★釜山/1泊4万ウォンの宿の異常な夜

 昼の12時を少し過ぎた時刻に、博多港を出港した。行き先は釜山である。高速艇が運んでくれる。2時間55分後には、もう釜山港に着いていた。

 船で朝鮮半島に渡ることは、長い間の夢であった。しかし、実現してみると、なんとあっけないことか。高速艇ではなくて、下関発のフェリーにすればよかったかな、と思う。フェリーだったら一晩かかるわけだから、一夜明けて釜山の街に対面することになれば、感慨またひとしおになるのではないか。

 着いてしまったものはしかたがない。高速艇の客室はほとんど満席だったが、みんな団体客らしく、船を降りるとそれぞれに塊になって、いずこへか消えていってしまった。

 ロビーにひとり取り残され、さあ、どうしようか。ともかく今晩と明日の晩、二晩の宿を確保しなくてはいけない。釜山二泊三日、その後は博多まで戻って、そこから新幹線で延々6時間かけて東京に戻るというのが、今回の旅程なのである。福岡県の元炭鉱町、飯塚市で仕事があり、それを終えて釜山へ、というアイディアを思いついたときは、自分に快哉を叫んだものであった。

 ロビーの外れに案内所のようなものがあって、おばちゃんがひとり、観光パンフレットに囲まれている。あそこへ行って尋ねてみようじゃないか。立ち上がりかけると、目の前に大柄の男が立ちはだかった。「おひとりですか、珍しいですね」と話しかける日本語はアクセントにやや難があるけれど、よどみない。自分の名前はボブだと名乗った。韓国人にもボブなんてのがいるのか。ボブでもジムでも、ペ・ヨンジュンでも、とりあえずは関係ないわけだけれど。

 ボブは、ぼくの用件を見透かしていて、と言っても、日本から着いた船から出てきたらしいのにだれか迎えを待つ風でもなく、ぼくやりしているヤツとなれば、宿がないんだな、と見当は簡単につくであろう。1泊4万ウォンのホテルがあるんだけどどうかともちかけてきた。4万ウォンが4千円ぐらいにあたること程度は、ぼくも知っている。安くていいじゃないか。

 安い宿となると一も二もなく飛びつくのが、ぼくの長所であり短所であるところのもののひとつになっている。安いわりにはいい部屋じゃないかということになる場合も、安いのはよかったけれどひどい部屋だと慨嘆する場合もある。だいたいは後者になるのだが、いつまでも懲りずに、安宿にすぐ手を出す。その習性は直らない。

 ホテルまではボブが、自分のクルマで送ってくれるという。親切なことだと思う。しかし、親切がしばしば、お返しを求められることは旅の常識である。今回もそうであった。さっそく運転席のボブが言い出した、3つの提案というのか誘いがそれである。1=日本人客の知らない焼き肉屋へ一緒に行かないか。2=女性と遊ばないか。3=カラオケしないか。

 いずれもきわめて魅力的な提案ないしは誘いである。しかし、ぼくの釜山行の趣旨からは大きく外れている。「せっかく休暇がとれたので、街のなかをぶらぶらして過ごしたい。なんにもしないでね」

 意外なことにボブは、ぼくの願望に理解を示した。「なるほど、のんびりしたいわけね」

 これで一件落着してしまった。しつこく絡まれて、身動きとれないようなことになったらどうしようかと、やや懸念していたので、あまりにあっさり引き下がったことに、意外の感を抱いた。

 ボブとはホテルのフロントで別れた。バイバイ、ボブ。

 部屋に入って見回した。この程度だったら、別に文句を言うこともないなと、安堵する。まずは、東京へ電話をしなくてはならない用件がある。電話のかけ方を書いたパンフレットなどがないかと探したけれど、見当たらない。安宿はこんなものだ。直通はあきらめて、交換台を呼び出した。韓国語の「もしもし」さえ知らないことに気づいて、あわてて英語をしゃべるけれど、女性の声が韓国語でまくしたてるだけで、埒があかない。すると、そこへさっきのボブが、どこからか、電話に割り込んできたのである。

 「どうしたんですか」

 同じ質問をこっちがしたいところである。いったいどうなっているんだ。ボブはこの電話を盗聴でもしていたのか。こちらの話に、「ちょっと待ってて、そっちへ行くから」と応えて、ボブは電話を切った。それから1〜2分ぐらいしか経たなかったろう。ドアを激しく叩く音がする。開けると、見たことのない若い男が立っている。そして、「ぼく、ボブの弟」と言った。名前は名乗らない。こちらから尋ねることもないような気がして、ぼくは黙っていた。なんだい、こいつらはいったい。不可解の度合は高まるばかりである。

 「これで電話かけてください」と言って、「ボブの弟」は、ケータイを差し出した。ボブのやつ、手下を派遣してきたな、と思った。しかし、当面の用件は、東京への電話である。「弟」は立ち去る素振りを見せないので、彼の前で番号をプッシュし、相手を呼び出して、話をする。用は足りた。その間、「弟」はぼんやり窓の外を眺めていた。このホテルは丘の中腹にあるらしく、窓からは釜山港方面の街並みが見下ろせる。

 「電話代はどうするんだい」

 そう訊くと「弟」は、部屋の電話を取り上げた。交換台を呼んだらしい。料金を問い合わせたことが雰囲気でわかる。ぼくに通話時間を確認したから、まず間違いのないところである。受話器を下ろした彼から金額を言われたので、その場でウォン紙幣で支払った。レシートをくれとは言いそびれた。見ず知らずの人間に、それがホテルの関係者らしいとわかってはいても、部屋で現金を渡すというのも、なんだか妙だし、危ない物資かヤクかの取引をしているみたいな具合ではないか。

 去り際に「弟」は言った。「今回はボブの客ですね、あなたは。この次来るときはぼくに連絡してください。釜山はばっちりですから」

 そして、「弟」は名刺を渡して出ていった。名刺にあるのは韓国風の名前である。「弟」とは「弟分」の意味だと理解すればいいのか。兄貴分とつるんではいるけれど、いつかは自立の意欲を覗かせる弟分。いずれにしても、ホテルを根城に客を飲食やセックスやエンタテインメントの場に連れ出す仲介をビジネスとしている連中らしい。それにしても、泊まり客の部屋まで入り込むところから考えれば、このホテル、相当にヤバイ宿だったのかもしれない。

 窓から見渡す釜山の街は、いまにも降りだしそうな曇り空の下で、まるで無愛想な表情をしている。ひとりになって、急に疲れが押し寄せてくる気がする。ちょっとだけのつもりで、ベッドにもぐり込んだ。そのまま眠ってしまう。目が覚めると、外は真の闇である。8時を過ぎている。これからどこかへ出かけると言っても、どこへ行ったらいいのかわからない。ボブやその「弟」の厄介にはなりたくない。となると、ホテルの中のレストランで夕食を済ませて、さっさと寝てしまえばいい。

 ひとつしかないレストランと言うよりも食堂は、生カルビに冷麺、それに韓国焼酎というセットで、これで十分である。それに店内のテレビでは、韓国プロ野球の中継中。他に客はいない。最高ではないか。オンザロックスにした焼酎のまわりが速い。幸せの条件がすっかり揃っている。だれに対してとはわからないけれど、なんだか申し訳ないような気分になるくらいである。

 上機嫌で食堂を出る。部屋に戻るためのエレベータに向かいかけたときに、眼の端に変なものが映った。ロビーの真ん中で、真っ赤な着ぐるみから首だけ出した男がひとり、踊っている。思わず立ち止まる。と、男は着ぐるみの大きな手を振りはじめる。「もうおやすみですか。カラオケしませんか」

 この声を聞いてやっと、男の「正体」に気がついた。あれはボブの「弟」ではないか。こっちは酔っぱらってはいるけれど、そのぐらいはわかる。

 着ぐるみから目をそらしながら、エレベーターへの歩を速めた。「カラオケしませんか」

 着ぐるみはしつこく言い募っている。ボブ一党はまだあきらめていなかったのか。はやく明日になってほしいものである。

[2004.7.23.]


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