★「世界へいちばん近い駅」で、束の間安らぐ

 午前 7 時ちょうどに出発する成田エクスプレスに乗るつもりで、急いで東京駅にかけつけた。ところが満席である。仕方がない。十五分遅れの 7 時 15 分発になった。

 きょうはミュンヘン行きである。搭乗するまでにはたっぷり時間がある。愚図の慌て者だから、早く行かないと気が済まないのである。それに、気短な性格はいくつになっても変わらないものらしい。グズグズしている自分が気に入らなくて、さらに慌てる。性格と「身のこなし」の乖離していることはなはだしいから、ますます苛立つ。そんな自己分析をしてもなんの役にも立たない。それはわかっている。

 以前は、成田空港へ行くというと、箱崎からエアポート・バスを利用するのがきまりだったけれど、このごろは成田エクスプレスが多くなっている。

 真っ直ぐグングン走る爽快感は、鉄道のほうが一枚も二枚も上手である。途中停車もほとんどない。車外の景色は開けている。気持ちがいい。

 きょうもウロコのような白い雲が棚引いて、朝の陽射しが、それに反射するのを眺めていると、そのまま眠ってしまいそうになった。

 まず空港第 2 ビル駅で乗客の半分ぐらいが降りていき、発車するとすぐに終点の成田空港駅ということになる。

 短気なぼくにしては珍しいことだが、ホームに降りて、すぐに改札口に向かうことはまずない。ホームのベンチに座って、しばしの時間を過ごす。こうして、気持ちの切り替えをするのが慣わしみたいになっている。

 正確に言うと、腰を下ろすのはベンチではなくて、ひとり座りで、軽いクッションの利いた、渋いグリーンの椅子である。これが数個並んでいる。座って目を落とすと、床も同色であることに気づく。傍らには、緑の植栽を配して、色使いを統一しているのである。

 天井からは、ピンポイント風の明かりが柔らかに降りそそいで、日本の駅としては珍しい演出がされている。

 これから片づけなくてはいけない、さまざまな雑事。チェックイン、セキュリティ・チェック、パスポート審査、搭乗までの時間待ち、それらを前にして、気分を整える場所が、ぼくにとっては、この駅のホームである。しばしのあいだ、安らぐ。

 これから海外へ出かけていこうとしている日本人でさえ、このようにホッとするのだから、初めて日本にやってくる外国人客は、この空間に、ずいぶん心を癒されるのではないか。

 いま向かおうとしている、未知の巨大都市、東京への期待や不安を抱え込んでいる人々に、自分を擬してみると、この場の平安がかけがえのないものに思えるのである。

 向かい側のホームに目をやると、同じスタイルの椅子が、色違いのレンガ色で並んでいる。赤毛の女の子が小さな手を振っている。振り返す。ぼくたちの間に電車が入ってきて、彼女は、視界から消えてしまった。

 椅子から立ち上がって、出口へ向かいかけながら、ふと見ると、路線図と時刻表が合体したボードがある。片側は英語表示になっている。海外で日本語のサインに出合ったときのことが思い出される。日常の言語が英語の人々には、砂漠でオアシス、ほっとする装置であるにちがいない。

 改札口を出ながら、思った。そうだ、記念スタンプを押してもらおうと。こんなことを考えたのは、はじめてである。カウンターのおにいちゃんは、やんちゃな顔つきで、腰が引ける。それでも勇気を出して、訊いてみる。「あの、スタンプとか押したいんですが」

 この駅員さん、顔に似あわない気軽な調子で「あいよ」とばかり、すぐにパッドを取り出す。自分でていねいにインクをつけると、スタンプを、それも二種類も、こちらの差し出したノートに押してくれたのである。ありがとう!

 どちらのスタンプも、飛行機が電車の上を飛翔していく絵柄だが、遠近とアングルとをちがえてある。イラストを巻くようにして、「世界へ一番近い駅」というコピーを配してある。

 スタンプを眺めながら、「あっちの駅はどうなっているのか」と気になりだす。手前の空港第 2 ビル駅のほうのスタンプは、どんな絵柄、どんなコピーなのか。

 気になるとそのまま放っておくわけにはいかなくなる。時間はあるし、隣駅まではすぐだし、行ってみることにしよう。というわけで、空港内の巡回バスで戻ってみた。ところがスタンプはない、と。がっかり。同じ羽田空港内なのだから、それはそうかもしれないが、残念な気がした。

 おかげで駅をすっかり堪能した。それにしても、これから 10 日間、あっちこっちと回ることになっている旅の始まりに、こんなことをして遊んでいていいものであろうか。

[2004.2.23.]


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