★映画保存協会・焼き鳥詩人・反戦クルマ椅子

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 映画ならなんでも好き。でも、「覇気がなく、おとなしく、くらーくスクリーンに向かっている」自分にもできる、映画の仕事はあるか。制作には関わりたくないし、監督はとてもとても。配給会社に勤めるのも気が進まない。

 語学留学先のロンドンで、石原香絵さん(33)は、映画館に入り浸りながら、考えあぐねた。いまから10年前のことである。

 きまってたどりつくのは、早稲田の映画館「ACTミニシアター」の思い出。あれは、楽しかった。手書き文字のチラシの片隅にあった「若き情熱あるスタッフ求む」の呼びかけに応じ、学生時代の3年間、ここでバイトした。

 しょっぱなから映写技師をやらされた。週末のオールナイトの日には、受付にはじまって、客入れ、映写、後片づけまで、ひとりでこなす。客席はカーペット敷きに座椅子が並んで、30人も入れば満員。東京一小さな映画館だったのでは?(数年前に閉鎖)

 番組づくりにも参加した。「支配人が、信頼して任せてくれた。それがうれしかった。フィルムが切れたり溶けてしまったり、観客にはわからない映画館の現場で、本当の勉強ができた」

 ロンドンで、フィルム・プリザベーション(保存)を教える専門学校がアメリカ・ニューヨーク州にあるのを知った。デジタル化する前の古い映画フィルムは劣化しやすい。これを補修し管理する。保存なら「職人ぽい」仕事だから、「コキコキ」努力すれば自分にもできるかもしれない。

 映画館の暗闇の時間は、あんなに充実していたではないか。アメリカでがんばろう。即決し、学校初の日本人留学生となった。

 アメリカから戻って6年。現在の石原さんは、映画保存協会を創り、その副代表を務めている。保存の実務に携わりながら、力を入れるのは、家庭に眠る、8ミリなどホームムービーの発掘。住まいと仕事場がある谷中根津千駄木地域を中心に、活動をする。

 出てきたフィルムの上映会も定期的に開く。見知らぬ人の日常を撮ったものがおもしろい。それぞれの時代のファッションや髪型が目を引くし、集まって一緒に観ると「妙に癒される」

 『マサオの自転車』という、昭和40年代撮影の8ミリ映画を上映したことがある。マサオくんという少年が自転車に乗れるようになるまでを、父親が撮影したものである。

 ランニング1枚で奮闘するマサオ少年。しかし自転車は手強い。すぐ倒れてしまう。そのたびに観衆から「マサオがんばれ!」の声援が飛ぶ。やっと走れた瞬間、拍手が湧き起こった。

 そのとき、中年の男性がひとり立ち上がり、「マサオは私です」と名乗り出たのである。大人になったマサオ少年が、自分の昔の姿を観にきていたわけである。会場はもう一度沸いた。

 石原さんは妙な気がしている。「人と関わるのがいやで、ひとりでいるのが楽しかった私。それなのに、いまは逆のことをしている。それもごく自然に」

 愛する映画のためなら、情熱の赴くままに、どこへでも出かけていく。こんなにアクティブになった自分が、ふしぎ。(2007.1.18.)

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 午前〇時半近く、地下鉄東西線の最終電車が通りすぎ、葛西(江戸川区)の街は静まりかえる。しばらくして、駅の高架に近い「やきとり渡辺」の、明かりを落とした店内から、「異様な人」が現われる。帽子を目深にかぶり、大きなマスクをしている。

 自転車の荷台に、まぐろのあら煮を取り分けたお重をくくりつけて走り出し、街を徘徊する。闇のなかでじっと待つ野良猫20匹を巡回し、食事を配達する。

 やきとり屋のおかみ、渡辺治枝さん(58)は、3年前のある晩、店を終えて、深夜のジョギング中にやせ細った猫に出会った。何気なく、持っていた食べものをあげた。翌日も夜中に通りかかると同じ猫がいた。またあげる。その猫には子どもがいるのを知る。他の猫も出てくる。

 やがて毎夜の「給食」になり、徒歩が自転車に変わった。猫が風邪と知れば、ぐっと抱き寄せ、指につけた粉薬を舌に塗りつける。身体の弱った猫を自宅に引き取るうち、家住みもいまは9匹に。

 野良猫の世話を嫌う人がいる。路上で口論になることもある。いざこざを避けるため食器は全て回収する。飲食街の外れをそっと抜けていく。犯罪者のように。

 就寝は午前4時近く。9時半には起きて家事を手早く済ませ、仕込みに店へ出かけいく。「高倉健似」と評判の寡黙な夫は、すでに厨房にいる。昼過ぎまで仕事。夕暮れておかみに変身するまで、1時間程度の仮眠。月曜から土曜まで空き時間はほとんどない。

 客から尋ねられることがある。「日曜は何してるの?」と。「寝てるわよ」と答えるが、ややちがう。

 少なくとも日曜の2、3時間、パソコンに向かい、詩を打ち込み推敲する。

 渡辺さんは詩人である。これまでに自分の詩集が3冊。詩の切れ端がしばしば心に湧く。猫の餌やりに回りながら、毎日3種類用意するお通しをつくりながら、店の目立つところに置く生花の水を換えながらも。

 しかし、メモをとるゆとりがない。頭のなかの「もうひとつの部屋」にしまいこんで、あたためる。それを日曜に取り出すのである。

 「子どものころの私は、ひとりぼっちだった。身体も弱かった。家は貧乏。肺炎になって死にかけている私を、親は不憫に思い、最後の晩餐に豚のすきやきを食べさせた。それで病気が治ってしまった。栄養失調が全ての原因だったかしら」

 渡辺さんにとって詩が支えであり、「みちしるべ」になってきた。「詩を書くことで自分を見つめる。詩がなかったら、人生、どう曲がっていったか。怖い」

 街の陰の部分に生きる者たちに魅かれる。野良猫に、空き缶を集め背負って歩く「缶タクロース」たちに、煙草の吸い殻拾いに。

  道すがら
  ぽつんぽつんとこぼれる
  温かそうな灯りに
  彼らは何を思うのだろうか
  感傷など いらない
  彼らは生きる為に
  生きているだけだ
   「誘われて…」より

 40代のサラリーマンの客が多いやきとり屋。おかみが、沢聖子という筆名の詩人であることを知る客は、ひとりもいない。(2007.1.25.)

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 車椅子が行く。背もたれの外側に縫いつけたポスターが、道行く人に呼びかける、英語で「ノー・ウォー」(戦争反対)と。目に留める人はごくわずか。ほとんど素知らぬ顔で行きすぎる。無関心な、そして多忙な東京。

 新潟県佐渡島生まれの本間康二さん(55)は、1歳のときにポリオを発病し、手足に麻痺がある。パソコンのキーは打てるけれど、重いものは持てない。移動するには、いつも車椅子。

 4年前、イラクで戦争がはじまった。子どもの多い国だと知り衝撃をうけた。人口2千400万のうち半分以上が14歳以下だという。日本では15%に満たないのに。空爆が集中する首都バグダードだけで子どもが300万ぐらいはいるのでは、とも聞いた。

 「アメリカと同盟軍は子どもの海を空爆しているみたいだった。気分が悪い。日本も加担した。ぼくは、ニュースに興奮して持病の喘息の発作を起こし、救急車を呼びそうになった。血圧が200まで上がったこともある」

 開戦1ヶ月後、戦争に抗議するポスターをデザインした。戦火に赤々と照らし出される街と、標的にされた子どもたちと。本間さんの仕事はDTP製版だから、お手のものである。

 テント布に印刷した、反戦ポスターの製作費用は締めて4万円あまり。「これを背に街に出た。はじめは恥ずかしかった。でも、妙な言い方だが気持ちが落ち着いた。以前は、なにもしない自分に腹を立てていたんだね。ひとりでやろうと思えばやれるんだ」

 本間さんのいちばんの趣味は映画を観ることである。黒澤明監督の『七人の侍』など40回は観た。

 新潟市の養護学校を了え、16歳で東京に出てきたとき、これからはめいっぱい映画が観られると喜んだ。車椅子を駆って、毎週映画館に通い、1年間に72本を観たことも。

 『ターミネーター』など「ドンパチドンパチ」のハリウッド映画が大好きであった。ところが、イラク戦争勃発以降、アメリカものは一切観なくなった。買い集めたビデオやDVDも、二束三文で売り飛ばしたり、知己にあげたり。

 アメリカにはむかつく、と思いながら、ふと気になったことがある。持病の喘息の常用薬はアメリカ生まれでは? 調べると、イギリスものとわかり、ほっと安堵する。

 ところが、薬局の主人にさっそく突っ込まれた。「イギリスだって、アメリカに協力してイラクへ派兵してるじゃないか。あんたの反戦は中途半端だね」

 やれやれ、世の中、なかなかややこしい。

 イラクの戦争は、まだ終わりそうにないどころか、泥沼化の様相を呈している。昨年の暮れ、55歳の誕生日を前にして、ポスター第2弾をつくり、これまでのと取り換えた。大きな文字のスローガンは、今度もまた「ノー・ウォー」にするしかなかった。

 「もう戦争は終わっていてほしかった。そうしたら、ポスターを子どもたちの笑顔で埋め尽くして、スローガンも、『ノー・モア・ウォー』(もう戦争はたくさんだ)に変えられたんだけど、残念だよ」

 反戦クルマ椅子、今日はどこへ──。(2007.2.1.)
[2007.5.7.]

読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!


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