★東海道線「偽阿房列車」の旅 ![]()
ホテル・ロビーに拉致されて■
旧知の編集者にタージマハールさんという名の人物がいる。先日、電話があった。久しぶりに酒を飲もうと、なんだか有無を言わせない調子で、東京ステーションホテルのバー「カメリア」を指定してきた。なんであれ、ともかくもお酒の誘いだったら断る理由はまるでないわけで、いそいそ出かけていくと、見知らぬ若い男が一緒で、後輩の印度カレーくんだと紹介された。
ぼくは初対面の人とお酒を飲むのはどうも苦手だけれど、これも成り行きで仕方がない。腰を下ろして、さっそくマーティニを注文する。なにも飲んでいないときに、「とりあえずビール」などと言わないで、まっさきにマーティニ、これがいいのである。ジンが、無垢なお腹にすっと通る。
すると、唐突に「百
もジンが好きだったらしい」と、タージさんがひとりごちた。
「それがどうかしたの?」
「いや別になんでもない。ところで、明日は暇なんだよね」
電話をしてきたときも、翌日のスケジュールをしつこく問いただしたのを思い出した。ぼくのような物書きは、いわば潜在失業者だから、暇なときはもうあくびがとまらないくらい暇だと、答えた憶えもある。
「電話で言ったじゃないか、あくびが種切れになるほど暇だって」
ここで、タージさんがぎごちなく目配せをし、これを合図として、若い印度くんは、いま買ってきたかと疑う、真っ黒ピカピカのバッグから、コピーした紙を数枚取り出す。そして青年は、「これ、昭和二十五年十月の時刻表なんですけど」と、明治も昭和も区別がつかない、頼りのない口調で言った。
そうか、そうか、わかったぞ。ぼくは、鉄道マニアでもなんでもないけれど、百
の「阿房列車シリーズ」なら暗記するほど読んでいる。その冒頭の一編「特別阿房列車」は、東京・大阪間の汽車旅をテーマに、まさに二十五年十月に執筆されたものである。しかも、ここステーションホテルは、先生お気に入りの宿であり、この酒場もまた、であってみれば、これまでの経緯のすべてから、もう明白以外のなにものでもない。
「ぼくに、明日、東海道線に乗って、百
先生ごっこをしろってわけね」
「なんだ、案外わかりが早いじゃないか」
タージさんはすましかえっている。その隣でどこを見ているのかはっきりしない目をしている、この青年、印度カレーくんこそ、つねに百
と共に旅したヒマラヤ山系氏が、半世紀を隔てていまにタイムスリップした姿だったのである。ああ!
こうなると、ふたりの動きは急に慌ただしくなって、たちまちホテル・ロビーにぼくを拉致すると、宿泊手続きを強要し、三階の「百
が愛した」部屋に放り込んで、さっさと去っていった。はかられた、とは思うけれど、東京から大阪まで、ただ行って帰ってくるだけの旅ができるわけで、山ほどある暇をつぶすにはこれ以上の策は見当たらないとも言えそうである。
後できいたところによると、大阪までの普通料金は八千五百十円とかで、マクドナルドで朝から夕方までバイトしてもらったお金でだいたい足りるぐらいだろう。印度くんにそれを言ったら、「これだけ長い時間乗れて、この値段ですから幸せですよね。新幹線は、あんなに短い時間で着いてしまって、どうして高いんですかね」と、これはもう卓見としか言いようのない感想を、例のぼんやりした様子で漏らしたものであった。
大阪までの直通列車は、いまでは存在しないわけだから、乗り継ぎをしながらで、待ち合わせの時間を除くと、じつに八時間七分も、ぼくたちは走る列車の客として過ごすことができるそうである。
もちろん、こういう時間の計算とか、スケジューリングとかは、ぼくにはとてもできない。これまで時刻表も持たず、来た列車に後先考えずに乗ってしまう旅ばかりしてきているのだから。ここは印度くんの独壇場である。なにしろこの青年は、乳母車に乗せられて、毎日踏切まで連れられていったという、「鉄道遺伝子」がDNAに紛れ込んでいるのではないかと疑いたくなる赤ん坊時代を過ごし、さらには、鉄道少年として「チャレンジ 2 万キロ」の壁を越えてきているという。
印度くん、百
の旅程をよくよく研究したらしい。
「特別阿房列車」の先生は、お昼の十二時三十分に東京を出る特別急行「はと」に乗り、午後八時半に大阪に着いている。ちょうど八時間である。はじめは、そのまま引き返してくるつもりだったようだが、百
の気持ちのなかでいろいろ紆余曲折があり、結局は大阪市内で一泊して、翌日の同じく十二時半、今度は大阪発の「銀河」で、「お天気のいい」東海道を戻ってきている。
ぼくたちのスケジュールはというと、百
とほとんど同じ時間をかけて、東海道線を大阪までたどったら、ただちに「のぞみ」で戻ってくるということになっていた。
用事がない境涯を味わうことこそ、旅の極致であって、東京に帰らなくてはいけないという用事ができた途端に「冗談の旅行」に終止符を打ち、とるものもとりあえず本気で帰還する。これが、先生の旅の哲学であった。
そこで、早朝出立、その晩帰京という、きわめてとぎすまされた「偽阿房列車」を、印度くんは仕立てたわけである。
「ホエア・イズ・マウント・フジ?」■
翌朝、ぼくが、命じられたとおり七時四十五分に八時三分発東海道線沼津行きのホームに上がっていくと、青年は朝日を思いきり浴びながら、通勤客の行き交う間に、急流に危うく耐える石ころのごとく突っ立っている。
青年よ、大志を抱け、だ。なんだかわかんないこと言っているけど。
車中の人となったぼくたちは、電車が横浜を過ぎたのを見計らって、意味のない旅を意味深い朝食からはじめることとなった。東京駅のホームでしつらえたブルーベリー・マフィンと、クロワッサンと、ストローがうまく突き刺さらない紙パックの小岩井牛乳と、爽やかに晴れた朝に泣きたくなるくらいピッタリのコンビネーションではないか。
しかし、この食事に満ち足りたぼくが、この後、長く夢の世界へ行ってしまうとは、印度くん、ツユ予想しなかったであろう。国府津で「やっと海が見えてきましたね」という、青年の声が聞こえたような気がするが、眠りつづけて、目覚めれば函南である。
もうすぐ終点じゃないか。はやいね。
沼津発十時三十九分浜松行きに乗り換える。
「丹那トンネルはどうしたんだい」
「どうしたって、寝てたじゃないですか」
「そうかね。もう東田子浦に着いたよ。富士山はどうしたんだい」
「どうしたって?」
「田子の浦に打出てみれば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ」
「新古今ですね。万葉集では、田子の浦ゆ打出てみれば真白にぞ…ですけど」
「古文の勉強かね、いまさら。ホエア・イズ・マウント・フジ?」
「富士山どこにもいませんね」
「どっかへ出かけたわけでもないだろ」
「晴れているのに見えない。変ですね」
印度くんに付き合っていると、眠気が増すばかりである。ぼくが次ぎに目覚めたのは、天竜川であった。まるでデイタイム・スリーピング・カーで移動している趣きで、今度から都内で眠くなったら東海道線に乗ってしまうのがいいと思うけれど、困るのは、着いた先から帰ってこなくてはいけないことであって、百
の悩みもここにあったのだと、夢うつつの境で実感したわけである。
じつは、夕べというのか今朝というのか、放り込まれたホテルの部屋で、ぼくは四時に目覚めてしまった。所在がなくて、テレビのスイッチを入れると、「武蔵野の自然」という番組をやっていて、雑木林にヒヨドリやホオジロが飛んだり、オオタカが子育てしていたりしている。おもしろくなり、色は真っ赤で背もたれが右上がりにカーヴを描くソファに腰掛けて、画面を眺めているうちに、カーテンが明るくなってしまった。
それで寝不足なんだと言ってみてもはじまらないから、黙って眠りつづけるだけである。百
は山系氏に向かって自慢したことがある。「僕は学生時代から、度度東海道線を往復したので、汽車の中で居睡りをしていて、どこで目ざめても、目がさめた途端に見えた窓の外の景色で、ここは何処の辺りだと云う事が解る。そこに見える川の工合や、田圃の景色、向うの山の姿などに見覚えがあるのだね」」
もっともぼくには、睡幕を隔ててぼんやりつづく風景のどれがどれやら、さっぱりカンである。浜松に到着して、二度目の乗り換えは、十二時四十五分の米原行きだが、いい具合にお昼の時間になっていた。浜松だから鰻弁当に買おうじゃないかということになったはずなのに、米原行きの座席に向かい合って食べる段になってみると、印度くんのほうは、のり巻きとお稲荷さんのセットにしていたことが判明する。
「鰻きらいなわけ?」
「いえ、そんなこともないですけど」
「海苔と油揚げのほうが好きなんだ」
「そうでもありませんね」
これだから、まるで要領を得ないけれど、だれが何をどう食べようと、「もの食う人々」じゃないんだからどうでもいいわけである。
ぼくにはよくよく考えなくてはいけないことが他にあり、それは手元の「うなぎ飯」の紙カバーに記している、製造元・自笑亭なるネーミングについてである。自笑の意味は、自ずから笑みがこぼれるほどおいしいというのか、自分を笑いたくなるくらいもりもり食べてしまうか、それとも、自(おの)が笑顔に惚れ込んだ店主の自慢を表しているのかと、思いめぐらした。わからずじまいであった。
缶ビールまでいただいたから、ほんとうだったら、頃合はよし、午睡に入って当然なのだが、きょうはさすがに午前中いっぱいうつらうつらして、文字どおりの食っちゃ寝状態だったので、眠気が払底しつくしてしまったようである。
お日様が、出来損ないで散らかってしまった目玉焼きみたいに、雲に取り囲まれていて、それが出てきたり隠れたりするたびにブラインドを上げ下げしなくてはいけない。それくらいに陽射しが強い。電車の走行音がシコタマ、シコタマと囁くように聞こえてくる。窓の外には、凪の海さながらに稲穂が寝そべって、はるかに雲の峰が浮かぶ。
大垣を過ぎたころには、頭がきょう初めてはっきりしてきた。脳の神経節に冷たい水をまかれたようである。元鉄道少年はと見れば、走る「列車」に自分を同化させてしまったみたいに、座席に平べったくはりついている。
関ヶ原を過ぎて、山中に分け入っていくときは、きょうはじめて山に近づいたみたいな気がする。線路の際に、猫の額ほどの田圃があって、そのすぐ向こうから樹木の群れが斜面をのぼっているシーンがよくあるけれど、こんなところの田圃までいったいだれがやってきて作業をするのかという気がする。人の姿はまるっきりないのである。
米原が近づくころに気がついたのだけれど、風景に蝟集感があるいうのか、木々も、雲も、鳥も、山裾に二つ三つと傾いである墓石も、自然のなかの材料のすべてが力を合わせて、眼前のトータル・デザインをまとめあげようと努めている。結集しようとする力みたいなものが迫ってくる。ぱらぱらとばらけて、、ゆうべのご飯みたいな太平洋の景色とは、この辺りはずいぶんちがうと、いまさら頭を全力運転しながら、考えるわけである。
もう何年にもわたって何度も何度も、新幹線で、この同じ道筋を通っているはずだけれど、こんな感想は、はじめて抱いた。
百
が汽車旅を楽しんだころの、これが車窓風景かと思う。鉄道が高速になるにつれて、ぼくたちは風景を感じとる能力を奪われていくのかもしれない。新幹線だらけの日本列島になって、いったいなんのために列車の旅をしているのだろうと、そういうことがわからなくなる。
沈思し黙考する哲人・百
になりすましたおかげで、米原までの三時間弱は割合に早く経っていき、最後の乗り換えということになった。十五時四十九分大阪行きで、米原を出ると、車外はすぐに平野になるから、広々と落ち着くけれど、車内は、学生生徒諸君の下校時間にあたるため、急にざわめきはじめる。
草津に着くと、駅前に高層のマンションが立ち上がっている。珍しいものを見るような気がしたけれど、関西都市圏に入った証拠なのであろう。車内に通勤客が混じってきて、車体だけが目にもとまらぬすばやさで横須賀線か総武線にすりかわったのじゃないかしらんと、ぼくは、足元がおぼつかないような気分になった。
大阪市内に入る午後五時頃に、窓の外の正面に沈んでいく夕陽は赤々として、雲を横っぱらから照らすので、照らされたほうの雲はその厚みを暴露されてしまう。お日様の隣りに、CDのディスクみたいなピカピカした円盤が並んでいるのは、光の加減で、二重に見えているだけなのであろうか。
日本一周豪華鈍行列車に乗りたい■
大阪駅に到着したのは午後五時十四分だが、印度くんは、五時五十四分新大阪発の「のぞみ」で帰郷という、破天荒なスケジュールを組み上げていた。したがって、大阪になど、ぐずぐずのんびりしているわけにはいかない。到着二分後にはもう、ぼくたちは、大阪駅八番線ホームで、新大阪へ向かう電車を待っていた。向かいのホームに、午後五時四十七分発函館行きブルートレイン「日本海」が、だらしなく停車しているのが見える。
「あれに乗ったら、いつ函館に着くの?」
「明日の午前十一時二十分です」
「乗りたいね」
「そうですね。日本一周豪華鈍行列車なんてあったらいいですね」
「ほんと。どこからでも乗れる。どこでも降りれる。それはそうと、ここほんとに大阪かい」
「どこだっていいじゃないですか。街へ出てくわけじゃないんですから」
「そりゃ、そうだ。日本全国、駅は駅、他のなにものでもありえない、と」
新大阪駅の構内で、この日三度目の食事として、生ビールとともにきつねうどんをすすりこんだのが、大阪へ行ったのか、来たのかわからないけれど、そこに身を置いたことの唯一のシルシのようなものである。お揚げの甘みが、注射器に逆流してくる血液みたいに、口のなかに滲み出す。
「きつねに生とは、オツですね」
なにがオツだよ、この青年が。帰りは、行きとちがって真剣な旅だから、弾丸列車もかくやという速さで午後八時二十四分には東京駅に戻ってきた。いやになってしまう。
★
(『旅』誌掲載原稿に加筆)
(2002.7.10.)