|
★日本縦断・45時間01分の汽車旅──稚内から西鹿児島まで
なぜこんな旅に出たのか?■
汽車にはたびたび乗るけれど、汽車旅に出るのは、ほんとうに久し振りである。だいたい、この前いつ寝台車に乗ったのか、にわかには思い出せなかった。十数年前に、山陰から広島にでて、友人に会おうとしたことがあった。相手を驚かすつもりで、何も告げずに訪ねたら、つい、二、三日前に転勤になっていたことがあった。仕方なくそのまま東京へ戻るときに乗った山陽本線の寝台車が最後のはずである。
急行寝台の「利尻」が、稚内の駅を出発する。久し振りの寝台車が、西鹿児島駅まで、足かけ三日の日本縦断汽車旅のスタートであった。
さっきまで、ホームで手を振っていた、人の良さそうなおじさんとおばさんの顔が消えて、黒々とした窓には、グレイのスウェット・シャツの上に皮ジャンをはおった、長い髪の女性の横顔が映し出されている。窓の下の椅子に腰をかけた彼女は、ライト・ブルーのデッキシューズの足を暖房の吹き出し口の上に載せて、キャビンに火を点ける。余計なことだけど、ライターの火が大きすぎる。煙は、窓ガラスを這いあがっていくみたいに、のろのろと立ちのぼる。
彼女のベッドは、ぼくの向かいである。ルイ・ヴィトン風のバッグと、雑誌「キャンキャン」が投げ出してある。手を振っていたのは、彼女の親たちであったか。
ともかく、隣人に声をかけるのが礼儀なのか、黙っていたほうがいいのか、その辺りからして、ぼくにはわからない。見知らぬオヤジにこんなところでなんか言われても、相手は困惑するであろうか。しかし、知らん顔をしているのも変だとも思う。
「どこまでですか」
このぐらい訊いておこう。
「札幌」
「学生さん?」
「ええ」
彼女はキャビンを口元から離さず、ぼくは所在なくて、ベッドをつくりはじめる。なぜこんな旅に出たのであろうか。午後10時を過ぎた。東京にいれば、家にいようと、酒場でもうろうとしていようと、街頭をほっっき歩いていようと、自分がそこに居ることになんの疑いも抱かずにいられるのに、ここには居場所がないような気がする。
JNR(日本国有鉄道)のロゴがプリントされたままのカーテンを引いてあお向けになれば、列車の振動にもてあそばれる身体が、まるで棒切れのような気がしてくる。
旅行をするときは、いつもぺーパーバックを一冊携えていく。寝るときに英語の文章を読みはじめると、すぐに眠りに落ちることができるからである。かっこうの睡眠薬になってくれる。今度も読みかけの『ザ・フルーツ・パレス』を持ってきていた。南米コロンビアのコカイン密輸をめぐるノンフィクションである。しかし、容易には眠れない。やっと睡魔が襲ってきたのは、ココナツの実を割ってラム酒を注ぎこみ、白いココナナツ・ミルクと混ぜて飲むチュパンド・エル・モノ(つまり、猿をすするの意)の描写にさしかかったところであった。
フルムーンのトマト■
札幌は、二条市場の上に日が昇りかけていた。「ほら、もうここで市場は終わりだよ、そっち行ってもなんにもないよ」と脅しにかかるお兄ちゃんが、毛がにを売ってはいる。札幌ラーメンの元祖という「だるま軒」の暖簾は、まだ出ていなかった。
地下鉄・大通り駅のホームで、スポーツ新聞をなかに、登校途中の女子高生3人が、ウワッウワッと笑いあっている。東京では見たことのない光景だと思う。
はじめて、フルムーン・カップルたちを、近々と見るチャンスに恵まれたのは、青函トンネルに向かう海峡線の車中であった。
男たちは、申し合わせたように、赤とグリーンのストライプのシャツとか、ループ・タイとか、黒白チェックのパンツとかばかり。そして、妻は「きれいだわね」と、夫の膝を叩きながら感極まって叫ぶけれど、夫たちは「うん」としか応じない。
妻たちが席を立ち、ゴミを手にして通路にあるくず入れに向かう後ろ姿を眺めていると、どうしても、台所のお母さんを思い出してしまう。
海峡線は比較的空いていた。ぼくの隣のボックスは、フルムーンのふたりだけが向かい合わせに座っている。夫は、風景がいっぱいに開けている間は、一心にのぞきこんでいた双眼鏡を、駅が近づいてはじめて、
「おい、見ろよ」
と、妻に手渡して促す。彼女は、迫ってくる家並の隙間から、絶景の残滓に向かって一心に目を凝らす。美しかったにちがいない若い日の面影を残す細面に浮かぶ、真剣な表情。双眼鏡を握りしめる手の指にはルビーの指輪。
いくつかのトンネルを過ぎて、列車は、海底へ下っていく。地下駅が近づいたというアナウンスに車内がざわめく。隣のふたりは、黙ってみかんを食べている。
地上に戻る。切れ切れの白い雲に、早い午後の陽光が射し、夫がつぶやく。
「あれが下北半島か。大きな船だな」
海が視界から消えると、彼は席を立つ。洗面所でトマトをふたつ洗ってきたらしく、そのひとつを妻に渡す。このとき初めてふたりは、並んで座った。それぞれの膝に白いタオル地のハンカチ。夫婦(ふたりはまちがいなく夫婦だと思う)は、同じようにかがみこみ、丸のままのトマトを口に運んでいる、
墓地の傍らの広場で、ほおかぶりをしてゲートボールをする老人たちが窓外に見えて、海峡8号は、青森駅に近づいた。
寝台車の父と娘■
「マネジメントが……」
「業績が……」
「営業方針は……」
といった会話が聞こえてきたのは、「はつかり20号」が青森駅を出て間もなくのことであった。首都圏は青森あたりからはじまるらしい。経済大国ニッポンの首都の鼓動が、はやくも聞こえるのだから。
津軽海峡の底を抜けてきたフルムーンの人々が、戦場を後にする老兵のようにひっそりと消え、この車内は、日本経済の現役の担い手たちばかりである。
鉄道の日本列島は、いびつである。札幌駅から盛岡駅までは、じつに9時間を近くを費やしたのに、盛岡駅を出発した「やまびこ20号」は、2時間半あまりで上野駅に着いてしまった。心臓に近づくほど血管は太くなり、血流は速度を増すということであろう。
東京駅ステーション・ホテルのレストラン「ばら」で、ふたりの知己が待っていた。タン・シチューにとグリ−ンサラダ、それにビールの夕食をしながら、これで旅が終わりになるのなら、神様、寿命の1年や2年ぐらいなら削ってくださってかまいませんと、そっとお願いしたものである。
しかし、神も仏もいないらしい。さあさ、列車に遅れるよ、はやくなさい、もうビールもそのくらいにしておいて、カティー・サークのポケット瓶とオイル・サーディンの缶詰を差し上げますから、後は車中で気の済むまでひとりで酒盛りをしなさいと、非情なふたりがせきたてる。
高松行き特急寝台「瀬戸」に押し込められる。窓からのぞけば、ふたりはホームに並んで、楽しそうにバンザイを三唱も四唱もしているではないか。いつかみてろよ、と復讐を誓った午後9時5分であった、東京滞留1時間25分。
稚内発と東京発とでは、同じ寝台車でも、こうもちがうものか。
出発前から、もう股引に浴衣の寝間着といういでたちになった、農協のおっさんたちが、ビールの大瓶をつらねて、宴会をはじめている。バリ、バンコク、台湾を股にかける、壮絶な猥談が飛び交う。上段のベッドで、頭を天井にこすりつけそうになりながら、ポケット瓶を抱えているぽくは、とても憂鬱。「利尻」の不愛想な女子学生が、ひたすら懐かしい。
ふたり連れが下段の寝台に入ってきた。かなりの年齢の老人で、その娘らしい中年女性が付き添っている。話があまりにもはっきり聞こえる。横浜に住む息子を訪ねての帰りらしい。父親のほうは、まったく耳が遠く、娘はほとんどどなるようにしゃべる。一方の老人の声は蚊の鳴くように細い。はやく眠ってしまおう。夜、「これやこれや」と、下段の老人がはっきりした口調で言うのを一度だけ聞いたような気がする。
目覚めると、瀬戸の海がすっかリ明けていた。通路の窓際に、乗客は一列に並んでいる。ほとんどが寝巻のままである。農脇の皆さんは、瀬戸大橋の手前で下車していった。
大橋を渡るあいだ、乗客のなかから話し声がほとんど聞こえない。朝の日を照り返して白く光る眼下の海に、すべての視線がくぎづけにされているかのようであった。振り返ると、列車の反対側は、紺青の海である。「瀬戸」は、白と青、ふたつの海のはぎまを、四国へ渡っていく。
耳の遠い老人が、娘にささやいている。
「このつぎはいつ見られるかね」
「来年、また行こうね」
彼女は、珍しく小さな声で言った。
高松に到着し、讃岐うどんをかきこんで、宇高航路の高速艇で本州ヘトンボ返りであった。これが日本列島縦断汽車旅の宿命である。船には他に学生らしい客がひとりいる乗っていた。つい2時間ほど前に渡った瀬戸大橋は、白い橋脚がわずかに望見できるだけであった。
途中下車して床屋へ■
この朝、ぼくは、やや困った問題を抱えていた。洗面である。前日は、札幌駅に午前6時前に着き、洗面所にずらっと並んだ洗面台のひとつを使って顔を洗い、歯を磨いた。同じ列車の乗客たちが、みなそうしていた、だから、この朝もそのつもりで、7時半過ぎに高松駅に着いて洗面所へ入った。ところが、洗面台はふたつしかない。いずれもトイレの客の「手洗い」用で、「洗面」用ではない。
汽車旅に慣れないぼくは、こういう状況で、どうするべきかの判断がつかない。ただオロオロするばかりである。起きぬけのまま、顔も洗わず、とうとう岡山まできてしまった。ここにも、あの札幌駅のような洗面所は見当たらない。ペつにだれかに会うわけではないのだから、洗面なんかどうでもいいようものだけれど、気になりだすと、どうもいけない。
よし床屋へ行こう。岡山の街を、理髪店を探して、歩くことになった。
10月の半ばで、長袖のシャツを着ているのに肌寒い。稚内へはブルゾンとセーターを着込んでいったが、暖かくて閉口した。あの最果ての町で、いちばんの厚着をしていたのは、間違いなくぼくであった。それで、東京駅のロッカーに、防寒衣類をすべて放り込んできてしまった。南へ向かっているというのに、だんだん寒くなるのでは、まるで詐欺に遭っているようなものである。しかし、日本列島に恨み言を言ってみてもはじまらない。
当面の問題は、床屋である。今風のベアドレッサーの店を数軒やり過ごした後、裏道で、木枠の観音開きのドアが入口になっている店を探し当てた。先客はいない。店内の壁は、床に近い部分にグレイのタイルを張りめぐらしてある。足の悪い、額の禿げあがった主人に導かれて座ったバーバー・チェアは、25年使いつづけているという時代物で、グりーンのビニール帳りのひじ掛けには、金の星が散らばっている。アーチ形の鏡は、これも木の枠である。
顔剃りだけと頼んだはずなのに、この店の三代目という理髪師は、まずていねいに髪の生え際にかみそりをあて、ひげ剃リにかかると、刃を思い切り寝かせて、まるで表皮をむきとるみたいに、執拗に剃りあげる。木の柄の先に、無造作にくっつけたような刃なのに、その手のなかでは、まるで生き物であるかのように自在に動きまわるのである。耳まで、丹念に掃除してくれる。
「ずいぶん念入りなんですね」
「いや、中国へ行ってごらんなさい。こんなもんじゃないから」
「香港にも街頭に、耳掃除専門の人がいますよね」
「そうだね、私も、客が眠たくなるような耳掃除してみたいよ。それだけの技術がなくてね」
「いえ、十分に気持ちがよかったですよ」
「それは、よかった」
「若い床屋さんだとちょっとこうはいかないでしよ」
「ま、いろいろ考えがあるから。だけど、ドライヤーを床に置いちゃったりするのがいるが、ああいうのはやめてもらいたいね」
ついでに歯を磨かせてもらった。主人は、玄関のドアを開けて、わざわざ通りに出てくると、路上でもう一度、真っ白いタオルで肩をパタパタと叩いてくれ、
「いい旅をしてくださいよ」
と送り出す。岡山の二時間は床屋を訪ねて終わった。
銀色の鱗が詰まった弁当■
山陽新幹線は昼どきの出発で、駅弁を買うことになる。駅弁が苦手である。味の問題ではない。生来の不器用で、食べるのに神経を使ってすっかり疲れてしまう。
青森駅で二段重ねの幕の内みたいな駅弁を買ったときも、おおいに苦労をして食べた。連結器が間近にある「1番」の座席だったせいか、よく揺れた。そのたびに口と箸の位置がずれかけて、慌てる。お茶を飲もうとすると、床にこぽす。やっと食べ終わって、空き箱を紐でゆわこうとするけれど、これがなかなかうまくいかない。どうにか始末をつけたのはいいが、緊張しっぱなしで、肩が痛くなっていた。いったい何を食ぺたのだったか、上の空になっている。
駅弁はもういいよ、という気持ちなのだが、岡山では、ぜひ「ままかり鮪」を食べなさいと言われているから、試してみなければいけない。発車してすぐに開けた駅弁には、光りものが嫌いな人だったら卒倒しそうなほどにぎっしり、銀色の鱗が詰まっている。ぼくは、これが大の好物だから、朝の床屋の爽快感も加わってか、このときばかりは、都合のいい具合に、不器用がまるで気にならない。一気の昼食であった。
箱のなかの説明書きに、「ままかり」の由来が書いてある。「光る魚」を酢じょうゆにつけて出したところ、あまりのおいしさに、隣の家からまま(飯)をか(借)りねばむらないほどだったから「ままかり」になったとある。
寝入ってしまう。目覚めれば、小倉駅。すぐに終点博多駅。鹿児島本線へ乗り換える。途中のホームで、甘酒万十(100円)を一個買って食べる。甘いものが食べたくなって衝動的に買うことなどめったにない。旅は別物。
「南好き」を確認する■
縦断汽車旅も、あと半日を残すだけになった。気分がだいぶちがっているのに気づく。心が軽くなり、リラックスして、元気が出てきた。もう半日で終わりだからではないようである。
「有明29号」の車掌は、明るい人で、独りでいるときは演歌を歌い、通路を歩いては、次の駅で下りる人に「もうすぐですよ」と声をかけてまわる。車内は空いている。「他の席に座ってもいいですか」と、おずおずきく指定席の客に、大声で「どうぞどうぞ。大丈夫ですから、どこへでもお座り下さい」と答える。
窓の外の景色に引かれるようになったのも、九州に入ってからからである。
色づく柿の実。
線路際の墓に花を捧げて頭を垂れる老女。
白いステテコで杖を引く老爺。
緑の畑にポールを立てて、測量をする男たち。
黄金色の穂の間を帰っていく子どもたちの、健康そうな浅黒い肌。
木々が寄り添い、柔らかな曲線を描いて、尖って硬く一本ずつが孤高を保っているかのような北の樹木とはまるでちがう。
野良を行く農夫の足どりまでが、軽やかに感じられる。
ぼくは、南が好きなのである。、
午後3時過ぎの玉名駅のホームに、セーラー服の少女たちを見る。前の日、登校途中のセーラー服を見たのは札幌であったが、下校する彼女たちは、たしか青森県の八戸や三戸の駅にいたはずである。まる一日で青森から熊本まで移動したことが、これでまぎれもない事実として確認できる。セーラー服は偉大である。
黙って座席に座っているのが惜しいくらいに、気分が浮き立ってきた。列車が南に向かっていることがむしょうに嬉しい。
鉄道よ、台湾へ伸びろ■
ぼくが居る車輌は最前部である。車掌室が付いている。停車するたびに、その脇を通って乗降口に出てみる。停車時間に余裕があれば、ホームに下りる。目の大きな、太い眉の車掌さんと、短い言葉を交わす。カメラを持つぼくを、彼は「まだ1分ありますよ。ゆっくり撮ってください」などとバックアップする。
彼は九州出身であるという。この事実を知ったものだから、当方、駅のまわりに珍しい木や花があれば、車掌室に首を突っ込んで質問する。車掌さんは嫌がりもせず教えてくれる。
八代駅に咲く、キョウチクトウの濃いピンクの花を後にし、ようやく日がかげろうとしていた。
「お客さん、植物好きですか」と、今度は、車掌室のなかの彼からの質問である。
「ええ、まあ」と、あいまいに答える。(ほんとうに花や葉っぱが好きかというと自信がない。)
「じゃ、私と同じだ。植物はいい。まっすぐで」
このときちょうど、車内販売員の女性が、通りかかった。
「車掌さんも、まっすぐじゃないの」
「だめだめ、私は、サルスベリみたいにねじくれてて」
ぼくらは、狭い通路で、笑いあった、車掌さんがつづける。
「阿久根の海岸にカノコユリってあるんですよ。ピンクの。きれいなんだ」
「私、毎日通っているのに知らなかった」
販売員は、興味深げに、首をかしげた。彼女は、バラの花のように結ばれた、薄いピンクのリボンをしている。水俣駅に着く。
ぼくがホームから戻ってくると、車内販売終了の車内放送を終えて、車掌室から出てきた販売員が、半ば独り言のように話しかけた。
「私も旅行したいな。水俣だって、仕事の水俣と旅行の水俣ってちがうでしょ、きっと」
日が海のなかに沈んでいく。窓に向かって立ち上がり眺めつづける、中年の夫婦の姿が、残光をバックに黒々と見える。赤からオレンジに、たちまちに色を変えていく雲。船が一隻も見えない海。
「寒くなってきましたね」
と、車掌は誰にともなくつぶやいて、通路を通り過ぎていった。川内駅は黄昏、伊集院駅では、真の闇であった。稚内を発って車中2泊3日、45時間01分の旅の終わりである。
西鹿児島駅のホームを、勤務を終えて列車から下りてきた販売員が、手を振って通り過ぎながら、歩を止めずにニットのセーターに腕を通す。暖かいと思うと急に寒くなり、また暖かくなったりする、このころの天候を、鹿児島では「おなごだまし」と言うのだそうである。陽気な車掌は、どこへ消えたのか、姿が見えない。
鉄道はなぜ、海を越えて、沖縄にも台湾にも伸びていけないのか。☆
(1988.10)
|