★銀座の街に、昭和モダンの名残りを求めて

躍動する精神のよすが■
 銀座松坂屋の裏手の三原通りに、バー「TARU」がある。建物の入口に「Since1953」と記した看板を見る。昭和28年創業、ということになる。
 そのころに26歳で入店した吉田富士雄氏が、いまもカウンターのなかでシェーカーを振っている。ここの内装が、剣持勇と渡辺力、両デザイナーの合作であるという証言を、この74歳になるバーテンダーから得た。
 ふたりは、日本のインダストリアル・デザインの先駆者である。インダストリアル・デザインという言い方がまだなくて工芸と呼ばれた時代に、この分野を開拓した。椅子など、日本人に合う家具デザインを追求したことでも共通している。ドイツの建築家で、戦前に来日し日本美の心酔者となったブルーノ・タウトの教えを、若い日のふたりともに受けている。
 「TARU」は地下にあり、長いカウンターと、ゆったりしたボックス席、さらに、多角形の大きなテーブル席から成っている。階段を下りたところに、いまは衝立があるが、以前にはなかったという。ドアがまるでないので、そのまま広々とした地下の空間に吸い込まれる感じがする。
 奧にある多角形の大テーブルに向かって座ると、椅子との高さのバランスが絶妙で、身体に無理を感じない。真ん中に置かれた、豊かな生花が、相客の存在について意識はするが気にならない程度のあいまいな隔絶感を生みだし、それがとても心地よい。ふたりのパイオニアの合作とすれば、したがって、実感として腑に落ちる気がする。
 このバーがあるビルは銀緑館と言い、関東大震災の翌年の大正13年に竣工した。東京が廃墟から立ち上がろうとする「震災復興」の先駆けであった。建物の入口と、最上階の5階の窓に並ぶアーチが可愛らしい。
 名著『銀座細見』(昭和6年刊)の著者、安藤更生の言葉を借りれば、当時の銀座は「日本の都市文化の桧舞台」であり、「ここには常に美しきもの、香り高きもの、高雅なもの、選ばれたものが集められている」。
 だから、東京再建のための資金も労力も、この街に集中し、もっとも新しい感性が吸い寄せられた。こうしてはじまったアーバン・ルネッサンスが咲かせた大輪の花は、昭和モダンと呼ばれる。
 いまは古色蒼然と立ちつくす感のする銀緑館ビルから半ブロック歩き、角を折れて、銀座通りを越えると、そこは交詢社通りである。かつて銀座の新風俗を彩ったカフェも、流行をリードしたモボモガも、はるか昔に姿を消したけれど、昭和初期のテイストを伝える建築のいくつかが、躍動する精神のよすがを伝えている。我々は、これから、その真っ直中に足を踏み入れるのである。


昭和10年・日劇のプログラム

過ぎ去った時間のなかに■
 交詢社通りは、そこに交詢社ビルがあるところから、そう呼ばれる。(このビルは近く改築予定。)
 交詢社は、明治13年に、福沢諭吉をはじめとする「慶應義塾社中の有志三十余名」によって設立された、日本初の紳士のための社交倶楽部である。いまも各界の名士たちがメンバーに名を連ねている。
 もともとは、煉瓦街名残りの煉瓦家屋を社屋にしていたが、震災で焼けたので、同じ土地に新築したのが、現在の建物である。設計を担当した横河時介は、アメリカ留学から戻ったばかりの新進の建築家であった。このビルは、近世ゴシックのマナリズムを踏襲したされているが、様式性は明瞭ではないというのが、建築史家たちの見方のようである。
 興味深いのは、正面の出窓に、当時の欧米を席巻したアールデコの意匠を用いていることで、アメリカ仕込みの面目がこのあたりに躍っている。この建築家は、後に、ここに来るときまって不機嫌になったと伝えられている。自身では満足のいく仕上がりではなかったのではないか。
 このビルが竣工したのは昭和4年だが、それから5年後、交詢社通りが外堀通り(電通通り)にぶつかる角に、電通ビルが立ち上がった。これも横河の設計だが、こちらは直線的なアールデコのモチーフをふんだんに使っている。まるで、若い設計者がうっぷん晴らしをしているみたいである。
 とは言え、晴れた日の午後、交詢社ビルの正面玄関を入り、ふと振り返った瞬間の美しさは忘れられない。入口のアーチが額縁となって、植え込みとトウカエデの街路樹と、それに白く光る車道とが切り取られて、過ぎ去った時間のなかにいるような錯覚がする。
 このビルの並びには、昭和3年竣工の瀧山町ビルが目立たないたたずまいを見せている。かつてここには、昭和10年オープンの「ミラテス」という店があり、群馬県で工芸指導にあたっていたタウトがデザインする商品を販売していたのである
 同じ頃、このビルにバー「機関車」があった。9人で満員の小さなカウンター・バーである。鉄板を駆使した斬新なデザインは、吉田謙吉の手になったと、冒頭の「TARU」の吉田氏からうかがった。どちらの店も、赤羽猛という人物が経営者であった。
 吉田謙吉は、築地小劇場の舞台装置を手がけるなど舞台美術家として有名だが、東京の街との関わりで言えば、今和次郎とともに、考現学という新しい分野を開拓した。吉田が、震災の焼け跡に乱立するバラックに吊してある看板をスケッチしてまわり、これを見せられた今が感動したのがきっかけで、ふたりは連れだって、「路上徘徊」をはじめたのである。
 タウトの製品と吉田のデザインとが同居する瀧山町ビルの空間とはいったいどんなものであったか。これを思いめぐらすほど刺激的なことも少ない。なお、「機関車」は、昭和41年に、銀座の西のはずれ、高速道路に面したコリドー街に移った。その店も剣持勇らがインテリアを担当したという。経営者の赤羽が63年にこの世を去って、閉じられた。
 そう言えば、交詢社ビルの地下には、銀座一と評判のカフェ「サロン・春」が、昭和17年まであった。クルミ張りの椅子が自慢の店で、『銀座細見』の著者は、「なにか遊蕩気分というようなものがそこに生れている。……諸君、ここはもはや料理屋ではないのである。ビールや珈琲を売る店ではないのである。ここは遊び場なのだ」と、新築のビルに溢れる、真新しい感性を表現している。
 その一階には喫茶店「紫烟荘」があり、これはと思うウェイトレスは、「春」のほうに引き抜かれるという関係だったらしい。
 一階に現存するバー「サン・スーシー」(ビル改築のため、現在は閉鎖)も、建物の竣工直後の開店である。当時の経営者は明治時代に横浜のフェリス女学院を卒業した才女で、文士や軍人、大学教授、あるいは医師といった層を客にする、超高級店であった。
 なお、ここでボーイをしていた古川緑郎氏が、バーテンダーの最長老としていまも健在である。戦後間もなくから、コリドー街で「クール」というバーを開いている。その店内に、かつての「サン・スーシー」の雰囲気をそっくり保存してあると、古川氏が述べている。
 交詢社通りは、震災後の復興建築と、時代をリードした人々が交錯する、光り輝くような界隈だったにちがいない。。

時代の元気が表れる■
 いったい、この昭和モダンの「下部構造」はどこに求められるか。どのような社会的条件に支えられて、それは生まれ育ったのか。
 交詢社通りを銀座通りまで戻ろう。大通りを渡ると、そこはビアホールのライオン銀座七丁目店である。平凡な外観とは裏腹に、一歩なかに入ると、大伽藍のような異空間が展開することは、よく知られている。
 ビアホールの脇を直進すると、やがて新橋演舞場に至る。これらふたつの建物の間には、菅原栄蔵という建築家を介して深い関わりがある。
 さらに、築地にまで歩を進めれば、建築学会生みの親でもある伊東忠太が構想した築地本願寺が見えてくる。築地から銀座に続くこれらの建築物を結ぶと、そこに日本近代の実像のひとつが浮かび上がるのである。
 菅原の子息である菅原定三氏の著作『美術建築師・菅原栄蔵』に拠りながら、この「つながり」の意味を読み解くことにする。
 まず、伊東忠太は、本願寺の他に、湯島聖堂や震災記念堂などを手がけている。作品としては宗教建築が目立つが、建築の様式を超えて、日本独自の建築スタイルを志向する、スケールの大きな、大御所建築家であった。
 経緯は不明だが、この伊東が、30歳になったばかりの菅原を新橋演舞場の設計者に指名した。演舞場は、京都の芸者さんたちの歌舞練場の向こうを張って、新橋の芸者衆が自前の桧舞台をつくる試みであった。
 江戸時代に羽振りのよかった柳橋や深川に比べ、新橋は新興勢力である。明治新政府の高官や民間の企業家たちの贔屓を受け、近代日本の富と権力の恩恵を大いに蒙っている。当然、伊東忠太には実業界との太いパイプがあったであろう。
 この建築家が、演舞場というきわめて日本的な場に、若い感性を躊躇することなく投入したところに、時代の元気が表れているではないか。
 伊東の信任を得た菅原の作品は、帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの模倣と言われた。ただし本人は、「……自己の芸術に即して、ただ虚心思うままに制作したに過ぎない」と反発している。
 演舞場の建物は昭和50年代に取り壊されているが、竣工したのは大正14年で、帝国ホテルの2年後である。菅原が、わずかな間に「ライト式」を消化し、独自のスタイルを目指していたということであろうか。
 ともあれ、菅原と銀座との関係がこうしてはじまった。この後、昭和4年には新橋保全会社を設計している。これは見番、つまり芸者組合の事務所である。交詢社通りと並行する花椿通りに建設されたが、いまはない。
 菅原は、この建物の外装にクンストスタインという、ドイツの人造石をはじめて用いた。とくに目を引いたのは、ライト風に孔雀をデザインした、この石のレリーフで、地下に通じる入口を飾った。地下には、当時としては珍しいインド風レストラン「マユラ」(サンスクリット語で孔雀)があり、ここに、愛人とともにしばしば現れたのが、馬越恭平である。
 馬越は、明治39年のピール業界統一の立役者で、3社を合併して大日本麦酒(戦後、アサヒとサッポロに分割)を設立して、「ビール王」となった。この産業界の巨人が、地下レストランのデザインを絶賛し、その結果、年来の念願だった銀座本社ビル(昭和9年竣工)の設計を、この建築家に依頼したという経緯がある。
 こうして、その一階が、菅原の名を不朽のものにする「ライオン」ビアホールになるわけである。天井に向かって太くなる柱の形など、ここにもライトの影響が明らかだが、圧巻は正面の大壁画である。ガラス・モザイク二百数十色で、ビールの原料になる大麦を刈る風景を表現している。絵の奧に、ビール工場らしい赤煉瓦の建物が見えるところに、自ら原画を描いた菅原の稚気がのぞいている。
 事業家もアーティストも、その精神において共に若々しい。菅原がたどった足跡には、明らかに明治が刻印されている。明治が培ったエネルギーなしには、昭和モダンは考えられないことを思い知らされるのである。

発酵し、馥郁とした香りを放つ■
 先の馬越の業界統一の野望は、じつは不完全なままに終わった。米井源治郎という、やはり叩き上げの実業家が、外国資本のビール・メーカーを買収して、麒麟麦酒(現在のキリン)を誕生させ、対抗したからである。
 交詢社ビル界隈を離れて、京橋に近い、かつては銀座の僻地だった二丁目までたどると、米井の本拠地に行き着く。さまざまな事業を起こした彼の本業は機械類の輸出入で、米井商店(現在のヨネイ)と称していた。
 現在の本社ビルが完成したのは、その死後の昭和5年である。小ぶりの建物だが、玄関にねじり柱とアーチの組み合わせ、左右へアーチ窓を連ねるという構成が、いかにも軽々としている。設計は、和風にも巧みだったという森山松之助だが、イギリス人の建築家が関与したとの説がある。
 このビルに近い一丁目には、戦前屈指の高級アパート、銀座アパートメント(現奧野ビルディング)が残っている。当時の鉄筋アパートの名物だった丸窓が、ここにもある。かつての住人には、銀座の柳を歌った詩人の西条八十や、考現学の扉を開いた、あの吉田謙吉もいたという。さらに設計はライトのアルバイトだったとの噂を知ると、奥深い秘密の匂いに慄然とし、迷路に引き込まれる気がする。
 銀座建築彷徨の旅に、一応の決着をつけよう。
 気を取りなおして四丁目へ向かうと、ライトの「高弟」アントニン・レイモンド設計になる教文館につづいて、銀座のというよりも東京の記念碑的な建造物、服部時計店(現・和光)である。その屋上に至り、近くで見る時計塔の巨大さに驚嘆しながら、そのがらんとした塔の内部に足を踏み入れると、ひとつの感慨にとらえられる。それは、創業者・服部金太郎についてである。
 この人物は、正真正銘の明治人であった。明治14年、22歳で銀座に時計店を開業し、西洋への入口だった横浜に出かけては、輸入時計や貴金属を買ってきて売り、やがて時計の製造に乗り出して、遂には「時計王」として君臨する。
 服部が、この四丁目角に進出したのは明治28年のことで、アメリカ帰りの建築家、伊藤為吉の設計で、時計台を戴せた建物をつくっている。地上からてっぺんまでは6階分の高さであった。2階建てがほとんどだった、明治の東京の街を見下ろす高層建築である。
 もっとも、時計台を建物のシンボルにして、自らを誇示するのは、当時の店舗建築の常套手段で、規模はともかく、スタイルそのものは珍しくはなかった。特筆すべきはむしろ、服部が、昭和7年に竣工し21世紀に生き残った、現在の二代目ビルの建設に際しても、時計塔に固執したことである。
 この建物の設計は、日比谷の第一生命館、有楽町にあった日劇、あるいは上野の国立博物館などの名建築で知られる渡辺仁で、堂々としていながら、威圧感のない近代ルネッサンス様式でまとめている。もっとも、服部の関心は、時計塔に集中していたらしい。
 当時、渡辺の事務所で時計塔の設計を担当した建築家の渡部光雄の記述によると、服部は、工事中の現場に来て指図をするようなことは一切なかったが、ふたつだけ注文をつけたという。ひとつは、時計塔の位置を当初のプランよりも前に出すこと、もうひとつは、エレベータ用の塔が高すぎるから低くして、北側の文字盤を見えやすくすることである。
 いずれも、時計塔を目立たせたいという意欲の表れであった。服部は、このビルの完成から2年後の昭和9年、この世を去っている。
 日本の近代をつくった人物のひとりが、「明治にはじまる西洋様式建築の行きついた一つの果てをよく示してくれたデザイナー」(『近代建築ガイドブック 関東篇』)の力を借りて、置きみやげとした建築、それが服部時計店ビルなのである。
 昭和モダンとは、明治の集大成であり、明治が蓄積した富が「発酵」して放つ馥郁とした香りであったと言えるのではないか。
 ──時報を告げる鐘の音が、突然、薄暗い塔内に鳴り響く。耳を聾する轟音に逃げまどい、生命からがら時計塔を飛び出した。★

 (『東京人』誌2000年4月号掲載原稿に加筆)

(2001.7.9.)

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