★画家の涙・アメリカ車を売る・カラーコップ |
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たぬきかきつねか、うどんを食べた。「おいしかった」と、加藤恵美子さん(56)。7年前の銀座。この街の画廊ではじめての個展をすることが決まった。うれしさのあまり、まだどこにでもあった電話ボックスで、電話のふりをしつつぼろぼろ涙をこぼした。その後に食べたのが、うどん。
その3年後、加藤さんは、上海の「ウナギの寝床のような」細長い画廊で、ふたたび泣いていた。入場者のひとりが、「素敵な作品だ、いい仕事してる。明日、友だち連れてくるよ」と、英語で叫びながら出ていった直後である。
「心が触れ合った。絵があんなに人の心を震わせるなんて、すごいな、描きつづけてきてよかった。そう思ったら泣けて泣けて」
見ず知らずの中国。地理も言葉もわからず、単身やってきて、初めての海外個展。会期はまだ残っているが、都合で翌日に東京へ帰る。だから、加藤さんに「明日」はなかったのである。それだけに心に響く。
加藤さんはかつて専業主婦であった。28歳のとき、10年後を考えた。公務員の夫との間に、保育園と幼稚園、幼い子がふたり。子どもは変わっていくだろうが、母であり妻である自分は、10年どころか何年経とうと変わることはないだろうな──。
なにかやりたい。ぼんやりテレビを見ていて、ドラマのなかの女性が彫金をしていた。いいかもしれないと思ったのが、アートとの遭遇であった。
彫金からはじめ、デッサンの勉強に進むうち、油絵にたどりつく。40歳を過ぎていた。「私は夢中だった。絵が恋人になった」
生き甲斐にもなる。「子育て、家庭、老いていく親のことなど、自由が束縛される日々。でも白いキャンバスだけはちがう。そこには自由に描ける。縛られない個人としてどこまでできるかを問いつづけたい」
絵に打ち込むにはお金がかかる。プロの画材は値が張る。そこでパートの職場を転々とすることに。スーパーの下着販売、保育園の補助、あるいは都庁の臨時職員。おかげで医療も福祉も詳しくなった。
5年前からはデパートで派遣のマネキンをする。日給なので、時給のパートより割がいい。しかし、展覧会が近づくにつれ、客の前でいらいらが募る。早く家に戻って、作品のつづきを描きたいのに、できないから。これも、日常の不自由である。
作品では、金銀の箔を使う独自の技法と奔放な色使いで、女性の内面を率直に表現する。「アメリカ人好み」とよく言われる。そこで加藤さん、自作紹介のファイルをつくり、未知のアメリカへもひとりで出かけた。やはり5年前。
知り合いの居る首都ワシントン郊外の町を巡り、画廊を見かけると「エクスキューズ・ミー」と訪ねては、作品展示を依頼してまわった。もっと余裕があれば、ファイル抱えて、いろんな国を回りたい。
この翌年、シアトルで個展の開催にこぎつけた。IT企業マイクロソフト社の共同創業者も来場した。絵を買ってくれるのかと期待したけれど、外れた。「お金持ちなのにねえ」と加藤さん、なんだか楽しそう。(2007.5.3.)
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知らない人と話すのが苦手。他人に頭を下げるのも大嫌い。お世辞を言えない。なのにアメリカ車を売り歩く第一線の営業マンである。
昨年、外車販売大手のヤナセ(本社・港区芝浦)で、社内第2位の販売実績を挙げた。この会社はドイツ車の販売が主力。河村論さん(29)は、人気下降気味の「アメ車」で、トップに迫る。
河村さんは、無類のアメリカ好き。自宅ではアメリカ映画ばかり観ている。ケータイの着メロは、アメリカ国歌というこだわり。
乗り物も全てメイド・イン・アメリカ主義。自分個人のクルマは赤いキャデラックだし、バイクもアメリカのハーレイダビッドソンを乗り回す。休みをやりくりして年に3回は、アメリカへ行く。乗る飛行機は当然、アメリカ製である。
河村さんの名前の「論」(のり)を音読みにすると、ロン。父親が、アメリカ人とも仲良くできるようにと、この字を選んでくれた。ロン・カワムーラというわけ。かつてアメリカ空軍司令部に勤務した父と親子2代のアメリカ好き。
免許取りたての頃、アメリカ車を父に勧められ、最初に買ったクルマがシボレーの四駆。これでアメリカ車とアメリカにはまっていった。父は先日、この世を去ってしまったが。
アメリカ車に乗ると、アメリカがよく見える、と思う。
たとえば、ビスでしっかり留めてあるはずの箇所が、アメリカ車ではクリップになっていたり。これなら、砂漠の真ん中で停まっても、すぐに対応できる。
自動車工場の見学に行ったときのこと。もう少し車内を広くできないのか、と訊くと、広いのがいいのならリムジンを買ったらどうだい、と言い返された。
簡明直截である。河村さんは、アメリカ人の発想や考え方をよく客に話す。それをおもしろがり、納得してくれると、心がつながる。結果、かならずしもクルマが売れるわけではないけれど。
大卒で就職し、すぐにクルマの営業を担当し、8年目になる。いまでは「クルマはきみからしか買わないよ」と言ってくれる客が何人かいる。そのひとりは、年に3回も買い替える。こだわりが強くて、おおらかな客たちとの交流が楽しい。
馴染の客が焼肉屋を開いた。オープンから1週間ずっと、河村さんは、クルマの仕事が終わると、店へ出かけていき、キャベツを刻みつづけた。せめてもの開店祝いである。
こうして付き合えるのも、アメリカ車を売っているからだと思う。
河村さんの営業車のトランクには、修理用の工具だけが積んである。高価なアメリカ製を100万円以上かけて集めた。もちろん自費である。簡単な修理ならこなせる技術を独学した。出先で顧客のクルマを点検しながら、アメリカ車とアメリカの良さについて、心ゆくまで語り合う。
夢は、日本にまだ入っていないアメリカ車を自分でセレクトして輸入し売ること。自信は十分ある。「でも、私のような若造にはむずかしい。ともかく、そのときを目指してがんばる」
がんばれ。(2007.5.10.)
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戦争が終わった。激しい空爆で街は廃虚になり、多くの生命が失われた。戦地からはなおも、戦いに敗れ、疲れ切った兵士たちが戻ってきていた。
文字通りの瓦礫の街。それが、半世紀あまり前、昭和23年の東京である。中心街の銀座通りには、両側の舗道に延々と、露店が軒を連ね、その数は100軒にも及んだ。モノが払底していて、なんでも売れた。
通りのはずれに近い7丁目。甘味処「立田野」の前の路上に、新婚の夫婦が、わずか2畳の金物の店を出していた。売り物はアルミ鍋、薬罐、蒸し器など。包み紙と紐とハサミを放り出しておけば、買い物をした客が自分で包装していく。それほどの繁盛ぶりである。
ある日、この店に、クリーム色、薄グリーン、薄ピンクと、3種類の色のコップが並んだ。彩りをなくして、薄暗く沈んだ東京の、身も心も寒々とする戦後の街に突然登場した、明るい色であった。しかも、材質は、アルミでもガラスでもない。初めて目にするプラスチック。
人々は争ってコップを買った。金物の売れ行きにもさらに拍車がかかる。
夫婦の三河木綿の前掛けは、ポケットがすぐにお札で満杯になる。夫は一日に何度も、札束を抱えて銀行へ走った。
あれから長い時間が流れた。東京は一変した。いまでは雑多な色の氾濫する、世界有数の賑わい都市である。当時20代だった妻の大辻愛子(よしこ)さんは85歳になった。
露店の稼ぎを元手に、通称神田金物通りに土地を買い、夫とともに、家庭用品卸しの会社「丸美工藝」(千代田区神田西福田町)を起こしたのが、昭和24年のこと。
その後、早く逝った夫に代わり、長く社長を務めた。社長を息子に譲り、取締役会長になって10年。
いまも、ウィークデイには毎日、11時に出勤する。家にいるのが大嫌い。会社が好き。先ごろのゴールデン・ウィークの間は、早く会社がはじまらないかと、待ち遠しくて。
出勤する会長を、100人近い社員全員が毎日書く日報の山が待っている。
愛子さんは、赤ペン片手に、すべて精読し、旧漢字をまじえながら、感想を記していく。さらに、緊急の必要がある場合、ケータイで本人を呼ぶ。
若い男の社員が呼ばれた。営業に行くというフレコミで、喫茶店でテレビを見ていた。日報の文面から発覚したらしい。会長は、プラスチックの定規をかざし、孫のような若者のズボンのお尻を、軽くピシャッ。じきじきの愛の鞭。
日報を読む仕事は、午後5時までつづく。こうして社員ひとりひとりと日々触れ合う。会社にいるかぎり、社会が身近に感じられる。結果、老いの入り込む隙がないのかもしれない。
会長の執務室は、かつて夫が、第2次オイルショックの心労から、くも膜下出血で倒れた場所でもある。55歳の死であった。「死んではダメ。人生、山あり谷あり。山があれば登ればいい。谷があっても落ちなきゃいい」と愛子さん。
かつて銀座街頭に出現した、あのカラーコップのように、軽々として明るいのである。(2007.5.17.)
★[2007.6.22.]
読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!
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