TOKYO
2007.12.10.

☆竜泉界隈・作家と銀杏返し・人材バンク

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 夏が暑過ぎたからか、秋が短い気のする今年。間もなく冬がやってきそうな。東京の暮れの到来を告げる年中行事の第1弾は、酉の市。今年は二の酉までで、11月11日と23日。

 鷲神社(台東区千束)では、縁起物の熊手を高々と並べるための足場組みがだいぶ進んでいる。

 お酉様と前後して、隣町の竜泉にも暮れ間近を告げる風物詩がある。一葉記念館が、11月21日から3日間、無料公開になる一葉祭。23日が作家・樋口一葉の没した日である。

 晩年の一時期、一葉はこの街で駄菓子荒物の店を営んだ。貧窮にあえぎ、不治の病いは進行する。1年足らずの短い期間だったが、名作『たけくらべ』の構想がここで生まれたという。

 記念館のある界隈は、かつて職人の街であった。指物、畳、金属加工、さまざまの職種の人々が、戸口を路地へ開け放ち、手仕事に明け暮れた。

 後藤公信さん(57)は、いまも残る数少ない地元職人のひとり。仕事は木工挽き物。動力で木材を回転させながら手元で刃物を駆使し、成型したり穴をあけたり。電気スタンドも、ビリアードのキューも、地球儀も。都内に他にふたりだけの希少技術である。

 祖父の代からの三代目。父までは野球バットづくりがほとんど。王貞治監督の選手時代、バットをつくったのは、ここから出た職人という。やがて大手企業が参入しバットを量産しはじめ、競争に負ける。新商品をつくりだす。するとまた……。この繰り返し。

 それでも、携わっている人がいない仕事をやれる。これが職人のいちばんの楽しみ。刃物づくりには、ものづくりより神経を使う。30丁あまりの全部を自分でつくる。仕事場では弟と一緒だが、「弟製」の道具でも「手癖がちがうから」直してから使う。

 地元の中学の同級生と結婚した。仲人を務めたのは、「親戚同様の付合いだった」近所の畳屋のおじさん。この人、じつは街の一葉研究家で、上島金太郎さん(故人)という。

 一葉のこととなると夢中。故紙を束ねたメモ帳を手にどこへでも取材に出かけていく。町内の銭湯に浸かりながら『たけくらべ』の一節を暗唱したり、畳の表替えを頼みにきた人にも一葉を語ってやまなかった。とうとう、一葉研究の本を出したほど。

 一葉記念館2階に、一葉が住んだ長屋の小模型が展示されている。この原作者は上島さん。畳職人は近所の大学生の協力を得て間取り図を描き、同じく地元の指物職人に製作を依頼したのである。

 上島さんは70歳でこの世を去り、残された妻は90歳を過ぎて生きた。一昨年、その居宅が火事になった。すぐ近くの後藤さんはかけつけ、家のなかにまだ老女がいると知らされた。しかし、もはや手の施しようがなかった。

 一葉の街も変わる。3年前、一葉の肖像が堂々五千円札に。この一大事に後押しされ、昨年、記念館の建物が改築された。

 そこからは200メートルも離れていない後藤さんだが、改築後には、まだ一度も足を踏み入れていない。「久し振りに、上島さんに会いにいこうか」(2007.10.25)

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 銀杏返しを結える美容師が、いまもいるかどうか。50代の間に髪を長く伸ばし、地毛で日本髪を結いたい。作家の領家高子さん(51)の、大いなる野望である。

 隅田川の川べり間近、向島の花街に生まれて育った。母は、芸者置屋の主人。年の離れた姉ふたりとも、半玉から出て芸者になった。40歳過ぎて生まれた末の娘、領家さんを、母は溺愛した。幸せに包まれた子ども時代。

 関東大震災の翌年に建った、木造しもた家の自宅裏で、夏の夕暮れ、たらいに水を張り行水を使った。桜の季節には、朝、窓をいっぱいに開くと、桜の花びらが舞い込んで、味噌汁に浮かぶことも。

 二十数年前、花街の真上を、首都高速道路が通るように。走行音が頭上から降る。街を行くクルマからも、大音量のスピーカー音がまきちらされる。街の気分は大変化した。

 「前の戦争でチョッキン、その後少しずつチョキチョキチョキ、バブルでまた大きくチョッキン」

 どんどん刈り込まれ、整形されて、細やかな情感が消えていく。しかし、ここが故郷の領家さんは、失われたものを懐かしみつつ、新たな情念の世界を、見出そうとする。

 現代の芸者と、その心の世界を描いた三部作のひとつ『墨堤』(講談社刊)。

 ヒロインの芸者・芳恵は30歳年上の男に愛され、1年もせずに身ごもる。目立ちだしたお腹。朝早く、桜並木のつづく隅田川べりを歩く。堤防の上に坐っている、黒い肌の男に、ふと目を引かれる。脚の間に真鍮色のトランペット。

 「彼は静かな様子で腰を下ろしている。それなのに、一瞬のうちに堤防の上に直立しそうな緊張感も同時に漂わせている。黒人男性の様子があまりに鮮やかで生々しいので、芳恵の目が吸い寄せられる」

 芳恵は、しげしげと眺める自分に気づき、はっとし慌てて目をそらす。「はしたない」と思う。やがて、背中に黒い男の吹き鳴らすトランペットの音が。狂おしく突拍子なく……。

 古い街を舞台に、時代の感性が立ち上がってくる。最近『美容院ベビーフェイス物語』(駒草出版刊)を上梓した。この連作集で領家さん、同じ向島をバックに、いまどきの「かっこいい」男と女を描く。

 舞台は、花街の一角にある、椅子がふたつ、35歳の女性美容師、千夏ひとりだけの、小さな美容室。そこを、いまの東京を映す男女が通り過ぎていく。

 「銀杏返しの結える髪結いさんが、この町にいるって聞いてきたの」と入ってきたのは、年齢不詳の幾子。女子校の社会科の教師である。それから3年が過ぎた。千夏は鏡のなかの幾子が「ぞっとするほど、歳をとっている」のに気づいて驚く。歳下の恋人に連絡を断たれたのである。やがて妊娠が判明する。

 幾子の話を千夏が代わりに。「一人で育てますって。生活は何とでもなるし、今どき戸籍の問題なんて、人生ややこしくするだけだからいいんですと。家族みんながそれこそ、おおヤッタァーって、……」

 「この小説を読んで、日本髪のできる美容師さんが出てくればいい」とは、作者の弁である。(2006.11.1.)

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 仕事は、縁結び。人と人を結びつける。縁起のいいオフィスを見つけられてよかった。神社の境内に立ち上がる、25階の高層ビルの7階である。

 窓から見下ろすと真下に赤い鳥居。頭を垂れてお参りする人の姿も。ここは都心の一等地。地下鉄の駅直近。大通り沿いの一等地。とどめに、代表電話の番号を、4150(良いご縁)にしてしまう。

 この会社「ベンチャーエントリー」(港区虎ノ門)の業務は人材バンクである。30歳から45歳のビジネスマンを幹部候補として求人企業に紹介、斡旋する。希望者に、社まで「お運びいただく」のが先決。これ以上来やすい場所も少ない。

 社長の辻口寛一さん(42)は、26歳のとき、大手証券グループが人材紹介の子会社を立ち上げる際に参加。推薦したい人材と企業の経営者、双方の顔を浮かべながら、組み合わせをパズルみたいに考え、引き合わせる。この仕事が、当初から大好き。

 一生懸命に好きな仕事をした結果、この子会社のトップになった。すると、周囲が予想もしなかった行動に出た。系列グループに対してMBO(経営陣による会社買収)を仕掛けたのである。つまり、グループ本社が保有する全株を、辻口さんが買い取って系列から離れ、独立企業になろうとした。

 大方の予想を裏切って、これに成功し、晴れてオーナー社長に。7年前、まだ35歳の「若造」である。これで、だれにも束縛されず、大好きな仕事に思いきり手腕を振るえる。

 日本橋茅場町の21坪のオフィス、そこがスタート。数年は2、3人の社員でこじんまりとやっていくつもりでいた。ところが、1年後には京橋に移って40坪に。さらに「あんたの出世払い」と言ってくれる家主の好意で68坪にと、業務はトントン拍子の勢い。

 遂に現在の「神社ビル」へ進出したのは昨年の暮れ。113坪。飛躍的に広くなった。社員の数も、30人に増えた。

 少しは社長らしいことをしようと決心して、ベンツを買ったのが2年前。「かみさんに言いつかって、安売りのティッシュをまとめ買いしに出かけるのも、このベンツでなんだけど」

 辻口さんは、はじめから独立志向だったわけではない。しかし、いまの自分は「ウェルカム」だと思える。それでいい。

 平成元年の大卒組。「楽しそうな仕事」と思って旅行代理店に就職した。見込み違いに気づき、1年後にやめてしまう。仕事人生の、それがはじまり。

 遠くを見据えてひたすらがんばり抜くという日本人の美学が変わりはじめていた時期であった。代わって、世の中は動き、価値観は変わるんだという自覚が生まれていた。

 「先は見えない。それでいいんだ。だから、いまやってみたいことを見つけて一生懸命やる。するとなにかが見えてくる。視野が拡がる。そうしたら次に進めばいい。ぼくはそうしてきた。それでも、振り返れば、それなりにスリルのある人生になっている」

 社長になれば、後継者の問題がつきものだが。「ぼくがしたように、MBOして会社を買い取ろうという社員が出てくれたらいい」(2007.11.8.)
[2007.11.9.]

読売新聞都内版・木曜日「枝川公一の東京ストーリー」連載中!


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