★エッセー「銀山温泉からの帰途に」


 ぼくなどはクルマの運転をしないからとくにそうなのだろうが、鉄道の便の悪い土地にはなかなか足が向かない。名前だけは以前から聞き知っていた銀山温泉に出かける気になったのも、山形新幹線が新庄まで延長されたからである。
 銀山湖を見下ろす湯に浸かった翌朝、新幹線の大石田駅まで通じているバスのなかで、思いついたことがある。
 途中の尾花沢市街にあるはずの「芭蕉・清風歴史資料館」を訪ねてみようか。
 運転手さんに訊けば、バスは、資料館のすぐ向かいに停まるという。慌てて下車した。
 奥の細道を旅する芭蕉は、鳴子温泉から険しい山道をたどって尾花沢に入り、紅花などを扱う豪商で、俳人でもある鈴木清風の家に、じつに十泊もした。よほど居心地がよかったのであろう。それは「かれは富める者なれども、志いやしからず」という、俳聖の清風評からもうかがえる。
 この日、気まぐれで立ち寄った「資料館」は、もともと清風の家があった隣りに位置し、江戸末期ごろの町家を移築したものという。奥の広々とした土間に立って見まわすと、時間がキリキリと音をたてて逆戻っていくかと錯覚される。芭蕉が、風雅の人々と交わった過去へ向かって。
 清風たちは、はるばる旅をしてきた芭蕉と弟子の曽良に、ぜひ山寺へ行ってごらんなさい、と勧めたそうである。その結果、あの「閑かさや」の名句が生まれるわけである。


 ぼくは学校を出て、会社に入った年の夏休みに、東北へひとり旅をしたことがある。『おくのほそ道』の文庫本を携えた、生意気盛りの若者であった。偉大な先人の足跡を尋ねようとの野望は、仙山線で山寺までたどり、そこで途切れた。
 そのころ、山形は遠かった。新幹線が通じるまでは仙台からのルートしか頭に浮かばなかったものである。尾花沢など、花笠まつりの噂を遠く聞くぐらいの関わりであった。それがいまは、尾花沢を思えば山寺が浮かぶぐらいに、距離感が縮まっている。
 実際ぼくは、大石田から山形駅に出て仙山線に乗り継ぎ、三十数年ぶりの山寺まで足を伸ばしてしまった。駅前で見上げれば崖上の山堂が、いまにもこぼれ落ちそうだ。
 このときになって、芭蕉の旅が、当時としてはいかに贅沢なものだったかが、やっと実感できた。尾花沢では、俳句の仲間たちに囲まれて満ち足りた日々を過ごし、山寺でこの絶景を仰ぎ見るのだから。
 もっとも、山賊も出たらしい、当時の旅の苦難もまた、いまでは想像しえないほどだったであろう。それだけに、その果てに出会う風光や人の情は、とりわけ深い感動を呼び起こしたにちがいない。
 とは言え、現代の旅人であるぼくも、そうそう負けていられない。さらに山形市内に出て、明治の大工さんたちが、西洋の工法を真似てつくった「擬洋風建築」の数々を巡って歩いた。さすがの芭蕉も、明治は知らない。
 豊富な過去に出会えるのは遅く生まれてきた者の特権だ、などと言ってもはじまらないけれど。

(『JR EAST』誌掲載原稿に加筆)

(2001.8.20.)