★A Woman's Life・万華鏡博物館長・顔師 |
「私は100歳まで生きるつもり。まだ50年以上あるんだから、いろんなことができるでしょう」
古田マリさん(42)には、人生のスタートでつまずいたという思いが強い。これから先の人生には、可能なかぎり長い時間がほしいとも思う。
「20代まで、私は親の言いなりだった。女は婚期が遅れるから浪人などさせない、女子大へ行っておけ、と言われて育った。その通りにしてきた」
津田塾大の国際関係学科を卒業し、大手IT企業に就職。しかし、脈絡のない「雑用」をこなす日々。自分がどこにもいない。
ある日、三宅坂を歩いていた。皇居のお濠沿いに、警視庁のある桜田門から半蔵門方向へ上る坂である。足を止め見上げると、緑に囲まれた、白い石の塊が目に入った。最高裁判所の建物である。思わず見とれる。ここから、古田さんの人生は変わることになる。
この建築、表面をぼこぼこにした御影石の壁を張り巡らせてある。自然素材をふんだんに使い、温かい空間をつくる仕事ができたらと、痛切に思った。
はじめて、自分のしたいことを見つけた。お金を貯め、親には黙って会社をやめ、昼は設計事務所でバイト。夜、東京理科大で建築を学ぶ。小田急線に乗りつづけ厚木の自宅に戻るのは、午後11時近く。「でも、乗りかかった船を途中で下りるわけにはいかなかった」
その後、ロンドン大学に1年留学し、建築環境学で修士号を取った。「私も海外には期待があったけれど、じつは東京のほうがすごいことがわかった。だいたい、一日24時間、たいていのところでコピーがとれる都市なんてない」
東京に戻ったときは32歳になっていた。人生の残り時間をふつうに計算すると、すでにだいぶ食い込んでいる。建築で学んだものをインテリア・デザインの分野に生かそうと決めていた。しかし、キャリアのスタートにはまだ足りない。
一級建築士の資格を取得するという課題が残っている。資格試験の合格率11から12パーセント(当時)という難関であった。
予備校の英語講師のバイトで食いつなぎ、がんばる。5時間半かけて設計図を描く2次試験がきつかった。「私みたいなおばさんになると、体力がないから、集中力がつづかない」
35歳で念願を達成する。もっとも、資格をとっても、すぐ仕事が来るわけではない。事務所は開いたけれど、「空き巣も目こぼししてくれるくらい」のヒマを克服するまでに、さらに3年がかかった。
「人生はまだ半分以上ある」と独り決めする古田さん、いままでの長い試行錯誤が、やがてプラスに働くと信じている。
近年は人気低迷がちな和風照明器具を改めて手がけ、あるいは、防犯に効果のある建築デザインの提案をはじめている。「だれもやらない仕事に、私はわざと、意識して手を出すことにしている」
なお、成長期の娘にきびしく接した父は、74歳になった。5年前から重い病に侵されている。元気でなくなってしまっては、喧嘩をすることもできないではないか。(2007.9.12.)
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繁華な渋谷の街に背を向けて、坂を上ったり下ったり。丁目のない鴬谷町(渋谷区)にたどりつく。築年不詳のマンションのなかは、薄暗い。8畳、6畳、6畳のスペースの半分は紙袋で埋まり、あとの半分に本が積み上げてある。
今年9年目の「日本万華鏡博物館」は、その狭間に辛うじて存在する。薄闇に目を凝らす。万華鏡と思われる筒型の物体が、部屋の隅や、積んだ本の上などにかたまっている。
館長の大熊進一さん(57)は企業のPR誌の企画編集をしてきた。ここは仕事場兼用の極小ミュージアム。ときどき観光バス会社が、バス用の駐車スペースはあるかと問い合わせてくる。そんなものない。だいたい予約のみ受付の入館者は、一度に4〜5人まで。
鏡と光の作用で、色と形の千変万化を楽しむ万華鏡。これがテーマの博物館は、日本では他にない。
ここには入館料がない代わりに、用意してあるキットを各自で買い、その場で組立てながら、歴史や原理の説明を受ける。幼い小学生などは気が散り、周りにある万華鏡に勝手に手が。するとイエローカードを一枚渡される。反則。もう一度すると退場になる。
しかし退場者はひとりも出ていない。「キットを完成させて覗いた途端、これはすごいとわかるんだ。結果、もっと面白い世界があるはずと真剣になるから、いたずらなどしなくなる。子どもは凄い」
大熊さん、ご満悦。それに比べて大人たちは……。
万華鏡に仕込む鏡は、人間の眼の焦点距離に合わせ、長さ20センチぐらい。ところが市販の学校教材には、13センチなどという不良品が平気で付くことも。これではぼやけて見えない。「せっかくモノをつくり、感動を生もうとしない教育とは何なんだ」
大熊さん、えらく立腹。
かつて百色(ひゃくいろ)眼鏡とも呼ばれた万華鏡。これを覗いていると、世の中の色合いまでもよく見えるらしい。
近年、博物館の夏は賑やかであった。夏休みの自由研究の子どもたちが、押しかけていた。ところが、夏の来館者が減りだした。ここだけではない。日本全国の科学館で軒並み減少したという。ゆとり教育を見直す風潮の影響である。
「ゆとり教育が見直されるようになると、突然、子どもたちが来なくなるとは。子ども自身に関わりなく、一斉に右へ倣えをする教育。この国、なんかおかしくないか」
いまから17年前、大熊さんはハワイのマウイ島へ行った。クジラを見に。島のアートショップで万華鏡を見つける。子どものころのおもちゃとはちがう、複雑な色彩。アートになっている。ひとつ買い求めた。それが付合いのはじまり。
万華鏡は、単一規格での大量生産には向かない。自分の好みのままに、さまざまの変化を楽しみ、美しさに感嘆する。大熊さんは、現在までに1700個も集めてしまった。
万華鏡は壊れやすい。大勢の人にいっぺんに見てもらうのは無理。そこで、渋谷の賑わいからはずれた、小さな小さなマンション・ミュージアムになったというわけ。
少人数のグループが、万華鏡を囲み体験する喜びが、じわじわ拡がれば、と。(2007.9.19.)
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美容師を探している。自分の髪や肌のケアをしてくれる人を。大田区から浅草へ引っ越してきて1年を過ぎたけれど、近所でなかなか見つからない。上手下手は道具の使い方ですぐわかる。一発でこの人、と決めたい。それがまだ。
二代目市川荒右衛門。女性である。本名は佐久間泰子(ひろこ)さん(66)。顔師である。舞踊の会の楽屋で、古典舞踊の人の顔を描く。化粧のスペシャリストだが、自分自身のこととなると、ままならない。
初代の父は歌舞伎役者。役者は自分で化粧する。なかに化粧のうまい役者がいて、頼まれると舞踊の踊り手の顔をつくりに出かける。アルバイトである。そのひとりであった。
二代目も3歳で、市川小百々の名で歌舞伎の子役になり、さまざまな役をこなした。しかし、歌舞伎に女性の居場所はない。14歳でやめ、父の指示で顔師に弟子入りする。5人姉妹だが、顔師修業に出されたのは二代目だけ。父は、彼女に自分に近いものを感じたのかもしれない。
修業先では下塗りばかり。白とか茶色とか、顔を役柄に応じた色に塗りあげる。化粧の下地づくり。
やがて初代が顔師専業になり、引き取られる。また下塗りからやり直しである。周囲から、あんなきびしい親は見たことがないと言われた父。「やめてしまえ」「もう来るな」と怒声が飛ぶ。筆も投げつける。
踊りの会は時間との勝負である。20分前後で幕が変わり、新しい踊り手に交代。楽屋では、出番の2時間前に準備にかかる。
最初が顔。踊り手が浴衣になり顔師の前に坐る。弟子が下塗りした後、顔師が目張りや口紅を施す。後に衣装やかつらが控えているから、急がねば。それなのに父は、自分のイメージにはまらないと、最初から塗直しをさせることも。
耐えて一人前に。20年あまりかかった。「私の描いたところへ、父がちょっと筆を入れる。おっと思う。それだけで見違える。こうして仕事をおぼえた」
29年前、父に死なれる。仕事は休んでくれない。父の葬儀の日取りを延期したほど。当時の顔師に女性は皆無で、女名前もない。父の腕を高く評価する人の推挙で継承できた。男名前のままで二代目に。
当時、同業者からはバッシングを受けた。女だから力強さがないとか、陰口も聞こえた。「他人の悪口は自分の得」を自戒として心に留めた。
父が背後にいるのをいつも感じていた。ある日、手元を見て慄然とした。自分の手ではない。こんな風にまゆ毛が描けるなんて。いったいこの手、だれの手なの? そして気づくのである、父の手だと。
父がしばし自分と入れ替わる。同様の経験を何度かする。78歳で亡くなった父が自分の近くにまだ居ると感じながら生きた日々。父の幻が消えたのは2年後、生前に依頼された仕事が全て終わるころであった。
現在、二代目の娘、一樹(かずき)さん(40)が、母に従い顔師を目指して10年が経つ。筆を持ち、少しずつ顔を描きはじめている。
「この仕事は瞬間芸。ひとつ間違えたら後戻りできない。日々エネルギーを使い果たす」と二代目。(2007.9.27.)
★[2007.11.9.]
読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!
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