TOKYO
2005.10.7.

☆新たにメニューに加わった「にしさん」ってなに?

 「西さん」のフルネームは知らない。九州に本社がある半導体関連の企業の営業部員らしい。単身赴任で、京王線仙川駅(調布市)界隈に暮らしていた。

 だいぶ以前のことだが、この中年男が、すでにどこかで呑んできた感じで、駅に近い広島お好み焼きの店「まや徳」に現われた。店の主人の竹中好徳氏(現在56歳)とおかみの摩耶さん(45歳)は、そのときの情景をおぼえている。

 主人はチーズ巻き(200円)を調理中であった。お好み焼きの薄い生地にチーズとネギと一味トウガラシを巻き込んで焼く。当店で人気のつまみである。

 焼き用の鉄板を囲むカウンターに座り、これを眺めていた「西さん」が、「ねえねえマスター、それにさあニンニクたっぷりと豚肉も入れて焼いてよ」と要求した。

 その通りにして出すと、いかにもおいしそうに食べる。会社員らしいけど、匂いがきついニンニクはいいのかなと、主人は心配した。

 それから毎晩のように現われては、メニューにはない、このつまみを注文しつづけて、呑む。

 仙川は新宿から快速で17分。街は23区と多摩地区の境目で、電話が03局番である。地方から上京する学生や転勤のサラリーマンの住人が目立つ。東京に馴染みの薄い者同士、この店で知り合い友だちになる。「西さん」もそのひとりである。

 主人夫婦は、劇団四季の研究生から出発した元舞台俳優。夫は学生たちと野球談義をするのがなによりの楽しみという。気さくな妻は「若い子には私の気分次第でおまけしてあげちゃうの」と屈託がない。

 開店から17年、東京をいつか去るはずの人々の出会いに立ち合ってきた。「卒業や転勤の時期の3月はいつも寂しい」と、おかみはしんみりする。

 4年前、「西さん」が突然の転勤で、故郷の鹿児島へ帰ることになった。主人夫婦と客たちは、お別れ会を開いて送り出した。

 それからまもなく、客の間から「西さんが食べてた、あれ」という注文が相次ぐようになった。

 やがて店のメニューに「にしさん」(350円)として、あのニンニク入り強力つまみが登場した。ずっと開店時そのままだったメニューに、初めて新しい一項目が加わったのである。

 熊本出身の主人は、ホワイトボードの新メニューを写真に撮った。帰郷するとき、隣り県の鹿児島にいる「西さん」に電話をして、夫婦で久しぶりに会い、証拠写真を手渡した。

 しげしげ眺め、「そっかあ、ほんとなんだ」と言いながら、「西さん」は、記念の写真を胸ポケットにしまったという。

 いま、イチゲンの客はメニューをたどりながら、かならず訊く。「にしさんってなんですかぁ?」

 いきさつを説明する主人の頭に、鉄板の向こうを通り過ぎていった人々の、懐かしい顔がいくつも浮かぶ。

 企業や学校が集中する東京は、しばしの間暮らす人の多い「仮住まい」の都市でもある。客の名が料理名になってしまう。そこには、人とのつながりを求める、人恋しさの思いが働いているのであろうか。
[2005.10.7.]


>>> 取材ノートから

 17年前の開店以来、メニューはほとんど変わっていない。「にしさん」が加わっただけ。それでも、この1月にトッピングの値段が、100円から150円にあがった。そばに海老を入れると、いままで800円だったのが850円になった。本体のそば、うどん、もちも、本当は上げたいけれど、できない。学生が多くみんな大盛りで頼むから、そばうどん類を上げてしまうとかわいそう。「にしさん」もほんとうは350円を400円にした。チーズの値段がばかにならないし、手間もかかる。人気メニューだけに思い切れない。たったの50円だけれど、されど50円。でも、涼しくなると出てくるホタテやカキなどを、主人夫婦の心配をよそに、学生の客が平気で食べていたりする。学生客のほうが、店のふたりの厚意に甘えている気もする。


読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!


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