★囲碁教室・ヨーガンレール・猫画廊 |
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碁を打つとき、碁石を指に軽くはさみ、一瞬、盤上に浮かすようにする。これを眺めていた6歳の少年は、石が指にくっついている、マジックだと思い込んだ。父親に尋ねると、「じゃ、碁を教えてあげよう」と、もちかけられた。
年をとったら、我が子相手に碁を打つのが念願だった父のほうは、これはチャンスと軽く考えたのであろう。
ところが、半年も経たず意外な展開に。幼稚園年長さんの少年は、碁の実力で父親を追い抜いてしまう。小1の夏休み前に、はやくもアマ初段に。17年後の現在では、堂々のプロ棋士になっている。大橋拓文(ひろふみ)くん(23) 日本棋院四段。
父親の憲昭さん(62)も、じつは強くなった。当時は四級。しかも長いこと滞ったまま昇級していなかった。ところがいまではアマながら四段にまで昇ったのである。昔からの碁仲間には「いつの間に!」と驚かれる。
「息子のおかげです。彼がどんどん力をつけるので、私もやる気になりました。強くなろうと心から思えば、ある程度までは行けます」
父親の憲昭さんと母親の美奈子さん(60)、それに一人息子。大橋さん一家3人は、ずっと谷中(台東区)に暮らしている。
拓文くんが谷中小4年のとき、少年少女囲碁全国大会の東京代表になり、準優勝を果たした。そのご褒美に、大会協賛企業から30万円が学校に贈られた。
そこから拠出して、碁盤など囲碁関係の品物を買い整え、校内で囲碁入門教室が開かれた。その世話係をしたのが大橋夫妻。終了後、継続希望に応えて、夫妻は「こども囲碁教室」を週1日ずつ開くことに。
それから13年、教室は週3日に増え、幼稚園から中学まで、「卒業生」は500人を数える。別に児童館などへも教えに出向く。
家では、子どもたちの対局結果を「ランク表」に整理するのに追われる。夫は「囲碁教室が忙しくなったので」と、55歳で勤務先のコンピュータ企業を早期退職してしまった。
教室では、夫が優しくにこにこと囲碁を教え、妻は「憎まれ役」となり、お辞儀など行儀作法に気を配るという役割分担。プロになった息子も手伝いに。
対局を終えた子どもたちは、会場の周りで遊び回る。塾通いが増え、母親が仕事に就くことの多い此頃、囲碁教室は、めいっぱい自由に遊べる、数少ない場になっている。
妻「小さいときに一生懸命やったことは忘れません。きっと残ります。楽しかったと、後で思い出すのは、またうれしいものです。私たちのほうは、子どもたちに会うのが、いつも楽しみ。しばらく顔を見ないと会いたくなります」
夫「子どもたちが変わっていくのを目の当たりにできるのが幸せです。30分もじっと坐って碁が打てる我が子の落ち着きぶりに、親たちのほうが驚くのを目にするのなど、新鮮な感動があります」
大橋さん夫妻自身、希有な才能を開花させた拓文くんにリードされ、生き甲斐を見つけた? 「そう、私たちって、息子の七光りなんです」とお母さん、アッケラカン。(2008.1.10)
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東京の都市再開発に追い立てられるように、あっちこっち。
ファッションブランド「ヨーガンレール」が立ち上がったのは1972年。創業時の本社は六本木。80年代、大規模開発を避け、海に面した竹芝(港区)に移った。倉庫の最上階の広々とした空間。ところが90年代になると、今度は東京都の都合で立ち退きを求められる。
そこで下町・江東区へ。「私は水辺と緑の豊かなところに移りたかった。都からいくつか代替地候補を示され、なんとか納得できたのが、ここでした」と、自然素材と職人仕事にこだわりぬくデザイナーのヨーガン・レールさん(63)。
社屋は小ぶりの4階建て。江戸時代からの運河、仙台堀と、広々とした清澄庭園に挟まれている。庭園の緑に埋もれるように、昭和初期の風情漂う深川図書館も。レールさんは掘割と図書館のたたずまいに魅せられて、移転を決める。
ところが、93年に移ってくると、あの図書館は改築され、真新しい建物に変わっていた。悔やんでも後の祭り。東京は激変する。
せっかく本社屋に選んだのである。精一杯楽しくきれいにしようと思う。建物の周囲に、イチヂク、枇杷、桑などの木をふんだんに植える。さらに、外壁には、各地から集めた蔦を這わせる。ナポレオンの故郷、コルシカ島から運ばれてきたのもある。
2階は社員専用のランチルームに。メニューは、専任コックが調理する無農薬野菜のおかずと玄米食。じつは「主役」のレールさんだけは、ごはん多めの特製夕食弁当も別途つくってもらう、という我がままぶり。
社屋の放浪は、やっと終わったらしい。それというのも、レールさん自身、周囲の豊かな緑が気に入り、オフィスから徒歩2分、隅田川に近い場所に、自宅を建てはじめている。
レールさんは、ポーランド生まれのドイツ人。18歳のときにバリへ行き、布地に柄や色をつけるテキスタイルデザインの仕事に就いた。その後、ニューヨークへ。
友人に東京行のディスカウント航空券があるからと誘われたのが37年前。3ヶ月滞在のつもりでやってきた。すると3年契約の就職口が舞い込み、住みついてそのまま。間もなく40年になる。
偶然に東京に来て、偶然に住んでしまったという感じ。自分の人生を自分で決めていないような、ふわふわとした感覚。
沖縄の石垣島に、もうひとつ自宅がある。1年365日を割り振って、3分の1は沖縄で過ごす。
そこでは、ほとんど服飾の仕事はしない。もっぱら農業にいそしみ、米や果実づくりに没頭する。本社の食堂で、社員のランチの主食になる玄米のほとんどは、レールさんが自分の田んぼで収穫した沖縄産。
「人生の最後には、石垣島に移って、独りでやれるかぎり野良仕事をしつづけたい。いい空気、いい水、広々とした空間を満喫しながら」
そのとき初めて、人生を自身で決めることができたと思えるのかもしれない。東京は予想外に長くなった。しかし、通過地点には変わりがない、か。(2008.1.17.)
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猫が好き。
以前、母猫と娘猫を飼っていた。母猫が死んだ。23歳であった。長命である。やがて娘猫も死んでしまった。24歳。母親よりさらに長生きである。
宮地延江さん(73)は、愛する猫たちに去られ、小猫を新たに飼おうかと思案した。しかし、自分の年齢を考え、やめた。「こっちが先に行ってしまったら、猫に悪いでしょ」
かつて20代のころ、宮地さんはラジオやテレビのドラマ脚本を書いていた。30歳近く、広告のコピーライターに転じた。子どもが生まれたので、拘束時間の短い仕事を選んだのである。
職種はちがっても文字相手に変わりはない。やがて絵と付き合おうかと「軽佻浮薄に」考えはじめる。銀座で画廊をするのはどうか。いまから24年前、銀座は画廊天国。それだけに、独自の切り口がないとアピールしないであろう。
こうして猫がテーマのアートだけを扱う画廊を思いつく。大好きな猫に囲まれていられるし。画廊仲間からは奇異の目で見られた。しかししたいことをするしかないではないか。
自分の要求は、どこまでも押し通す。それが、猫の生き方。宮地さんも、やりたいことだけやってきた猫的人生。「でも、本物の猫には、いつもあごで使われてばっかり」
銀座裏の通りに猫の画廊「ボザール・ミュー」がオープンした1984年当時、猫を描く作家は20人前後に過ぎなかった。それがいまでは100人にはなっている。
宮地さんが組む展示は、年間40にも及ぶ。企画展の場合、画廊の主自ら、重い額縁を運び、ひとり奮闘する。もう若くはない。だから自分の気に入るようにしたい。結果うまくいくと「やったあ」と快哉を叫ぶたくなる。うれしい。
客はまず全員が猫好き。長く通ってきていた客が突然姿を見せなくなることがある。しかし、しばらくすると、ケロリとして現れる。どこかで野良をしていたか。「猫画廊」の客もまた猫に似ている。
つらいのは、飼い猫を亡くしてまもない人を迎えるとき。展覧会場で慰めの言葉をかけるうちに、もらい泣きしてしまう。画廊の客と主人が、目を泣きはらしたまま立ちつくすというシーンも。
この10年ほどの間に、男性の猫好きが目立つようになった。愛猫の写真を持ち歩き「これ、うちの子」と言いながら、見せてまわることも。
「猫は、私のクライアント(得意先)なんです。その魅力をほめたたえ、素晴らしさをアピールすることに、私は努めています」と宮地さん、猫に対しては従順そのもの。
――ところで、宮地家の猫不在は、その後、円満に解決した。以前からときどき食事をしに立ち寄っていた雌の野良が、頻繁にやってくるようになり、やがて居着いたからである。
この押しかけ猫は、黒と白のぶち。全体に黒で、ところどころ白が破片みたいに混じる。そこで名前は宮地ハヘンに。かわいい。それなのに「おたくの猫って、ガレキちゃん、それともカケラちゃん?」などと訊く、心ない知り合いもいる。これには飼い主、むっとなる。(2008.1.24.)
★[2008.3.10.]
読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!
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