革ひもが鉄板を結びつけている。これでそれらの部分が、自由に動かせる。
固い金属と鋲でがちがちになったロボットのような甲冑という先入観は、こうして、すっかり打ち砕かれた。
三浦氏のおかげで、数百年前の人間の知恵が、いまに蘇るのである。
興隆と衰退の歴史をたどる■
甲冑は、注文に応じて製作する。それにしても年に一体しかつくれないとなると、かなりの高額商品なのではないか。
「やはり中堅サラリーマンの年収ぐらいは保証していただかないといけませんね」
ということは、
「高級外車一台と、甲冑一体の値段が釣り合う感じです」
この価格設定は、実際に甲冑が実用に供されていた15世紀から16世紀の時代でも、同様であったという。現代で言えば、高級車を乗り回せるぐらいの特権階級でないと、甲冑を買い求められなかった。普通の人たちは、したがって、戦争に出かけるときだけレンタルしたものである。
一方、トップに立つ皇帝や王ともなれば、パレード用、槍試合用、実戦用といくつもの用途に合わせた甲冑を揃えていた。
新しく買えば、みんなに見せびらかして、自慢の種にした。古いのをいつまでも着ているのはみっともないことで、どんどんつぶして新しいのを買い求める。甲冑職人の組合は、買い換えをしきりに奨励したが、これはもちろん、もっと売るための販売戦略であった。
アルプスが鉄鉱石の産地だったので、ここに近い、ドイツのニュウルンベルグやイタリアのミラノが、甲冑づくりの中心地になっていた。これらの都市には、強力な組合があり、職人たちの作品に対して、きびしい品質検査を実施していた。万一、粗悪品が出回ったりすると、土地の同業者全体の信用にかかわり、売り上げに響くからである。
一時は、その売買の動きに、景気が支配されるほど、甲冑は大きな影響力をもっていた。ところが、やがて武器が槍や矢から鉄砲に代わると、重い鉄を身にまとうよりも、脱いで機敏に行動するほうが戦いやすいことがわかり、17世紀になると、甲冑は急速に衰退していった。
しかし、その技術の伝統は、いまに受け継がれている。ドイツやイタリアの自動車産業のベースには、鉄を叩いて自在に甲冑のパーツをつくった、優れた板金技術があるという。
40歳にして、迷わず立つ■
三浦氏が語る「甲冑興亡史」に耳を傾けていると、高校の授業で学んだ世界史とはちがう、ヨーロッパのもうひとつの顔に出会うのに気づく。
「学校では『王様の歴史』の側面からしか歴史を教えていない。わたしはモノの歴史に興味があったんですよ。……甲冑は私にとっては作品である以上に歴史を伝える証人なんです」
と、甲冑師は、『ロボコンマガジン』誌のなかで語っている。若いころから歴史の虫であった。しかし、法律家の父親からは、法科へ進むことを条件に学費を出してやると言い渡された。現在の三浦氏の工房はかつて、父が事務所に使っていたところだという。
言われたとおり大学を出て、父の手伝いをしながら、輸出業や不動産販売業などを手がけて、ひたすらお金を貯めつづけた。ある程度資金ができると、ヨーロッパに出かけていって、オークションで甲冑を買い求める。
モノの歴史を解明するための教科書はない。モノ自体にあたる他はないのである。だから、歴史の精髄が詰まった甲冑を解体し、ばらして、技術の勉強にいそしみ、職人たちの「企業秘密」を暴くことに熱中した。
ロンドンやパリの歴史協会にも入会し、40歳になった1975年には、日本で初の西洋甲冑専門書を書き上げ出版した。そればかりではない。自ら甲冑をひとつ復元してしまった。
このとき、三浦氏が予想もしない事態が発生した。復元作業がテレビで報じられると、「自分にもひとつつくってもらえないか」という依頼が舞い込んだのである。
このころ、日本にも洋風住宅が普及してきて、かつて床の間を飾った日本古来の鎧や兜よりも、西洋甲冑のほうが空間としっくりすることに気づく人たちが出てきたわけである。
こうして、それまで「西洋人がつくったのなら信用されるけれど、日本人ではイミテーションだぐらいにしか受け取られないだろう」と思い込んでいた三浦氏は、甲冑づくりが職業として成り立つことをさとった。
後は一直線である。好きこそもののナントカの警句どおり、いまでは、甲冑の製作者であるとともに、西洋の歴史武具研究の第一人者になっている。
ひとつのことをやり通すことで、人生がどう開けていくかの見本がここにある。
いまも、ヨーロッパに通いつづけ、各地の博物館を巡って研鑽を積んでいるにちがいない。
と思いきや、
「ヨーロッパですか、行かなくても、甲冑の裏表の写真があれば、基本はわかるようになりました。ガラスのケースに入っているの見ても勉強になりませんしね。復元しながら、奥の奥の秘密を求めて、昔の職人たちとの知恵比べですよ」
歴史をひたすらに遡り、無人の荒野を駆ける。亀戸のコンクリ土間に、とんでもない人物がいるものである。★
|