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★大根と梅屋敷で街づくりに夢中−−新聞社勤務・大石氏の生き方
初めての街の衝撃■
7年前の平成2年4月、大石昭爾氏は、住み慣れた船橋市から、亀戸に引っ越してきた。「私もトシだし、都心の会社までの通勤時間を短縮したかったから」という。昭和16年生まれの大石氏は、ある新聞社に勤めている。
もっとも、これまでに亀戸という街にまるで縁がなかったわけではない。子供のころに暮らしていたのが下総中山で、中学から大学まで池袋の立教に通っていたから、総武線の亀戸駅はいつも通過していた。
その当時は、車内から見下ろすと、雑草の生い繁る土手の下に、東武線の亀戸駅のホームが見下ろせたそうである。
ただし、一度も下車したことはなかった。だから、はじめて住むことになった亀戸は、名前だけは聞かされていた親戚に出会ったみたいな、妙な懐かしさがあった。
さっそく、会社が休みのときに、近所を散歩しはじめた。新しい土地に早く親しみたいと思ったからである。歴史がある街であることに気づく。
「まるで図書館や博物館にでも入ったみたいに、過去の巨大な蓄積が感じられて、だんだん興奮してきました。新鮮な刺激を受け、頭がしだいに生き生きとしてくる。日常に埋没している自分が恥ずかしくなりました。この街に、おまえのオリジナリティはなんだと問い詰められているような気がして。20代以来はじめて、インスピレーションが出てくるようになったのです」
現在55歳になる大石氏にはかつて、ノーベル物理学賞を受けた湯川秀樹博士にあこがれた青春時代がある。立教大学で物理学科を選んだのも、さらに、このノーベル賞学者が教鞭をとった京都大学の大学院に学んだのも、そのためである。
その後、学問の道から転じて、大物代議士の秘書などをした後、ジャーナリズムへ進むという、特異なコースをたどっている。
新聞社に入ってからは、人口の少ないことで世界で4番目という、ヨーロッパの超小国リヒテンシュタイン(人口2万8千人)へ、一年間の「私費留学」もした。と言っても、この国には大学があるわけではない。「もっぱら図書館に通って、研究を重ねた」という。テーマは、非武装中立である。リヒテンシュタインは、第一次、第二次大戦とも、軍隊を持たず、中立を宣言した。これに興味を持って出かけていったのであった。
旺盛な好奇心はいまも衰えることがなく、インスピレーションに命じられるままに、さっそく、我が街・亀戸の探求に乗り出した。
「亀戸大根復活を復活する会」■
最初の大発見は「亀戸大根」である。練馬大根ならよく知っているけれど、亀戸にも大根畑があったのか。
調べてみると、江戸時代の亀戸は、練馬と肩を並べる大根の産地だったことが明らかになった。
現在の江東区一帯は、川の流れに運ばれる、肥沃な沖積土がつくりあげたデルタで、農業には最適の土地であった。大根は、はじめ砂町近辺で栽培がはじまり、それが亀戸に伝えられたのではないかという。江戸湾の海水が、このあたりまで上がってくるので、別名「汐入大根」とも呼ばれた。
小型で、ほどよい固さがあって、やや辛味のきいた、小粋な大根である。葉も根もそっくり一緒に浅漬けにされて、江戸の人々の食卓に登場したものである。
「練馬」もそうだが、たいていの大根は、秋から冬にかけて収穫されるのに対して、「亀戸」だけは春野菜だったことも珍重された理由であろう。このあたりは川と海に近いために、内陸部に比べて、気温が二、三度高く、真冬に向かう12月初めごろに種を蒔いて、春の訪れとともに穫れたのである。
しかし、都市化が進み、農地が減るにつれて、次第に栽培されなくなり、昭和40年前後には、市場へ出ることもなくなったという。いまは、農家がゼロになってしまった江東区ではなくて、葛飾区にある、わずか三軒の農家でつくられ、出荷されている。亀戸駅に近い「佐野味噌醤油」では、春になると、亀戸大根の浅漬けを売り出すが、この原料も葛飾のものである。
大石氏の大学院時代の専攻は、放射線生物学である。放射線を照射すると生物体にどのような変化が起こるかを研究した。それだけに、生き物についての情報にはとりわけ敏感で、さっそく行動を開始した。茨城県のつくば市にある農水省農業生物資源研究所が、亀戸大根の種を保管していることを知り、これを譲り受けると、区民農園で栽培してみた。
結果は大成功で、さらに、自宅のベランダで発泡スチロールのプランターでも試して、「いける」という結論に達した。さっそく、「亀戸に亀戸大根を復活する会」をつくり、亀戸地区の住民に、種と栽培方法を記したパンフレットを配りはじめている。
「土地の人はとうの昔から知っているのでしょうが、私のような新参者は、いわば旅人の発想で、これにすぐ飛びついたのですね。陳腐かもしれませんが、マンションの『畑』に、昔の大根が帰ってくるなんて、夢があっていいじゃないですか」
万年青年は、いかにも楽しそうである。
亀戸探検はつづく■
大石氏の「亀戸熱」は、大根にとどまらない。自宅のすぐ近くに、かつて「亀戸梅屋敷」があったことを知ると、ふたたび夢中になる。
昔、江戸の庶民の楽しみは物見遊山であった。季節ごとに様相を変える自然を追って、街のあちらこちらを巡って歩く。桜の花見は、そのひとつだったわけである。その他にも、藤や菖蒲、あるいは菊など、日本の四季が豊かに都市空間を彩っていた。
梅の花は、なかでも、色彩の乏しい冬に咲くだけに人々をとりわけ魅了したようである。そこで、梅屋敷や梅園がいくつもあった。
「亀戸」はとくに有名で、浮世絵師・安藤広重が「名所江戸百景」のひとつとして描いている。曲がりくねった梅の木を前景に配した、きわめて大胆な構図である。ヴァン・ゴッホは、この絵に感動して模写したが、その「花咲く梅の木(広重より)」は、アステルダムのゴッホ美術館に残っている。
この梅屋敷では、3600坪の敷地に、竜が臥してでもいるような姿の名木「臥龍梅」をはじめ三百株の梅が咲き競い、香りをふりまいた。しかし、明治時代になると一帯が工場の町になり、さらには台風による洪水の被害を受けて、明治43年に廃園になったという。
江東区教育委員会が跡地に立てた案内板で、梅屋敷の隆盛をはじめて知った大石氏は、首をかしげた。梅がないじゃないか、と。そんなに由緒がある場所だったら、梅の木の一本も植えてやったら、もっと身近に感じられのに。
さっそく江東区役所に話をして、梅の木が植えられることになった。
ここから、北へ300メートルあまり、北十間川の向こうに、小村井・香取神社がある。その境内には、小規模ながら、宮司の努力で香梅園が復活している。
そこで、大石氏は考えた。北十間川沿いにも梅の木を植えれば、東武線・小村井駅から、香梅園→北十間川→梅屋敷跡とたどり、最後は、亀戸天神のなかにある梅に行きつく「梅の道」ができるじゃないか。
平成8年はたまたま広重生誕二百周年にもあたっている。そこで、江東区ばかりでなく、墨田区や東京都にも働きかけた結果、点々と梅が植えられた。9年には梅見に出かけられるかもしれない。
さらにもうひとつ、梅屋敷跡に近い寺の普門院の境内に、歌人で作家の伊藤左千夫の墓がある。門前には、墓の所在を示す碑も立っている。ところが、大石氏は、またも首をひねるのである。今度は、野菊がないじゃないか、と。もちろん、左千夫の代表作『野菊の墓』からの連想である。
思いつくと、とことんやらないと気が済まないタチのようで、さっそく、この小説の舞台になった矢切の渡しへ行ってみる。すると、江戸川の河原には、野菊に似て可憐なヨメナが咲き誇っている。これを摘んできて、普門院の住職の了解を得たうえで、碑のかたわらに植えさせてもらった。
大根にはじまり、梅、野菊とつづく、大石氏の亀戸遍歴をたどると、いずれも、自然への郷愁につながっていく。無意識のうちに、熟年になって暮らしはじめた東京に、息苦しさを感じているためであろうか。
深川鍋をつつきながら■
一夕、亀戸四丁目の「割烹升本」で、大石氏と「深川鍋」を共にした。
ほんとうは、この鍋の主役は亀戸大根だそうだが、11月の末のことで、残念ながらまだない。
「甘味のなかに辛味のあるバランスが最高で、すっきりした春の味」という感想を聞くだけである。
あさりのむきみを、独特の調合による味噌のなかにほうり込むと、韓国から運ばれてきた石鍋が、じっくり煮込んでくれる。
味噌仕立ての鍋が、おいしそうな香りをふりまくなかで、大学の先生といった、いかにもまじめそうな風貌の大石氏は、きちんとネクタイをしたまま、お膳に向かっている。
「亀戸探検」の話が一段落し、ほっとしたのか、東京大学に通っているという、20歳になるお嬢さんの話に移っていく。娘がかわいくて仕方がないという気持ちがアリアリで、小学生のときに、中米コスタリカのサマー・キャンプに送り出したときのことにはじまり、尽きることがない。
「娘が外国へ行っているときは、もう心配で心配で、どこかで飛行機が落ちたというニュースがあったりすると、夜中でも夫婦でテレビにかじりついているんですよ」
子離れできない親の典型みたいではないか。
さあ、大石さん、鍋が食べごろですよ。ちょっとお話を中断して箸をつけてください…。
(1996.12.00)
<本編は、枝川公一著『東京下町とっておきの人々』・中央公論新社刊・に収録されている。>
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