★フリマのイラストレーター・猫の森株式会社・「僻地系」添乗員

 自分で描くイラストを絵葉書にして、東京近郊のフリマ(フリーマーケット)で売る。始めて5年になる。行きずりに出会う人たちが常連客になり、いまは「あなたに会えてよかった、よかった」と言ってくれる。

 世の中に受け容れられている。そう思えることがうれしい。

 松鳥むうさん(28)の作品はいつも、真ん丸の顔の人間を葉書に描く。これは自分の似顔絵。短い文を添える。自身の経験から出た文章が、生への真摯な姿勢を映して、人の心を動かす。

 父親が鬱になって診療内科に通院中だというサラリーマン。連れ立って来た妻に勧められて買っていった絵葉書には、
 辛いコトも/うれしいコトも/悲しいコトも/楽しいコトも…/ぜんぶ ぜんぶ/「ムダ」なんかじゃないよ。/君のパワーの源だよ。
 と。「よかった」と、お礼のメールをくれたという。

 松鳥さんと客と、それぞれの心が、絵葉書を介して触れ合い、火花が散る。縁もゆかりもない人々が行き交うフリマだけに、そこに生まれる、希有な出会いの感動は大きい。

 松鳥さんの最初のフリマ体験は、友人のすすめでその気になった、東京ドームでのイベント。珍しい雪の日で、石川県から両親と上京したという小学生の女の子が、最初の客になった。見も知らない人が自分にお金を払ってくれるなんて、すごーい、と思った。

 松鳥さんはそのころ、東京のはずれの町で、精神科病院の看護師をしていた。フリマには以来ときどき出るように。

 一昨年の秋、人間関係のトラブルで受けたショックから、円形脱毛症になった。さらには喜怒哀楽の感情表現ができない状態に。

 しかし、フリマの馴染み客は温かい。そして、周りの同業者たちとは同志のように仲良し。なかにはフリマの収入だけで生活をしている人もいて、これがくやしい。定職のある自分は甘えているのではないか。それでいて、心の悩みだなんて、贅沢かもしれない。

 この思いが転機になった。看護師をやめよう──。半年後、松鳥さんは病院を退職した。後に、そのときの気持をイラスト絵葉書に、
 いつか/どこかへ/飛んでいこう。/大丈夫。/その先に何があっても/君には 翼が あるから…。
 と書いた。

 「1枚の絵葉書をきっかけに、いろんなエピソードや思い出や体験談が出てくる、お客さんとのやりとりが楽しい。おかげさまで、最近は雑誌のイラストの仕事もいただくけれど、フリマは別物です」

 ──きょうの松鳥さん、いつものように薄べりに座り、絵葉書を並べ、客を待つ。小学5年生ぐらいの女の子が立ち止まる。その子が選んだ絵葉書(150円)には、
 意味のない/出会いは/ないよ。/すべて必然。
 と。

 その1枚を大事そうにして立ち去る女の子の後ろ姿に、松鳥さんのつぶやき。「わたし、あの子の年ごろで、必然なんて言葉知らなかったなあ」

 雪がちらちら降り出した、あの日の東京ドームを思い出す。フリマをやめるわけにはいかないのである。(2006.11.2.)

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 知り合いから電話があった。可愛がっていた猫を2匹、相次いで亡くしたという。「猫とずっと暮らしたい。でも私もトシだから、これから新たに飼うことはできない」と、電話の声は寂しそうであった。

 南里秀子さん(48)は言いたかった。どうぞ猫と暮らしてください、万が一のときは、私が引き受けますから、と。そう言えない自分がふがいない。

 南里さんは1992年から、キャットシッターを仕事にしてきた。ベビーシッターの猫版である。

 留守にする飼い主から家の鍵を預かり、一日に1回の割りで訪問し、留守番猫のケアをする。排泄物を調べ、食事をつくり、遊ばせ、ブラッシングし、涙目なら涙を拭いてあげて。

 傍ら、後輩のシッターたちを育てた。いまでは、都内を中心に、埼玉あるいは福岡にまで支部がある。

 こうして、南里さん自身延べ4万匹あまりの猫と付き合ってきた。それなのに、猫の幸せな将来を実現する手立てがない。なんとかせねば。

 心優しい飼い主の死後も、猫が快適に暮らし天寿を全うする方法を探しはじめた。たどりついたのが生前契約。あらかじめ飼い主と書類を交わし、一定の契約金で、残された猫を引き受ける約束をする。契約に従って、猫には、ずっと飼い猫同様に生きていける環境を保証することにした。

 4年前、京王線聖蹟桜ケ丘駅に近いマンションの、日当たりのよい一室をリフォームして、猫の受け入れ態勢を整えた。住み込みの管理人がひとり。南里さんの母、南里妙香(みょうこう)さん(87)である。

 住職だった夫の死後、茨城の寺を引き受けてがんばってきた。そこへ娘から「お母さん、来てよ」の電話。「うん、行く」の二つ返事。ただちに寺を売り、膝関節の不調を押して上京してきたのである。

 猫と暮らすようになると、お母さんの体調が好転しはじめる。「仕事意識で気が張っているらしい」とは娘の見方。いまは、しゃっきりして、日々の買い物にもトコトコ出かける。「猫ばぁ」の仇名がついた。

 現在、猫ばぁと同居しているのは3匹。なかには、存命で軽い認知症の人の元から来た猫もいる。この猫たちの様子は、ホームページでも紹介する。

 「でも母はやがて逝く。私もいつかは。次世代に引き継ぐ準備をせねば。また、不動産企業などをパートナーにして猫マンションを建てるとか、島を買って猫島にするとか、事業展開もしていきたい」

 手始めに、この7月に法人化した。名づけて、猫の森株式会社。猫と人が仲良く共棲する、深い森をイメージした社名であろう。

 代表取締役となったいまも、キャットシッターをつづける南里さんにとって、猫はペットではない。「生活のなかにつねにいるもの」である。

 自分が生まれた日の翌日に猫好きの父が連れてきた小猫と一緒に、育った。猫は人生最初の友だちであった。そして、現在の自宅では、15歳から18歳の高齢猫たちと共同生活をし、それぞれの生の終わりまで見届けようとする。

 南里さんにとって、猫の命と人間の命、その大切さにおいて、変わりがない。(2006.11.9)

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 東京って? 「どこからでも歩いて家に帰れる街」と、片山しのぶさん(43)は答える。超高層ビルの街でも、雑踏の街でも、最先端の街でもない。杉並区の我が家への帰り道、それが東京である。「家は暖い洞穴のようなもの」とも言う。丸まっていつまでも眠れる。

 片山さんは、1年のうち160日から200日は日本にいない。最多で年間260日不在のときもあった。12年前から、海外旅行の添乗員(ツアーコンダクター)をしている。団体客の付添役で、旅がスムーズに進むよう努めるのが仕事である。

 旅から戻り、次の旅に出るまで3日か4日しかないことが多い。それでも、自由に使えるのは、うち1日が精々。

 その日は街へ出る。用事をこなす。合間に何度も帰宅しては出かけることを繰り返す。こうして、短かすぎる東京滞在を引き伸ばしている気分かもしれない。

 添乗員の資格をとったのは29歳のときである。新人研修でみんなでヨーロッパへ行った。ミュンヘンのビアホールで乾杯をした。その後、トイレへ行き、パスポートを置き忘れた。しかし片山さんは、泣きだしもしないし、パニックにも陥らなかった。

 この落ち着きを見込まれてか、添乗員としての初仕事の先がネパールで、さらにトルコ、ブータン、インドとつづいた。その後もずっと、昔ながらの風習が残る辺境、雪山、奥地の滝、山間の村などに分け入るツアーを専門にする「僻地系」添乗員をつづけているのである。

 「私が長くやっているのは、日本人で、女性で、このトシで、だれに尋ねなくても、その場の判断を自分ひとりでできる仕事は他にはなさそうだからです」

 山岳ガイドではないけれど、エベレストならベースキャンプの手前までは、ツアー客を引率していく。みんなの気持を盛り上げながらグループをまとめる。それを自分ひとりでし遂げる快感。

 だれにも拘束されない自由を、片山さんは愛しているのである。

 添乗員の仕事は年頭の3ヵ月が暇になる。そこで、今年はじめ、デスクに向かい営業マンと電話で連絡をとりあう「OLの仕事」をした。すぐにやめた。「私にはダメ。定期持って家と会社を行ったり来たり。閉じ込められている気がしました」

 旅先で、みんなの世話を終え、部屋でひとりになる。と、狂言の所作をこっそり練習する。先生について習いはじめたのは、添乗員になる以前のことである。仕事に追われ時間がない。稽古に参加できず、いまは「元弟子」になっている。今年の1月、それでも初舞台を踏んだ。

 辺境の宿に狂言とは、あまりに不似合いではないか。「空手の型も部屋でするんですよ」と。

 添乗員の仲間と、しばしば話合う。自分たちの老後について。みんなで島をひとつ買って住むのはどうか。そこで共同生活をする。「徘徊」になる人も出るにちがいない。結果、海に入っていき、そのままに消えてしまうなら、それはそれでもいいではないか、と思う。

 この世の中で、自由に生きようとすれば、相応の覚悟が要る。片山さんは、そのことを肝に銘じている。(2006.11.16.)
[2007.3.23.]

読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!


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