★山口、島根、見果てぬ夢の鉄道を探しに  

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中途半端に生きつづける錦川清流線■

 岩国に着いたのは、昼少し前であった。瀬戸内海に流れ込む錦川の河口近くに掛かる錦帯橋が、半世紀ぶりの掛け替え工事中で、その作業を見られるとのことであった。しかし、30 分後には、一両きりのディーゼル車が発車する。そこで、300 年不落を誇ったという名橋には、失礼させていただくことにした。

 一番ホームの先っぽのほうに、ちょこんとたたずんでいる、大きな鮎のイラスト付きの緑の車体。この小さな車両を運んでくねくねと山のなかへ分け入る鉄道は、錦川の川筋を遡る。名づけて錦川清流線と言う。しかし、その線路は、中国山地の分水嶺のわずか手前で、唐突に断絶しているのである。

 終着駅は錦町という。不意に終わってしまう、その先はいったいどうなっているのか。

 かつて国鉄は、中国山地を抜け、山陽と山陰を結ぶ陰陽連絡鉄道の計画をいくつか持っていた。そのなかに、岩国(山口県)と日本海に近い日原(島根県)を結ぶ、名づけて岩日線もあった。大正時代に構想され、昭和 29 年になって着工し、9 年後に、途中の錦町(山口県)まで開通した。

 さらに北へ路盤を築き、トンネルを掘り抜く工事がつづけられたけれど、55 年、国鉄再建法によって中断された。その後、再開されることは遂になかった。さらに、国鉄分割民営化の過程で、第三セクターになった錦川鉄道が、開通済みの岩日線を引き継いで現在に至る。

 全国に散在する、見果てぬ夢の鉄道、完成させても採算がとれないのが目に見えているからやめてしまつた「未成線」のひとつとして、この 32.7 キロは、中途半端に生きながらえているのである。

 もし成長をとめられず、全通にまでこぎつけたら、なにが出現していたか。終着点からつづく幻の線路を尋ね、夢の残滓を拾い集める旅になった。

「代用列車」、町営バス、癒しの旅はつづく■

 終点の錦町駅の白い駅舎を出ると、まっすぐに伸びている道路の両側に、商店街がつづいている。錦町は、町ぐるみの博物館事業に取り組んでいる。この通りの両側にも、店舗の一角を利用して、ミニ・ミュージアムがいくつも開設されている。

 ホタル博士の異名をとる床屋さんの「ホタルとおさかな館」、時計屋さんの店主の奥さんの、そのまた妹さんが陶芸家というところから「焼物博物館」、地元のカメラマンの展示ギャラリーなど、多士済々。

 楽しげな展示物をめぐりながら、通りを歩いていて目についたのが、柱に打ちつけた「岩日線利用協力の店」と記した、細長い板の表示板である。文字は薄くなって、もうしばらくすると判読できなくなるにちがいない。

 この「未成線」は、国鉄時代から赤字に悩み、一時は廃線寸前まで行った。町民の存続運動が実を結んで第三セクターにこぎつけたのだが、この古い表示は、その名残りなのであろう。

 ただし、錦川清流線になってからも、利用客は減りつづけた。この趨勢を押しとどめようと、錦町駅の先へ「代用列車」を走らせるというアイディアが出された。線路はないけれど、かなり路盤ができあがりトンネルも掘り抜いたまま放置されているので、ここに、遊園地にあるような「トレイン」を、コトコトと運行しようというのである。

 こうして、平成 14 年の夏に、LP ガスで走る「トロッコ遊覧車」がお目見えした。これが観光客の人気を集め、おかげで清流線の乗客数がはじめて上向いたという。

 小さなミュージアムを巡った後に、駅舎の手前から、坂を上っていくと、そこにもうひとつの錦町駅がある。かわいい二両編成が待機している。無蓋で、屋根の代わりに透明のビニールシートが張り渡してある。これが「代用列車」である。

 大喜びの子どもたちの歓声を乗せて発車した「トロッコ」は、たちまちトンネルに吸い込まれる。洞窟のなか同様なわけだから、真夏は涼しく気持ちがいいにちがいないが、いまは 11 月。寒いくらいである。

 やがて闇のなかで光り輝く壁画が現れる。アート専攻の短大生や地元の子どもたちの作品だという。トロッコは一時停車。人工の蛍光石が、紫外線に反応して発色するらしい。

 隣席のおやじさん、トンネルの床に散らばる「光る石」を拾い集めてきたけれど、掌の上では、ただの白っぽい石になってしまう。「みなさん、お宅では光りませんよ」という、ガイドの忠告を聞いていなかったらしい。

 時速 7 キロの遊覧車が、コウモリも飛び交うトンネルを出るとき、一瞬、山あいを走る列車のなかにいるみたいに錯覚する。

 まもなく終点の雙津峡温泉である。400 円で一風呂浴びさせてもらい、今度は、町営バスに乗り換えて、錦町の街なかに戻っていく。身体はホカホカ、車内はガラガラ。気分はこの上ない。右手に、岩日線が通るはずだった高架の残がいが、山肌に張り付いているのが見える。

 「鉄道とバスを乗り継いで癒しができるのですから、このあたりは素敵でしょ」という、錦川鉄道の関係者が言っていたが、その通りである。

廃寺墓地の下に、無用のトンネル■

 翌朝 7 時前、一泊した「小川荘」では、熱い味噌汁としっかりした黄身の生卵の朝食が用意されていた。出がけに見ると、宿の女将が、竹箒で外回りの掃き掃除に余念がない。バスは、都合よく、宿のすぐ前から出る。車内で発車を待っていると、車外から女将の声あり。「お客さん、このミカン食べながらいきなさい」と、窓からビニール袋入りが押し込まれる。「ありがとうございます」

 町営バスは、国道 187 号線を上っていく。出発時には、深い霧に包まれていたのに、明るい日が射しはじめる。分水嶺を過ぎて島根に下っていく。山陽の終わり、山陰のはじまりである。とたんに道路状態が良くなった。車体の揺れがずっと少ない。島根県出身の有力政治家の「功績」なのであろう。

 行き先は、島根側の最初の町、六日市である。岩日線の工事は、この町まで進んでいたという。バスの運転手さんにたしかめて、工事の最終地点の近くで下ろしてもらった。

 道路際に、六日市出身の彫刻家・澄川喜一氏による石のモニュメント「およりんさんせ」が、空に突き上げている。しかし、あたりには、夢の終わりを思わせるものはなにも見えない。

 そこでさらに、公園木として知られるコウヤマキの天然林のある山側までたどっていく。中国自動車道と交錯するようにしてある、鉄道の路盤跡を発見したときは、快哉を叫んだものである。すでに雑草に覆われているけれど、「道筋」をはっきり確認できた。

 さらに、山際にトンネルの開口部を見つけた。その真上は、林を切り開いて、興運寺という寺の墓地になっているが、寺そのものはもうないと記した立て札がある。廃寺墓地下の無用のトンネル。鉄道の幻を追いかけてきた者にとって、感慨深い結末であった。

 ここまで連れてきてくれた地元タクシーの運転手さんは、「私らも、ここまで来たことはない。こんなところとは知らなかった」と、しきりに頭を振った。

 この人との話から、六日市には、高津川の水源があるのを知った。高津川は、流域にひとつもダムがなく、中国地方でもっとも水質のいい河川として名高い。その流れは、岩日線のルートになるはずだった日原を抜け、その先の益田平野へ流れ入っているのである。ここはまた、錦川の支流のひとつも発している、文字通りの「水源の町」である。

 町の東の外れに水源公園があるというので、足を延ばした。雨乞い祭りもここで行われるのだそうで、近隣の水信仰の原点になっているにちがいない。根回り 5 メートルという杉の大木も見事であった。

 岩日線が実現していれば、中国山地を挟んで、山陽側で錦川、山陰では高津川、ふたつの清流を傍らにしつつ「陰陽」を走り抜けられたであろう。杉の木の傍ら、季節外れの菖蒲園を見下ろしながら、そのことを思った。

 実際、六日市交通のバスで行く、日原までの一時間弱、そのほとんどが高津川沿いを走った。車中で、宿の女将からいただいたミカンを食べた。

「ぼんやりした記憶しかありません」■

 日原町では、役場に立ち寄った。岩日線は、この町のなかの、どこをどう通ることになっていたのか、その正確なルートを知りたいと思ったからであった。

 年配の職員は、「私たちぐらいの年でも、ああそういう話もあったなというぐらいの、ぼんやりした記憶しかありませんね」と、いかにも申し訳ないという表情になった。

 なんの実体もなく、鉄道の計画だけが語られたにすぎない日原に、その記憶が少しでも残っているのを期待はできないであろう。

 標高 255 メートルの山頂近くに位置する「日原天文台」(一般公開されているものとしては日本でも最大級の天体望遠鏡がある) から、高津川を見下ろした。川に沿う街は、江戸時代、石見銀山の代官に支配される天領であった、という。ひっそりと静かな街道の町である。

 鉄道線路の幻影に突き動かされて、たどりたどり、いつの間にか日本海も間近の地点に行き着いていた。真新しい木造りの駅舎でうつらうつらしている間に、山口線の列車を取り逃がし、慌てる。次の列車にするとして、益田駅で降りたら、タクシーで石見空港まで行かないことには、今日中に東京に戻れそうにない。ヤバイよ。

(雑誌『旅』の、JTB 発行としては最終号になる 2004 年 1 月号掲載原稿に加筆した。)
2003.12.26.]


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