TOKYO
2007.9.3.

☆愛する深川・肉体労働の喜び・ロックンロール

カメラ

 長く慶應大学教授を務めた。いまは獨協大学の専任講師。貿易や海外投資に関する法体系、国際経済法という「バタ臭く味気のない」学問の権威である。

 「これが本業。でも、ほんとうは小学校の先生になりたかった。担任の人柄に憧れた。なにをまちがってか、こういうことに」

 櫻井雅夫先生(72)には、他にも打ち込んでいることがある。歴史の「あら探し」である。作家や研究者が江戸東京について書いていることの間違い・勘違いを見つけ出し、暴く。週末には調査に跳び回る。

 先生は、材木問屋が軒を並べていた頃の深川木場で、幼い頃を過ごした。だから、あら探しも、深川をはじめ、銀座、日本橋、向島など、自分の縄張りに限る。それだけにきびしく、細かく。

 関西出身の有名作家の作品で、深川近辺の地域名、洲崎に「すざき」というふりがなを発見したのが発端。正しくは「すさき」。

 先生、一声「許しがたい!」

 ある女性ライターが、「深川辺りははっきり言って僻地」と書いている。

 「水かけるぞ!」

 探索の手は、地下鉄東西線の車内放送にまで及ぶ。木場を「キバァ」とバを強く発音し連呼するのを耳にし、慨嘆。木場生まれの意地にかけ、キを強く「キィバ」でなくては。区役所に電話し、深川生まれの職員からも「キィバ」だという証言を得て、勇気凛々。

 「けしからん!」

 先生、激しく怒りながら、目が笑っている。あら探しを芯から楽しんでいるのである。

 「私もトシだし、ウソを書いている人は早めにつぶしておかなくては。ここで生まれ育ち、土地鑑があって、東西南北のわかる人間としてがんばらねばならない」

 先生の攻撃の矛先は、教え子たちにも向けられる。春の新学期最初の授業で、受講学生は、教科とは関係なさそうなプリントを渡される。そこには、隅田川に架かる、全ての橋の絵が描かれ、橋名、架設の年号が書き込んである。

 次の授業までに、橋の名を全部、上流から順に言えるようにと厳命。できなければクラスから追放すると宣言する。実際、学生をかたっぱしから当てて、言わせる。もっとも「追放」の憂き目に遭った例は皆無なのだけれど。

 「大川(隅田川の別称)の橋は日本の橋。日本の橋の名をきちんと言えないような人間なんて、だれにも信用されない」

 あら探しの成果は、6年前、パソコンを駆使した手作り本『江戸・深川と八幡祭』にまとめた。さらに『新版』を、今年、「敗戦記念日」の8月15日に出すつもり。日本を代表する映画監督、小津安二郎をめぐる新事実を明らかにする、と張り切っている。

 櫻井先生の現住所は深川、ではない。ずっと西の武蔵野市。都内だけれど、先生を育んだ江戸東京からは離れている。

 「私の心は深川に置いたままだ」

 いつか深川に戻りたい? 

 「じつは最近、隅田川の西岸あたりに住むのもいいかな、と。そうすれば、東の深川のほうから、朝日をいっぱいに浴びられる」

 先生、気が多い。(2007.7.5.)

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 これからの季節、2トン車の積み荷はどんどん重くなる。夏のビールの量はすさまじい。配送トラックのドライバーになって4年目。お盆までの超多忙の日々を駈け抜ける。しんどくもあり、痛快でもある。

 金森功さん(38)にとって、ビールは忘れられない思い出につながる。

 少年時代、プロ野球選手をめざし、野球が強い都内の私立高に進学した。当然、野球部に入部を申し込んだ。もうだめだと言われる。同じように断られた生徒がおおぜいいた。優秀な選手を各地からかきあつめた後だったのである。

 それでも、監督は「ちょこっと」ノックをしてくれた。その後に「入部してもきみらでは無理だから、勉強がんばってね」と言い渡された。それで終わり。

 あっけなく消えた夢。金森さんは、後楽園球場へ行き、バイトの売り子に。スタンドで「ビールいかがですか」と売り歩く。

 球場がドームに変わる直前の頃で、缶ビールを並べた木箱を身体の前にぶら下げる、駅弁スタイル。階段の上り下りはきついけれど、とても楽しい。

 「野球をやれなくても、ブロの選手を間近に見られる。それでよかった。当時は、角、篠塚、中畑、大好きな原。最高。バイト同士、和気あいあいだし」

 高校時代の3年間ずっと、このバイトをつづけた。学校では友人ができなかったけれど、同年代の売り子仲間とは、いまでもずーっと友だち。

 金森さんが本格的に就職したのは20歳のとき。ディズニーランドに近いホテルのベルボーイになった。[テレビドラマで見て、この仕事に憧れた」

 13年勤続。ある泊まり勤務の日に、異動の内示を受けた。レストランの集客戦略を立てる部署へ行け、と。パソコンに向かってのデスクワークだろう。耐えられそうにない。坐りつづけるのは理髪店で髪切る間も我慢できないのに。

 仮眠もせず考え、泊まり明けに、荷物をまとめ退職した。同僚がクルマで地下鉄の駅まで送ってくれた。大荷物を抱えてひとりになり、初めて後悔した。後の祭り。

 気を取り直した金森さんが選択したのは、昔の売り子のバイトに戻ること。今度は横浜スタジアムのスタンド。売るのはビールではなくてウィスキー。水割をつくり客に渡してまわる。忘れていたが、身体を使う仕事が、とてもうれしい。

 世間では、職種といい、キャリアといい、あるいは習得技能などともいう。金森さんには無縁である。

 「朝。次第に身体が慣れてきて、動きはじめ、やがて活発に動く。ぼくがいちばん楽しい瞬間は、日々、すべてが終わり、ふーっという気分になるとき。これが肉体労働のすばらしさ」

 半年間、球場のバイトで助走をつけて跳んだ先が、現在のトラックドライバーというわけ。勤め先は、酒類を飲食店に配達する、大手の酒販店。「いまは非常に気分がいい」
 ──かつて、ホテルマン時代に結婚した。数年で離婚。ドライバーになってまもなく、かつての妻に再会した。その後も会いつづけ、3年あまり。もう一度一緒になろうかと話し合っている。金森さん、子どもがひとりはほしい。

 「プロ野球選手にしたいんだ」(2007.7.12)

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 青春の思い出などにはしない。心弾む曲をいつもライブで。いまこの一瞬がすべて。昨日を今日に、今日を明日に、引きずらない。

 いつもステージのすぐ前を、自分の居場所と決めている。ライブがはじまると、にこにこ笑顔に。やがて踊りはじめ、踊りつづける。他人を押しのけはしないけど、私の邪魔はしないでね、という気持ち。

 盛り上がって終わる。さらに打ち上げへ。帰りがたい客がミュージシャンたちと興奮を分かち合う、貴重な時間。ヨリさん(本名・日下由子 37歳)は、場所とりから会計まで引き受けて活躍し、打ち上げ番長と呼ばれる。自分はお酒をほとんど飲めないのに。

 街の中心から微妙に外れたビルの地下などに点在するイベントスペースのライブハウス。客はどんなに入っても100人とか200人。そこは、マイナーなバンドが大切なファンと共有する別世界である。

 ヨリさんはロックンロール大好き。以前からコンサートにはよく行っていたが、7年前、ライブハウスを巡るように。「ただ観るのでもなく聴くだけでもない。自分がそこにいてライブが成り立っていると思える。感想を求められても言わない。なにも考えず、ただただ楽しみたい」

 ライブに行く回数が月に10回に増えたとき、映画も本もあきらめた。ヨリさんはフリーの校正者。赤ペン片手に雑誌や書籍の文字をチェックする。仕事も収入も不安定。チケットと打ち上げ代を合わせると、毎回4千円にはなる。

 「ライブに行きたいから働く」

 いまでは多い月で20回。他にはお金を使わない。使えない。それでも、ときに生活費に食い込む。結果、量だけで味は二の次の食事で我慢したり、昼食はお握り一個だったり。

 下北沢のライブハウスでのこと。終電はとっくに逃したが、高田馬場の自宅までのタクシー代は残っていた。でも、これを使うと翌日からの生活に支障が出る。ヨリさんは歩いた。家まで4時間近くかけて。

 ロックンロールとの出合いは、ちょうど30年前の夏。猛暑の東京。葛飾区新小岩。ヨリさんは7歳の少女。テレビの前で笑っている。エルヴィス・プレスリーが死んだという。悲しいニュースなのにとても楽しそうな女の子。

 ぼやけた白黒映像のなかで、リーゼントの、やせたエルヴィスが腰を振り踊っている。カッコいい。太った晩年の彼ではない。若く素敵なガイジン。名曲「冷たくしないで」が流れる。以来、ロックンロール一筋に。大人になっても。

 27歳のとき、4歳年下の彼と恋に落ち、一緒に暮らすように。3年後「ひとりになりたい」と別れ話を持ち出したのは、彼のほう。別れたくない。彼女は必死に抵抗する。彼はがんとして受けつけない。

 ヨリさん「泣く泣く」引っ越し荷物を引きずって運び、彼との住まいから徒歩20分離れた別のアパートへ移る。ひとり暮らし。しばらくは死ぬことだけを考えていた。

 あるバンドに遭遇し、生き甲斐を見出す。バンドからバンドをたどるライブハウス通いが、こうしてはじまったのである。

 「指くわえてても幸せは来ない。探せばきっと見つかる」

 人生はロックンロール。(2007.7.19.)
[2007.9.3.]

読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!


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