★ハーレー・営業マン・乳母と兄弟

ufo

 はじまりは、自転車。20歳のとき、やっと乗れた自転車。乗り物を自分で動かせたことに感動した。これで日本中どこでも、ひとりで行ける。そう思ったら、人生が開けて見えた。

 三鷹市の傳田比左子(でんだひさこ)さん(55)、いまではバイクに乗る。それも、バイカー垂涎のアメリカ製大型バイク、ハーレーダビッドソンを操る。真っ黒な「ナイトトレイン」タイプで、排気量が1450t。

 傳田さんのハーレーへの道は平坦ではなかった。

 22年前、傳田さんは、銀行員の夫の転勤で、図書館司書の仕事を辞め、アメリカに住むことに。そのとき、知人のハーレーの後ろに乗せてもらった。これが初体験。夜の高速。もろに当たる風がハンパじゃない。感動する。すれちがうハーレー同士、挨拶を交わすのもカッコいい。

 前に乗れたらもっと気持ちいいだろな。そう思ったのが発端。これが34歳のときであった。

 しかし東京の日常へ帰ると、気持ちが萎え、乗れる気がしなくなった。

 そのうち、ふたたび夫の海外転勤。今度はブラジル。街にはバイクが溢れていた。勇気が湧く。現地の訓練センターに潜り込み、練習に励んだ。ハーレーへの思いは途切れてはいなかったのである。

 今度は帰国してすぐに、憧れのバイクをまず買ってしまう。

 いきなり大型自動二輪免許の取得試験に臨んだが落第。その後も落ちつづける。家族からは「無理、無理」と。

 「私も、ハーレーがバイク屋さんの片隅で待機していなければ、途中でやめたでしょう。そうなっては自分がかわいそうすぎます」

 挑戦を重ね、やっと1年半後に免許取りに成功。傳田さん、50歳間近になっていた。

 「ほんとにカッコの悪いストーリーです。でも、女だからトシだからとあきらめないで、といまは言える。自分の子どもらにも、やろうと思えばできると、胸を張れます」

 それにしても、この先、どのくらい乗りつづけられるか。その不安はある。乗れるうちに、できるだけ乗っておこうと考える。

 長い距離を平気で走る。青森の実家へも、東京から700キロ弱を一気に。最長は、東京から鹿児島まで、途中、大好きな温泉に2泊して走り、その後Uターンして別府経由、フェリーで東京に戻った。

 傳田さんには、大きな目標がある。ハーレーで走行距離10万マイル(約16万キロ)を達成することである。すでに3分の2程度は走破。最後は、広大なアメリカ大陸を巡りたい。

 かつて傳田さん一家がアメリカに暮らしたとき、近くをルート66が通っていた。アメリカで最初の国道のひとつである。この道路は是非走りたい。

 おむつのとれない我が子の世話に疲れ果てて、日本へ帰りたいと思いつづけ、うつ状態になったアメリカ。英語をゆっくり話してくれる隣人の親切に安堵したアメリカ。

 「10万マイル」は、ミルウォーキー(ウィスコンシン州)のハーレー本社前で達成、というのはどうか。

 傳田さん、さまざまに思い巡らす。(2008.3.13)

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 いつも持ち歩く、ティファニーのボールペン。男女を問わず人気が高いブランドアイテムである。一本2万1千円で購入。

 3年前までクルマの営業マンをしていた。新車が売れて契約書をつくり、お客にサインをしてもらうとき、これを差し出した。客へのサービスのためだけではない。

 アイロンのきいたスーツ、鮮やかな色合いが目を引くネクタイ、そして高級ブランドのペン。ビジネスコンサルタントの大久保政彦さん(42)は、そこに「東京進出」の強い願望を込めている。

 大久保さんは、東京とは川ひとつ隔てた隣の町に育った。同県内の大学を出て、地元の国産車ディーラーに就職した。

 やり手の上司の指導を受け、不況の時代にも販売台数を落とさずがんばった。31歳のときには、年間173台と、社内一の売り上げ記録を達成した。2日に1台近い割合で売りつづけたわけである。すごい。

 その頃のある日、ふだんは縁のない東横線に、渋谷から乗った。車内を見回し、驚いた。乗客のファッションがいかにも高級、持ち物おしゃれ。圧倒される。大久保さんは、この人たちにクルマを売らなくては本物じゃないと思った。

 目黒、大田、あるいは世田谷など、そこは東京「城南エリア」。富裕層の住民が多い。「恐怖心も同時に抱いた。経済や金融は、大の不得意分野。株がどうとか、むずかしい話をされたら、どうしていいかわからなくなるのでは」

 近県から来た辣腕営業マンも、「東京砂漠」に置き去りにされる幼児のように震えた。

 チャンスは別の方向から到来した。輸入車メーカーの日本法人が、販売強化策として、優れた人材を東京本社採用で募ったのである。「当面は近県勤務だが、希望すれば東京、さらには海外への道もある」という殺し文句をちらつかせて。東京で力を試せる。大久保さんは燃えた。

 東京に進出できるだけではない。その先に海外への道が開けている。それも魅力であった。「日本のマンガ抱えてアメリカを荒らしまわるぞ」「俺はタイだ。キックボクシングなら任せとけ」などと、大久保さんたちは冗談を言い合った。

 ところが、しばらくすると会社の幹部が交代。方針が変わった。燃える営業マンたちは、希望の消えてしまった会社から去るしかなかった。

 大久保さんは、潮時かなと思った。だれかに頼るのではなく、自分たちでやっていかなくてはいけない時期なのではないか。「近県では終わりたくない。東京から世界を見据えたい」と、同じ考えの仲間たちと、コンサルティング会社を立ち上げた。それが3年前。

 クルマの営業の豊富な経験を生かして、自動車会社の社員研修や業務実態の調査を引き受け、実施する。仕事は全国規模。

 本拠地は東京にしたい。しかし、家賃が高過ぎ、いまは無理と判明。そこで、近県の県庁所在地で、知り合いの空き家の2階をしばらく借りることに。

 「目指すは都心。できればビジネスの中心、虎ノ門から神谷町あたり」と、こだわる。(2008.3.20.)

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 京橋に近い銀座1丁目。夕方6時過ぎ、小振りのビルの入り口に車椅子が到着。着ぶくれ(失礼)した老女が、足元おぼつかなく階段を下りて地下へ。開いたままのドアを入り、いつもの席に腰を下ろす。中華料理の「東々居(とうとうきょ)」はわずかに16席。

 新聞と雑誌が運ばれてくる。読みだす。畠中清(きよ)さん(92)は活字好きで、若い頃の夢は本屋さんになることであった。

 この店はずっと、清さんの職場である。脚が不自由になる数年前まで、店内のテーブル拭きなどに精を出していた。現在もこうして座り、店主の英臣さん(63)と紀臣さん(59)の山本兄弟が立ち働くのを間近にする。

 昭和20年代、当時30代前半だった清さんは、山本家にやってきて、生まれて間もない紀臣さんの乳母になった。体調のすぐれなかった母親に代わり、赤ん坊を育てた。きょうだいたちの面倒も見た。

 就寝前にかならず本を読み聞かせ、小学生になれば、映画館に付いていき、学校行事の付添いも欠かさなかった。遠足の集合写真には、清さんが写り込んでいる。当然、山本家の家族旅行も一緒に。

 一方で、中華の店のなくてはならない働き手にもなっていく。

 紀臣さんは不思議な気がする。「幼かったぼくは、店の冷蔵庫の上に載せられて、仕事をする清さんをじっと見下していたらしい。いまはそれが逆転して、不自由な身体の清さんに、調理場の自分が見られている。深い縁(えにし)を感じる」

 閉店時間の午後9時になると、客がいてもいなくても、「早く掃除して帰りましょう」と、調理場の兄弟を促す。うなずいて素直に従うふたり。清さんは、いまも働きつづけているのであろう。

 ずっと、山本家の人々と暮らしを共にしている。一日に3ヶ所も回ることがある病院通いが日課に。車椅子を押して付き添うのは、「紀坊」こと紀臣さん。その姿から、「英坊」こと英臣さんは、自分たちの父の英一さん(故人)と祖父とのことを思い出す。

 英一さんは和菓子屋の丁稚奉公から叩き上げ、銀座に中華の店を2つ残した。この「東々居」と、もう一軒「八眞茂登」(やまもと)(銀座2丁目)と。

 この父は、老いた祖父をおぶい銭湯に連れていったものである。「いまは、紀坊がおやじのしていたことを継いでいる」と英坊。

 90代の清さんの身寄りは、ごくわずかになってしまった。

 山本家の乳母になる以前の戦時中、清さんには結婚の約束をした相手がいた。彼は徴兵され、きっと帰ってくると誓って出征した。しかし、ついに戻らなかった。南方戦線の船上で銃撃を受け、命を断たれたのである。

 残された清さんは「子ども大好き」。山本家の幼子たちの面倒を見、その家業を手伝い、次第にそこを「自分の家」と考えるようになったのか。

 病院の医師、通院仲間、近所のオフィスに勤める人、毎日欠かさずラーメンを食べていく律義な客などなど、清さんを兄弟の母親と思い込んでいる人はたくさんいる。(2008.3.27.)
[2008.6.2.]

読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!


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