★カウンターカルチャー・2千円札主義・浪曲師 |
大工道具を揃える。ノコギリも使ったことがない。床、天井、トイレ、クロス張りをはがし、解体し、スケルトンにする。マンションの1階部分、わずか4坪の貸しスペースが、むき出しのコンクリートだけに。
3年貯めた300万円と借り入れ金の550万円。これで店をつくろう。設計はプロに。「プラスチックや合板を使わず、自然素材の力を生かし、ウソのないつくりに」と依頼した。設計費でお金がいっぱいいっぱい。施工は自分でやるしかなくなったのである。
加藤賢一さん(32)は、初め途方に暮れた。どこから手を付けるのか。トイレ前に床板を1枚置いてみた。これがスタート。後は次々に決まってくる。「建築はパズルか詰め将棋みたい」
わからなくなると、アドバイザーの大工さんに教えを乞う。おかげで杉の柱を檜の梁と組み合わせる「難工事」も切り抜けた。
ひとりきり。9ヶ月かかって、昨年暮れに完成。「やればできるんだ。いまの人間は、働く場所、住む場所づくりをほとんど他人任せ。でも自分でやると、手触りのあるものができるとわかった」
加藤さんは大学を中退し、その後は、グラフィック・デザインの会社に勤め、クルマのカタログや広告を制作していた。楽しくない。生活、仕事、趣味、遊びがバラバラで、社会のためになる生き方ができていないことに悩んだ。
2年前の4月末日。29歳で退職した。かつてアメリカの若者たちが「30歳過ぎを信用するな」を合言葉にしていたことがある。そこで加藤さんは、会社を辞めるのに、30歳直前の月末を選んだ。信用されない大人にだけはなるなと、自分に言い聞かせながら。
加藤さんの店は、今年初めにオープンした。下北沢もはずれの路地。エゴノキの緑が丸窓を覆っている。5月には白い花が咲く。開きづらいドアを開くと、店主が奮闘してつくった白木の空間が現われる。
中央の丸柱を囲んで、座るスペースが少々。右手には、珈琲が沸くキッチン。見回せば書棚。ここは、古本カフェ「気流舎」。これが加藤さんの選んだ「信用される」生き方である。
坐っても立っても本が読める。買わなくてもいい。珈琲をすすりページを繰る。隣では、本を手に店主に質問。本と珈琲と椅子と人間と。関係いろいろ。なにより人の集まる場にしたいと、加藤さんは思う。
書棚に並ぶ本のラインナップが、他のどこともちがう。「カウンターカルチャーにジャンルを限った。私たちの生活や考え方の主流になっている既存の文化に対して、それに対抗できる、取って代れるぐらいの、力強い文化がテーマの本ばかり集めてある」
加藤さんが、自力で小さな店をつくり、そこを基点に人や情報が集散する。これこそ、カウンターカルチャーそのものであろう。
「借金を返し終わるのが10年後。それが済んだら、自分の住む場所を自分で建てたい。それと、この店をつくっていて、生きる素を生む農業ってすごいな、と思うようになった。自分の食べるものをつくれる畑を持ちたい」
店主は、とてもうれしそうである。(2007.10.4.)
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使いにくい。間違いやすい。果ては、沖縄の守礼門と源氏物語絵巻を組合わせたデザインが変だとか。2000年の発行当初から悪評サクサクの二千円札。
そんな言われ方をしているのなら、徹底的に二千円札を使い込んでやろうじゃないか。そう決意した中野里(なかのり)孝正さん(70)は、生まれも育ちも築地。下町っ子の意地か。とりあえず10年は、日常生活で可能な限りこの札だけを使うと誓ったのが、2001年の元旦である。
それまでも、年のはじめにはかならず、なにか決心をするのだが、つづいたためしがなかった。三日坊主。ところがこれだけは、今年の暮れで継続満7年を迎える。バンザイ。
使っているうちに、だんだん楽しくなってきた。例えば初めてのレストランで、家族と食事。二千円札ばかり数枚で支払いをする。しばらくして再訪。また同じ札。すると店の人、顔を上げてにっこり。「ああ、この前の方ですね」
おぼえてもらえる。お札は銀行で調達する。あまり流通していないため、ピン札がほとんど。払うのに気分がいい。おそらく受け取る側も。タクシーの運転手さんなど「このごろ、ごぶさたです」とニコニコ。お札をはさんで、人と人とが、しばし和める。
たしかに困ることはある。ときに自販機で拒否されるし、コインパーキングも駄目。3度に1度はやっかいになるという1000円カットの店もノー・グッド。そこで、コイン入れは別にある。
財布のなかは、ときたま千円札がまぎれこむが、だいたい二千円札ばかり。新たに追加する場合は、金額を記録する。だから、小遣いをどのぐらいつかっているか、だいたいわかる。
「このずぼらな私がねえ。それにしても、トシだし、このごろは付き合いも前ほどではない。派手な飲み食いしていたら、二千円札だけではとても払いきれないな」
中野里さんは、築地「玉寿司」の三代目社長。父が興し、母ががんばった寿司店を継ぎ、チェーン展開に成功した。都内ばかりでなく各地に、最多で36店舗を展開した。現在は社長を息子に譲り相談役に退いている。社員たちからは「先代」と呼ばれる。
二千円札生活は、社長時代にはじめた。バブル崩壊後の逆風に遭って、経営者として苦闘をつづけていた時期とも重なる。
かつてバブルの時代、金融機関の誘いに応じて、不動産を買い増し、株に大金を投じた。ところが、一転、崩壊すると、残ったのは莫大な借金。中野里さんは、これを整理して寿司店チェーンを守るために、自分の資産を売り払い、後を息子に託したのである。
「二千円札と会社とは別だけれど、泡銭は泡として出ていくだけ。お金は敏感だし、色もついている、微妙な生きものだ。そのことがよくわかる」
二千円札生活の日々は、自分を変えたと思う。「結局、残るのは働いて得たお金。二千円札を使いつづけるようになって、私は無駄遣いをしていない」
それにしても心配の種が。人気のない二千円札、いつか消えてなくなってしまうのではないか。(2007.10.10.)
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あれは4年前、7月9日のこと。東京駅から夜行バスに乗り込む恵子さん。バスは闇を切り裂き疾走する。一夜明ければ大阪で、目指すはミナミの国立文楽劇場。関西浪曲界の大御所、春野百合子さん出演中。その楽屋へと直行。
「先生、お願いです。弟子にしてください」「無理よ。やめなさい」「いいえ先生。私は一生やれることをとうとう見つけました。浪曲のない人生なんて」
その場に崩折れ涙ながらに訴える。乙女のいちねーん、岩をもとおーす、というわけで、晴れて入門。
さて、夜行バスものがたりには、まだ先がある。
バイトをしながら、東京から師匠の住む堺(大阪府)へ、バスで通うこと半年。
早く上達したい。年が明けるとたまらず、着の身着のまま、家財道具を抱えるだけ抱え、これが最後の大阪行きバスの旅に出た。
飛び込みでウィークリーマンションを探して入居した先は、堺に近い岸和田(大阪府)。気候は荒々しく部屋は寒い。布団にくるまり稽古、稽古。99円以下の食料だけでしのぐ日々。
恵子さんは、生まれも育ちも東京は都心の文京区。初めて接する関西人は、気持ちの垣根が低い。十分食べていないのではと心配して、気軽に総菜を買ってくれる。炊飯器やアイロンをつぎつぎ提供する。東京なら、かえって迷惑かと思い、引くところでは。
「修業時代を大阪からはじめられてよかった。師匠のそばで、日々修業を積める。迷ったら相談できる。この関係がとても好き」
恵子さんは、演芸というジャンルをあまり知らずに育った。25歳のとき出版社勤めをやめ、しばらくテレビタレントをしていて、落語家たちと知り合いになった。
「私たちの年代は、つくられた映像に慣れている。落語はちがう。座布団に坐る人がしゃべるだけで、聴くほうの頭に、さまざまちがう『映像』が浮かぶ。演芸の力に目が向いた」
恵子さんは悩んでいた。30代が近づいているのに、ほんとうにしたいことがない。これでは生きていても仕方がないと思いつめた。そんな折り、浅草・木馬亭に迷い込む。ここには浪曲の定席がある。浪曲? 知らない。ところが、語りを耳にし目にした瞬間、「みーけた」と直感した。
後で考えれば理由はある。恵子さんは子どもの頃から時代劇とミュージカルのファン。とりわけ「暴れん坊将軍」と「サウンド・オブ・ミュージック」が好き。もちろん、アイドルは松平健とジュリー・アンドリュースというわけ。
浪曲は、歌うように語り、勧善懲悪と義理人情を説く。恵子さん好みの世界がぎっしり詰まっているではないか。
すぐに浪曲のテープを聴きまくり「すごい引力」の春野百合子さんに狙いを定めて、弟子入り直訴を決行したというわけ。浪曲を知ってわずか2ヶ月後のことであった。
恵子さんの本名は唐木恵子(34)。最終学歴は、東京大学教育学部卒業。昨年デビューし春野恵子に。1年半が過ぎた。東大名誉教授(獣医薬理学)の父も、また母も、「浪曲と浪花節は同じ?」などの初歩的質問はもうしない。(2007.10.18.)
★[2007.11.26.]
読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!
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