| ★80歳の木彫刻師、名誉都民に選ばれて |
「信号無視はできません」■
去る夏の終わり、8月30日の夕暮れどき、木彫刻師の岸本忠雄さんのもとに電話があった。相手は、都の生活文化局の者だと、名前を名乗った。
「岸本さんのところに、明日おうかがいしたいのですが、おいでになりますか」
丁寧な口調であった。
「おりますが、どんなご用件ですか」
すると相手は、一瞬、間を置いてから答えた。
「うかがったときに申し上げます」
翌日やってきた都の職員から聞かされたのは、岸本さんには意外な知らせであった。名誉都民の候補者になったという。
「追って知事から公表しますので、それまではどなたにも、おっしゃらないでください」
そう言い残して、職員は帰っていき、木彫刻師は、妻にだけ、この件を告げた。
9月に入り、石原都知事が定例記者会見で、岸本さん、狂言師の野村萬さん、「フジヤマの飛び魚」こと水泳の古橋廣之進さんの3人を、名誉都民候補に選んだと発表した。その後、議会の承認を受け、10月3日に顕彰式があった。
それから一ヶ月あまり後、深川江戸資料館の裏手にある工房に、名誉都民となった岸本さんを訪ねた。
その後、身辺になにか変化がありますか。「とくに変わったことはありませんね。町会の人たちが清澄庭園でお祝いしてくれました」
やはり都民の模範ということになると、……。「つまり、悪いことしちゃいけませんよってことでしょう。自転車乗ってて、周りにだれもいないと、赤信号なのについ渡ってしまおうとしたことも、以前にはありました。これからは信号絶対守っていかなくてはね」
当年80歳の岸本さん、屈託がない。
三代つづけて、深川住まい■
岸本さんは、小学校卒業と同時に木彫刻の道に入った。だからキャリアは70年近くに及ぶ。祖父の代からつづく、江戸木彫の三代目。父の二代目が工房から出ない仕事一途な人で、新年の挨拶まわりを息子の岸本さんが引き受けるほどであった。
早くから、大人同然に扱われたし、自らもそのように振舞ったのであろう。
初代が、ここ白河一丁目(当時、霊巌町)に居を構えたのが明治26年だから、以来100年以上になる。かつて、この界隈には、どの路地にも建具屋、家具屋、指物屋など、木を扱う職人が軒を並べた。近隣の町名には、表大工町、裏大工町、海辺大工町など。大工の棟梁たちが多く住んでいたのである。
それというのも、ほど近い三好、平野あたりが木場の中心だったからである。自然と、木を扱う仕事人たちが集まっていた。
岸本さんの祖父は、隅田川寄りの六間堀に居た名工、後藤功祐に師事した。功祐は、もともと社寺彫刻で知られた関東後藤派の総帥だが、維新後、洋風彫刻を取り入れて名を成したという。
弟子のなかでも、岸本初代は群を抜いていたようで、免許皆伝となり、洋雲斎後藤祐正と号することを許された。西洋ものと、それに雲を彫るのを得意としたからである。
この初代は58歳で亡くなり、二代目の祐則も53歳で、この世を去っている。いまから考えれば、ともに、ずいぶんと早死にである。
「その代わり、昔の人は20〜30代でバリバリやったんですよね。ぼくなんか80ですが、まだまだ勉強して修業しないと」と、三代目の岸本さんは言う。先達ふたりの技は、この匠に受け継がれ、いまも生きつづけているのであろう。
岸本さんは、先の大戦中、通信航空兵として沖縄戦線に駆り出された。食料が底をつき、ヘビやセミまだ食べて飢えをしのぎながら、生き延びた。父親の二代目が死んだのは、終戦の翌年で、岸本さんは、まだ20代のはじめで三代目を継いだ。
焼け野原に、やっとぽつぽつと木の職人が戻りはじめた深川で、腕一本、我れひとりの人生に漕ぎ出していった。すでに仕事はいっぱしにできたけれど、デザインまでは、父親の生前に体得していなかった。そこで、南画、書道、彫塑と、進んで他の分野の勉強にも出かけた。写真を見ながら、デッサンを独習した。
こうして、岸本さんのスタイルがつくられていったわけである。
20代の半ばに、国会議事堂の彫刻に腕を振るったことがある。議員数が増えたため新設する議席の肘掛けに飾りをほどこす仕事である。議事堂はもともと、大正9年から17年の年月を要して完成した。その建設時には、初代の祖父のほうが、内部の彫刻づくりに参加していたという。
祖父は議事堂の完成を待たずに他界したのだが、時を隔てて、おじいちゃんと孫が「競作」しているのを思うと感慨深い。
「見える工房」の発想■
現在、岸本さん自身の木彫刻作品には、街のなかのあちこちで接することができる。
江東区森下文化センターの玄関ホールやホテルニューオータニのフレンチレストラン「トゥールダルジャン」へ行けば、パネル彫刻に出合える。あるいは、工房近くの「資料館」の入り口にある「飾り獅子」の彫刻と言えば、ああ、あれがそうなんだ、と思い当たる人も多いにちがいない。
なお、平成天皇ご即位の際に使われた礼式台の脚彫刻も、岸本さんが手がけたのだという。
6年前に、工房を改築した。その際、目指したのが「見える工房」である。つまり、実際の仕事場と展示スペースを隣り合わせにして、岸本さんの作品を観賞しつつ、仕事ぶりを見学できるようにした。だから、木彫刻師が手を休めていれば、言葉を交わす機会もある。
完成品ばかりでなく、その制作過程にも、一般の人が「参加」できるという、画期的な試みであった。
岸本さんが子どものころは、下駄屋さんでも畳屋さんでも、もちろん、木彫刻の匠も、仕事場を開け放っていた。だから、外を通る人が立ち止まって眺めたり、おしゃべりしていったりするのがふつうであった。
街と仕事とが、密接につながっていた。人々はこうして、手仕事に対する親近感を日々に抱きながら暮らしていたわけである。
それが戦後いつの間にか、仕事場の透明ガラスが曇りガラスにされ、さらに、ガラスから壁に変わり、という具合で、次第に、仕事の現場が、街から遠ざかっていった。
そこでもう一度、暮らしと仕事を近づけたいという思いが「見える工房」の発想になったわけである。
座右の銘は「愚公移山」■
さらに岸本さんは、仕事を「見せる」ための、もうひとつ別の努力もしている。それは、文化センターで木彫刻の教室を開いたり、地元の小・中学校へ出かけていって、生徒たちに木彫制作のアドバイスをする、啓蒙活動である。
そのために、自分で参考作品もつくって提供することもしている。
去る9月20日、都議会の定例会の開会にあたり、都知事は、岸本さんを名誉都民に選定した理由を次のように述べた。
「岸本忠雄さんは、三代にわたって江戸木彫刻を受け継ぎ、後世に残る作品を創作する傍ら、体験学習を通して小・中学生に木彫りの素晴らしさを伝えておられます」
作家活動と同じくらいに、この啓蒙活動が高く評価されて、名誉都民顕彰につながったことがわかる。
木彫刻の魅力を広く伝えたいという思いの底にあるのは、このアートの将来に対する強い危機感である。
「だんだん木彫刻が生活のなかから消えていっています。たとえば、住宅環境がちがって、家の欄間がなくなったのなどもそのひとつです。その結果、天井を見上げて欄間彫刻を身近に感じることもありません。木の文化のすばらしさが忘れられかけています」
そこで、「今回、名誉都民になったことで、木彫刻をはじめとして、なくなりつつある伝統工芸が見直されるきっかけになれば」とも話している。
座右の銘をうかがうと、即座に「愚公移山」と返ってきた。古代中国の寓話に、愚か者が家の前に立ちはだかっている山をふたつも削ろうとして嘲笑される話がある。そこから、たとえ愚かな者でも怠らず努力すれば、大事をなしとげることができるという格言になったのである。
こつこつと積み上げてきた、80年の努力が、実を結んだ、自らを「愚公」になぞらえる岸本さん、これからもどうぞお元気で。
★2006.1.13.
初出=タウン誌『深川』168号
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