| TOKYO | 2007.10.12. |
☆ジャグラー・ジャズタップ・DJ |
ときに腰が痛む。行きつけの医師を訪ね、筋肉注射をしてもらう。よく効く。先日は、40歳を目前に「不惑ドック」の検診を受けた。内蔵が心配。結果は「正常」だったけれど、油断はできない。身体の衰えは止めようがない。
仕事は、各種イベントや街頭、ときに豪華客船上でも演技するジャグラー。ボールやピンをお手玉するだけではない。「足長」も一輪車も。身体芸を繰り出しつづける。身体がきつい。さらには、荷物抱えての移動がまた一苦労。
石川健三郎さん(39)は17年前、湘南海岸のイベントでジャグリングに手を染めた。21歳の当時はパントマイム芸人。自分の出番の合間にボールで遊んでいたところ、たちまち上達。「商売替え」することに。
当時の日本はバブルの絶頂期で、お金がだぶついていた。みんな遊びたがる。あちこちでイベントが開催される。石川さんは、バブルとその名残のなかで、ジャグラーとして自立していったとも言える。
「ぼくの芸は、20代の半ばにできたもの。同じことを40近いいまもやろうとする。身体がきついのは、思えばあたりまえ」
芸については、10年ほど前、自分本位でなく客本位に転換した。いまは納得している。
たとえば7個のボールをお手玉するセブン・ボール。「この7個の芸を見たいですか。じゃ拍手ください」「さあ7個、7個」と次第に声のトーンを上げる。最後にひときわ高く「マツシマァ!」。客はたまらず「ナナコォ!」。もちろん女優の松嶋菜々子さんに掛けている。
ここで「はい、ありがとう」と道具を片づけるふり。お客は不満。「いいじゃないか、いまみんなでナナコ(7個)しただろ」と、駆け引き。こうしてセブン・ボールへの客の渇望を高めていくのである。
「だけど、このあいだいつも通り、マツシマ! と客へ投げたら、トモ子! と返されてあたふたしたけど」
ライオンに齧られたベテラン女優、松島トモ子さん、とんだところで引きあいに出されてしまった。
身体への不安の一方で、芸をする楽しさが増してくる。衰えはじめたらしい身体を担保にして、石川さんならではの芸が育っていく。
ところで、いまもむかしも変わらないのは、生活の不安定。
「結果、収入を期待しない生き方になる。海外旅行に毎年出かけるなど考えないし、クルマの趣味もない。ブランドも興味の外。だれにも期待しないし、だれからも期待されない。電話がかかってきて仕事をくれたら、それでいい。こうなると収入は、いろんな判断の基準にならない」
6年前、芸能ブロダクションの事務職の女性と結婚した。新妻から「ボーナスが出たから食事に行こう」と誘われ、仰天。思わず「おお、なんだ、それは。泡銭じゃねえか」と、落語の八つぁん熊さんみたいなセリフを吐いてしまった。
愛犬を散歩させ、ジョギングに汗を流し、ラーメンなら3軒のハシゴを厭わず、ベランダで赤とうがらしの栽培に精を出すけんちゃん(石川さんの愛称)。その日々は、ごく幸せなのだ。(2007.8.23.)
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男に生まれたら船乗りになりたかった。子どものときから船が好き。形式に縛られることが大嫌い。だから「自由な」アメリカに憧れた。アメリカ大陸へ船で行く。一時代前の人のような願望を抱くように。
成人してまもなく、タップダンスを習いはじめる。ニューヨークへ行って、タップを究めたい。夢は拡がる。クルマの販売をする男性と結婚したのは、そのころである。
「ふたりして夢を実現したかった。時間がかかりました。男の人が仕事を棒に振るのは簡単ではありません。将来のこともある。でも私はひとりでは行きたくなかった。7年かけて話し合い、待ちました。いま思えば、彼は私と結婚してよかったのか。でも、奥底で私たちよく似ている気がするのです」
21年前、大沢ミチさん夫妻は、アメリカの貨物船に「ゲスト」として乗船し、2週間近くかけて太平洋を渡った。夢の実現の第一歩である。
アメリカ大陸を横断し、ニューヨークに至る。モダンジャズのリズムをタップで表現するジャズタップの名手、ブレンダ・バッファリーノに巡りあう。大沢さんはその下で学ぶことに。
「東京でタップを10年してきても、ニューヨークではビギナー。どん底を見ました。自分がどの程度のものかわかった。飾ることもなくなり、うまいと言われたいという思いも消えた。周りは知らん顔していたけれど、一生懸命やっていると認めてくれた。いま思い出しても感激です」
大沢さんは、そう言いつつ、涙を溢れさせた。
夫も、自分用のタップシューズを買った。ブロードウェイのダンススタジオに通い、タップを習いはじめた。
しばらくして、夫の父が危篤だという報が日本からもたらされた。ふたりは、ニューヨーク生活を1年半で切り上げ、帰った。
「まず、ふたりして夢を。ずっとそれが優先でしたから。ニューヨークにあのままいたら、私はブレンダ先生のアンサンブルのメンバーになり、ヨーロッパ公演にも行っていたでしょうが。そうはならなかったのです」
帰国後、運転好きの夫は病院患者の搬送車を運転する仕事に就いた。すぐに忙しくなり、ニューヨークではじめたタップはそれっきりになった。
夢が、映画の筋書きみたいに、そのまま美しい現実になることは、少ない。大切なのは、夢の実現のために力を尽し、それにより心満たされることであろう。
現在の大沢さんは、十条(北区)の商店街の一角にある貸しスタジオで、ジャズタップを教える。初歩の子どもたちも、10年以上来ている高齢の男性もいる。
週に1日は、住まいのあるマンションの集会室か、区の小ホールでひとりきりでタップをする。「メトロノームと一緒に踊っているのが、ものすごく楽しいんです」
自室でも靴下のまま、ついタップ。タップに打ち込んで30年。「もう孫がいてもおかしくない」と言うけれど、ニューヨークのブレンダ先生など、70代のいまも、いい味を出して踊りつづけているのである。まだまだ、これから。(2007.8.30.)
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この3月から、故郷の塩釜市(宮城県)に戻り、植木職人をしている。すでに東京で4年あまりの経験がある。これで生計を立てる。
月に一度上京する。下北沢のライブハウスで、音楽イベント「ジャンク・ロック・ベイビー」をプロデュースするため。本番では、DJ3人の先頭に立つ。
安彦(あびこ)邦広さん(38)の人生観ははっきりしている。
「二兎を追う者は二兎をずっと追いつづけること。どっちかがだめになると、結局両方だめになる」
「好きなことしたいヤツは寝ないでがんばる。馬鹿になってやりつづける」
「夢は限りなく拡がる。削ったり捨てたりすることなどできない」
生活のために一生懸命。遊びにも力のかぎりを尽す。その結果に納得する。格差社会など関係ない。
20歳のとき、米軍放出のズタ袋ひとつを背負い、故郷を後に東京へ向かった。住まいも仕事も先輩の言いなりであった。どこにも自分がいない。これはだめだ。
仕事先を自分で探しはじめる。結果、テレビで歌番組などのバックに明かりを点滅させる電飾の現場作業員に。24歳になっていた。
セットをつくっては壊す。その連続が快感。丈夫なものこそカッコいいと信じていたが、吹っ飛んだ。それにしても異常なせわしなさ。一ヵ月の就労時間が最長で420時間を記録した。スタジオの床に倒れて眠ったことも。
仕事のできる他人に追いつくため、睡眠を削りまくる。暇はなくても金だけはある。隙間の時間に、ぼけっと歩いては好きな古着やレコードを買いあさる。4年間つづけた。またも、これじゃだめだ、と。楽しいこともしたい。
レコードは十分ある。大きな音を出して、みんなで音楽を聞きたいな──。電飾の仕事はやめ、プールバーの従業員になった。店にターンテーブルを持ち込み、DJの真似事をして遊ぶように。自腹を切り、知り合いや、知り合いの知り合いを呼ぶ。バンドマンに馴染ができる。
世界が拡がった。5年前、バンドと組んで、ライブハウスの常設イベントを仕切り、現在に至る。
31歳で結婚した。下北沢で植木屋に就職したのは、この頃。1年後に娘が生まれると、夜も居酒屋で働きだした。当時、保育園児の事故死が続き、妻には、育児専業になってほしい。自分が妻の分も稼ごうと。DJブースで楽しく遊びつづけたいし。そこで「寝ないで働く」
近年は、皮工芸品づくりにも手をつける。美容師の鋏入れや、細かくつくりこんだ財布。人に会い、相手の注文を聞き、細かく話をするのが楽しい。
故郷を出てから20年。いまになって、ふたたび戻っていったのは娘のためである。
「ぼくが東京でしんどい思いをしたとき、東京の連中に負けたくなかった。田舎もんが絶対強いんだと踏んばってやってきた。娘を田舎に連れていったのは、自分の強さを信じられる人間に育てたいから。田舎の強さを教えたい」
同じ考えの妻は、安彦さんの楽しみには関心がない。DJをするようになってだいぶ経つけれど、イベント会場に妻が姿を見せたのは、2度だけ。(2007.9.6.)
★[2007.10.12.]
読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!
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