★深川の掘割は流れ流れて、我が体内を巡る |
あきれかえるくらい長くこの世に生きて、なにが不思議と言って、いま、この場所にこうして住んでいるほど不思議なことはない。
このアパートは、東京・江東区内にある。横十間川と仙台堀川という掘割の近くで、小名木川も、歩いて楽に届く距離である。子どもだったころには、これらの川の位置はおろか、名前さえ知らなかった。
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代の前半までいちばん長く暮らしていたのは、隅田川と荒川放水路に挟まれているみたいな墨田区内である。江東区とは隣同士の区で、このふたつの川で東西を区切られている。
いまの住居を取り囲んでいる掘割も、たどりたどれば、隅田川と荒川につながっている。結局、これまでのぼくは、ふたつの大河の勢力圏からほとんど出ていないことになる。川が、「もうひとつの血管」となって、体内を流れているかに思える。
ただし、子どもの頃は当然として、大人になってからも、わざわざ川縁を選んで住処を決めたという記憶はない。にもかかわらず、ずっと川の近辺に暮らしてしまっている。とすれば、川に選ばれし者であると考えたい誘惑にかられるのである。そう決め込んでおけば、ともかく気分は楽になる。生のありようのかなりの部分を、川のせいにできるからである。
いまのところに移り住む前は、やはり江東区の越中島にいた。近くの地下鉄の駅への行き帰りには、大横川という、これまた掘割にかかっている黒船橋という橋を渡ることになっていた。そこからは隅田川が、手を伸ばせば届きそうな距離にある。
ここで注釈をつけておく。黒船橋の下の流れは、かつては大島川と呼ばれていた。明治の男たちは、柳橋あたりで舟を仕立てて、隅田川を下り、大島川に入って洲崎の廓に通ったそうである。川の両側に立ち並んでいたという白壁の蔵の美しさについて、永井荷風も書いている。いつのころか、大島川は大横川につなげられ、合体させられたらしい。
という次第だが、ぼくは、ある日の午後、黒船橋の上で立ち止まり、旧大島川の川面を見下ろしていて、見たことのないものを見た。
濁流である。泥をたっぷり含んだ流れは、ときに激しく隆起しながら渦を卷いている。木屑や葉をつけた枝も混じった、いつにない荒々しい川面に、釘づけになりながら、前日に、台風が通り過ぎていったことを思い出した。大雨と大風にさらされ苦しみもがく山から吐き出されてきた「ゴミ」が、ここに充満しているのであろう。
またあるときは、どんなワケがあってか、潮とともに小魚の群れが上ってきて、水中をぎっしり埋め尽くし、橋の上からバケツを垂らせばどんどん捕れてしまうという珍事にも遭遇した。
これらの「事件」は、それまではついぞ気にすることのなかった、流れる水の「一生」への自覚を、ぼくに促した。そして、山と海の間を流れ行く水が、束の間、通り過ぎる街に生きている自分という存在へ迂回していく。
街に暮らすぼくたちは、川への愛着をことさらに美化し、飾りたてる。しかし、流れる水がたどらされる、きびしい道筋に思いを馳せるならば、人間もいい気なものだという気はしてくる。
深川周辺に暮らすようになって二十数年、掘割の網の目にはまりこんでいるみたいな生活をしてきて、ぼくは、しだいに川を、自分よりもずっと大きななにかとして実感するようになったようである。
深川の問屋並べる川に出て風きくここち木の香するかな
これは、『明星』の歌人、与謝野寛の作だが、吹き渡る風も、木場の木の香も、すべて川が生み出している気がしてくる。流れ行く水への偏愛がまっすぐにに伝わるのである。この短歌を、吉井勇の次の作品と比べてみると、ストレートさがいっそうはっきりする。
往き暮れしろまんちつくの若人は永代橋の欄干に倚(よ)る
この光景を「ろまんちつく」(ロマンチック)と感じる歌人は、橋にたたずみ川を眺める「若人」からは、巧みに距離を置いている。そのロマンチシズムは、空に漂い、虚しい思いを募らせる。
文学としての優劣を論じると、議論が分かれるにちがいないが、どちらが対象に入り込んでいるかとなれば、吉井は与謝野に及ばない。川と向き合ったときの感動を率直に披瀝しているのは、与謝野のほうである。そう思える。
夕暮れ近くにアパートを出て、掘割沿いにつづく公園に足を踏み入れる。このときしばしば、どっちへ歩こうかと迷う。そこはちょうど、ふたつの流れが交差する地点である。
むかしは、ずいぶん寂しい土地だったのであろう。小名木川が家康によって開かれる以前、宇奈木澤と呼ばれていたころの話として、こんなキツネとネコの物語が伝えられている。
──川の畔に先祖代々住まっている者がいた。当時、周りは田圃と畑で、人けの少ない場所であった。日暮れどきは、ことに寂しい。その男が、夕方庭を眺めていると、縁の下からキツネが一匹這い出してきてうずくまった。これを見つけたのが飼い猫で、妙な顔つきをして、キツネに近づき、臭いを嗅いでいたが、やがて疑念が晴れたらしく、親しげに寄り添っていった。以来、キツネとネコは一緒に行動するようになり、やがて二匹とも、いずこへか姿を消してしまった。──
この話を収めた、江戸時代の書物『事績合考』には、「同じ珍獣だから、同気相和して怪しまないのであろう」という、「川の畔に先祖代々住まっている」男の談話が付してある。キツネとネコが仲良く連れだって川縁を去っていく姿を思い描くと、温かい気持ちになる。彼らはその後、幸せな日々を送ったにちがいないという気もする。
いまはもちろん、そんな閑寂の気配はない。周囲をマンションに囲まれて、公園のなかも、自転車がぶんぶん走る。動物と言えば、散歩させられているのか飼い主を散歩させてやっているのか判然としないイヌたちぐらいである。このごろは稀にだが、ネコまでが鎖につながれて歩くのを見ることがある。
それでも、傍らにつねに水があることによって、あたりの空気が和らいでいる。
晴れた日であれば、夕陽の落ちる方向に歩き出すことが多い。掘割のひとつの流れが向かっている方角に、落ちていく太陽が見られる。
やがて突然のように、流れが消えて、歩行者は置いてきぼりにされる。すると、別の掘割が間もなく現れて、そこには頑丈そうな橋が架かっている。これを過ぎれば、近ごろできあがった、広々とした公園に吸い込まれる。この公園は、大通りをまたいでいて、ハープ橋が陸橋となって、その大通りに掛かっている。
一帯は、かつて木場だったところである。ここでもひとつ、注釈をつける。木場の起源は、江戸の延宝年間に、材木置き場が市中から閉め出されて、永代橋に近い深川に移されたことにさかのぼる。そこは長く、元木場の名で呼ばれてきた。この後、いったんは猿江(江東区)に移転したが、元禄の末に、現在木場の地名になっている地に落ち着いた。このとき、木材の運搬のために掘割が幾筋も拓かれたのである。ところが、またもや近年、臨海部の新木場へと場所替えした。このことは、よく知られている。
その名も木場公園と名づけられた公園の端に、モダン・アートの美術館がある。ある金曜日(週のうち、この日だけは夜間開館している)、日が暮れたころに、その展示室で、草間彌生の作品の前に立ったことがある。掘割をたどってみれば
60 年代アートかと、納得するようなしないような、あいまいな気分がした。
京都には、夏になると、鴨川の河原に突き出た高床で楽しむ床料理がある。川風に吹かれながら、しばし暑さを忘れる贅沢を一度だけしたことがある。それはたしかに、一度はしてみる価値のある経験だと思う。
やはり京都の四条に近い裏道には、高瀬川に向かって窓が開いているバーが、少なくともひとつある。そこのカウンターに座ると、正面に川面が見えた。ところが、二年後、二度目に行ったときに、同じ止まり木に止まったけれど、浅瀬をゆっくりと流れるはずの水はまったく視野に入ってこない。店の人に訊いても、カウンターから見えることはないという。なんだかキツネ憑きに遭ったようであった。
どうして見えないのか? 見えるはずだと執拗に思いながら、ぼくは、お酒のグラスを手にする気に、しばらくなれなかった。
深川にも、掘割を眺めて食事ができたり、お酒が飲めたりする店はあるにちがいない。しかし、探してそこへ行こうとは、思わない。見えようが見えまいが、川は自分のなかを流れているんだ。これは、「川向こう」と呼ばれる土地で、多くの時間を過ごしてきたひとりとして、一度は切ってみたい啖呵なのである。
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[2003.7.18.]