★ガイジンの子・長屋の歌詠み・『硫黄島からの手紙』

急須

 9歳のアメリカ人少年は、10円玉を差し出し、乗車券を買う。1960年の話である。当時の国鉄三鷹駅から、ひとりで電車に乗る。乗り換えを繰り返しながら、都内ばかりでなく、千葉、埼玉、横浜までも巡る。そのあいだ一度も、改札を出ることはない。

 電車の客からは、「ガイジンの子って、かわいいね」と優しくされ、甘やかされた。

 旅の最後は三鷹に戻り、切符を礼儀正しく駅員に返す。なにも言われない。いつも元気いっぱいで帰っていく。「東京探検が度重なり、ぼくの冒険心が満たされた。当時の東京の街はすごかった。ほとんどが二階建ての木造の家で」

 アラン・グリースンさん(55歳、編集者)は、5歳のときから、国際基督教大学(三鷹市大沢)の教員住宅に居た。父が経済学の教授であった。日本は治安がいいから大丈夫と、幼い息子のひとり遊びを放任した。

 家の近くを、清冽な野川が流れていた。そこで泳いだ。川沿いには、大学の牧場があり、その牛たちの乳で少年は育った。都内とはいえ、あたりは豊かな自然に恵まれ、文字通り田舎であった。

 最近、グリースンさんは、昔の東京の建造物を展示する「江戸東京たてもの園」(小金井市)を訪れ、驚愕した。そこに藁葺きの「吉野家」(よしのけ)を見つけたからである。

 「あれって、以前はぼくの家の近く、自転車で5分のところにあった農家。竹林と石垣にはさまれた土の道が暗くて、『となりのトトロ』の世界みたいだった。それがいまは博物館だなんて」

 グリースンさんは、60年代の末に、大学に入るためアメリカへ戻った。

 その後、日本に留学して4年間を東京で暮らしたのをはじめ、仕事でも往き来した。ときおり訪れるだけにいっそう、東京の変化が肌身に感じられた。

 70年代には、東京に来るときまって、鼻水がしきりに垂れた。街頭に立つ警官は白いマスクをしていた。公害問題が深刻化していたのである。

 80年代のバブル真っ盛りのころ、ファッション店の女性店員に知らん顔されたことがある。カッコよくない客は、ガイジンでももう相手にされないと悟った。「ショックだった。自分は子どものころの経験があって、ずっと日本人には甘えていたから」

 90年代の長い長い不況。そのあいだに東京は健全になった、と思う。

 人はゆっくり道を歩き、おばちゃんたちはのんびり喫茶店でおしゃべりに興じる。交通機関はめいっぱい発達し、電車の駅前にはどこも、特徴のある街がある。それが楽しい。アメリカだったらめったに見られない光景である。

 グリースンさんは、5年前から東京に住みついている。「ぼくも50代になった。このままずっと東京に居てもいいかな、と考えはじめている」

 いまの住まいも、幼い頃に暮らした三鷹に近い中央線沿い。美しくカーヴする静かな池のある公園が、部屋の窓から眺められる。少年だった日々の、懐かしい記憶がいとおしい。(2006.11.23.)

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 いろいろあった。全部チャラにして、新たにはじめよう、という結論に。3年前、笠井烏子(うこ)さん(59)は夫と、賑わい商店街、三ノ輪銀座(荒川区)の裏手に移り住んだ。2メートル幅の路地が抜け、築90年とも言われる家々が並ぶ。五軒長屋の一軒である。

 玄関を開けると、すぐ目の前に3畳の部屋。続く4畳半の居間には、テレビ、電子レンジ、冷蔵庫が仲良く同居している。隣りの台所の中央に、前の住人が「棺桶のような」自家風呂を据えた。そこで、本来は台所にあるべき品々が、居間にはみだすのである。

 梯段を上がる。2階に4畳半と6畳。それにベランダ。この2階家の家賃はワンルームマンション並み。

  地球の傾(かし)ぎ
  是正しようと
  目覚むるも
  この二階やっぱり
  傾いている

 笠井さんは歌人である。長屋が集まる「路地ワールド」を歌う。

 引っ越し当初、家はがたがたで、すき間から空が見えた。友人の「肉体労働者」が精魂込め修理した。直し終えた途端、男はがんに侵され死んでいく。遺族から骨のひとかけらを譲り受け、窓の下、椿の根方に埋めた。「俺が死んだらそうしてくれ」との遺言で。

 この秋に、男の三回忌。知友がここに集い麻雀大会をした。路地に七輪を出してサンマを焼いた。ぼーぼーと上がる煙りが供養のつもり。「これがあの魚かと疑うおいしさだった」

  君はもう
  めしを食わない
  食うわれが
  おめおめと焼く
  秋刀魚(さんま)の煙

 笠井さんが歌を作りはじめたのは、40代になってからである。当時は住宅雑誌のレポーターをしていた。「こう生きているよと伝えたかった。女としての転機の時期でもあった。言葉が溢れてきた。ノートにいっぱい書きつらねるうちに歌になった感じがする」

 長屋に住むようになり、歌の数がぐっと増えた。吐く息吸う息が歌になるみたいである。

 家の外と内との境目が不分明な、この東京の長屋という世界。

 「靴の音が始終聞こえる。さまざまな風鈴の音がする。私の家のなかなのかどこかの家からか、音の所在ははっきりしない。でも、クルマの音はいっさいしない。すべて人の暮らしの音ばかり。ほら、あれ、どこかでだれかが引き戸を開け締めしてる」

 笠井さんの玄関引き戸のカギを開けようとするのは、近所のおばあちゃん。自宅へ連れていこうとすると、老女は、通りがかりの人に必死に訴えはじめる。「この人が私のとこのカギ締めて、入れなくしてるんだよー」

 界隈は年寄りワールド。少年野球の老監督は「もう解散だよ」としきりに嘆く。隣りに住むのは妻を亡くした鼻緒職人。つっけんどんだけれど笑うとかわいい。角の畳屋老兄弟は、最近飼いはじめた猫を、紐でつないで散歩させる。

  未払いの
  電気代やら
  骨やらが
  肩をよせあい
  うたうふるさと

 軒下の、骨のかけらを抱えた椿はまだ咲かない。山茶花がいままさに満開の路地である。(2006.11.30)

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 試写会場の丸の内ピカデリー1。映画が終わった。スタッフを紹介するエンドロールが、画面に流れはじめる。最後列に近い座席に埋まりながら、吉田津由子さん(49)は茫然とスクリーンを見上げていた。こんなことは二度とないと思う。

 自分の名前が監督のクリント・イーストウッドと並んでいる。制作のスティーブン・スピルバーグの前ではないか。

 吉田さんが編纂した『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(小学館文庫)を基にして、この映画『硫黄島からの手紙』がつくられたと告げている。

 「イーストウッド監督、ほんとうにありがとう」と、吉田さんは心のなかでつぶやいた。大スターに会ったことはないし、これから会うこともないであろうが、「心の底から」お礼を言いたい気持であった。

 6年前の晩秋、吉田さんは温泉へ出かけた折りに、松代(長野市)の「地下」を見学した。第二次大戦末期に突貫工事で掘り抜いた地下壕である。総延長6キロに及ぶ悪夢のような残がい。大本営(旧軍最高統帥本部)など政府の中枢機関をここに移す予定だったが、その前に終戦になった。

 跡地を巡った後、吉田さんは出口近くの資料館に入った。ガラスケースのなかの展示品に、絵手紙のコピーを発見する。一読して「文章が楽しく、付いている絵が日本人らしくない」ところに魅かれた。

 絵手紙の書き手は、松代出身の軍人、栗林忠道中将だという。大戦中、硫黄島(東京都小笠原村)でアメリカ軍との死闘の末に戦死した、日本軍部隊の最高指揮官である。硫黄島は、大戦最大の激戦地のひとつに数えられる。

 戦争がはじまるずっと前、栗林は陸軍から派遣されて、アメリカに2年間留学していた。そのときに、まだ幼かった息子に、手描きの絵とともに手紙を書き送りつづけたのである。

 吉田さんはフリーライター。絵手紙に魅かれ、現物の所在を突き止めて本に仕上げた。他方、たまたま硫黄島の戦いの映画化を進めていたイーストウッドが、この本にめぐりあい、翻訳させて熟読した。

 「栗林は繊細で家庭的な男。祖国の家族がとても恋しかったのだ。この本から、その人物がよく感じとれた」と監督は後に語る。

 手紙には、買ったばかりの新車の切り抜き写真の隣りに、軍服姿の自分自身を描き、「坊がいればいくらでも乗せてやるのだがな/どうだ? 乗りたいかね」などと書き添えてあったりする。

 我が子への愛と稚気が溢れる。圧倒的に強大なアメリカ軍を苦しめた指揮官が、こんなに心優しく愛すべき父親だったとは。手紙の数々を読み進むうち、監督は、映画のインスピレーションを得たと言われる。

 吉田さんは栗林を「素敵な男性」の典型だと思う。「スマートで毅然としていて。望んで軍人になったわけではないが、やるべき務めを一心に果たした。私たち人間って捨てたもんじゃないと思えて、元気が出る」

 旅先の小さな偶然が発端の、250ページ余りの文庫本は、巡り巡ってハリウッド大作に結実した。なお映画は、9日に公開される。渡辺謙が、栗林中将を演じている。(2006.12.7.)
[2007.4.6.]

読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!


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