| TRAVEL | 2006.1.27. |
連載 青蔵公路を、西へ■ 奇魚と出合う■ 草原に暮らす家族■ 西寧・少数民族の交差路■ 白い回々帽を一元で贖う■ チベットの宇宙を観にいく■ 「転生活仏」■ 少年僧の天真爛漫■ |
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青蔵公路を、西へ■
緑のじゅうたんの上を、白い羊が一頭、駆けていく。数百頭の群れから「ひとり」だけ勝手に抜け出した厄介者を、羊飼いの少女は、別に急ぐでもなく、ひたすら追いつづける。はぐれ羊を呼ぶ彼女の声が、まるで歌っているみたいに、風に運ばれてくる。「ふたり」の向こうに、灰青色の水の帯が、曇った空との境を曖昧にしながら横たわっているのが見渡せる。
中国最大の塩湖で、琵琶湖の6倍の面積を有するという青海湖は、モンゴル語でココノール、チベット語ではコーウェンブと言うそうである。どちらも「青い海」を意味しているとか。晴れていれば、草の緑と水の青はもっと激しく競い合うにちがいない。
足元の草の間に、白で縁取ったピンクの丸い花びらを集めた饅頭花(マントウホア)がゆれている。それを見下していると、草原の太陽に照りつけられるときの湖畔の情景が浮かんでくる。
青海省の省都、西寧(シーニン)から進路を西にとったクルマの旅は、やがて2時間になろうとしていた。チベット自治区のラサまで通じる青蔵公路(総延長1936キロ)が、緑を切り裂いて、電信柱の列を伴い、まっすぐ地平線に消えている。
幾重にも畳まれたみたいな青海南山のなだらかな山並みが霞んでいる。ついにチベットの門を叩き、ユーラシア大陸の只中に放り出された、というのが、このときの感慨である。
馴染みのある農の風景と別れて、牧畜のチベットに足を踏み入れたのは、わずかに30分前のことである。分岐点の日月山の峠では、「海抜三五二○米」の標識の隣りで、中国人のグループが、行儀良く整列して記念撮影をしている。道路の両側にひときわ高く記念堂がある。そこへの斜面を登るうちに息が切れ、胸を左右に引っ張られているような気がする。富士山を上回る高所である。身体は正直な反応をする。
しかし、1300年あまり昔の640年、唐の都長安から、はるばる旅をつづけて、ここに立ったという文成公主には、高地の不快などもののかずではなかったはずである。彼女は太宗の養女であり、チベット統一を成し遂げたソンツェン・ガムポ王の息子の元に嫁いでいく途中であった。気丈な王女は、峠の上で、大切な嫁入り道具である日鏡と月鏡を割り、涙を払って祖国を後にしたと伝えられている。
王女の目に映った風景は、現在のそれと、ほとんど変わらないであろう。日月峠の東と西では「農」から「牧」へ景観も一変すると言われるが、ややちがう気がする。峠の上から見渡すと、これまでと変わらない野がなおもつづいているように思える。
ところが、クルマが走りだして峠を下り、ふと窓外に目をやると、そのときはもう別の世界になっているのに気づく。ボワボワとした草のかたまりが点々とつづき、見慣れない白やピンクや黄色の花々がちらばっている。変わらないのは菜の花畑だけである。
人間の目は、自然の変わり目を正確にとらえられるほど精巧にはできていないのであろう。気がつけば、変化のなかにのみこまれてしまっている。ということになれば、釈迦の掌で踊るようにして、自然に身を任せてしまうのだと思い込めば、これからの旅は、安らかにつづくのかもしれない。
奇魚と出合う■
昼食のために立ち寄った湖東牧場で、はじめて湟魚(ホァンユウ)に出合った。それは裸鯉とも言われ、身体のうろこのほとんどを失った奇魚である。
白濁した汁に沈んでいる煮魚は、小骨がおそろしく多く、厚ぼったい白身は大味で脂っぽく、美味とはどうしても言えない代物であった。
この魚と青海湖とは深い縁に結ばれているのだという。
太古の青海湖は、黄河とつながっていた。紀元前13万年ごろ、地殻変動で、湖の東側が隆起したために、東へ流れていた川が西へ逆流して、水は湖に注ぎ込まれた。西行する川は中国では珍しい。湖の南東にある川の名と、あたりの地名でもある倒淌河(タオタンホー)とは、このことを指している。
その後は湿潤な気候がつづいたけれど、紀元前8000年に至り、一帯が乾燥し冷え込みはじめて、湖水の蒸発量が、降水量を上回るようになった。その結果、湖は少しずつ小さくなり、現在もなお、東西の長さが年に1センチずつ縮まっているという。しだいに塩化が進み、湖底の沈殿物は厚みを増していく。
湟魚の先祖は、黄河の鯉である。彼らは、青海湖に閉じこめられ、高地特有の強い太陽光線や、湖の低温などの悪条件のなかで生きていかねばならない。身を守るため皮下脂肪は厚くなり、そのために、本来は魚体を保護するためのウロコの利用価値がなくなってしまった。いまでは肩のあたりに痕跡をとどめるだけである。
この奇魚の、つるつるして、黄色っぽく、薄気味の悪い身体を眺めていると、やがて不可思議な感動をおぼえる。湖の歴史によってつくられた生き物は、10年間に500グラムずつ体重が増えていくとされる。この旅のガイドを務めた許さんは、27歳の若者だが、「1.5キロの湟魚なら30歳だから、ぼくのお兄さん。兄さんは食べるわけにはいかないよ」と笑った。
かつてチベット人は、この魚を食べようとしなかった。神の御使いと信じたからである。この信仰は、いまも残っている。彼らは、網を引いて湟魚を捕えると、自分たちに必要な数だけを持ち帰り、残りは湖へ返す。かつてのネイティヴ・アメリカンの流儀を思い出させる。
その日の宿は、湖畔の張房招待所であった。旅装を解いた後、水際に立った。近くで見る水面は透き通り、薄色のグリーンとブルーが溶け合っている。陽射しが強いためと、水中に雑菌が少ないためだというが、その清澄さに思わずため息が出る。水の表面から20メートル下では、湟魚たちが、小魚を捕えては食べているのだと説明されたが、どうしても実感が湧かない。
草原に暮らす家族■
翌朝、黒馬河(ヘイマーホー)という交易の町で、はるかにつづく青蔵公路をはずれ、湖の西側を北上した。小高くなった草地のなかに、黒いヤクの毛織りを張り渡した、遊牧民のテントを見つけて訪ねた。腰をかがめてそこに入った途端に、タイムスリップの錯覚に襲われる。眼前に出現したのは、19世紀のアメリカ大陸で、白人に追われたネイティヴ・アメリカンたちの暮らしそのままに思えた。
泥で固めた炉。立ち上る煙を逃すための天井の隙間。土間に坐り込んだまま表情を動かさず、まっすぐ見つめてくる老人の眼。鮮やかな縁取りをした、足元まで届くだぶだぶの長袍。お尻を丸出しにした乳児を抱く母親と、裸足の少女。傍らに寄せられているバイクがむしろ場違いであった。
茯茶(フチャ)にミルクとバターを加えた?茶(ネイチャ)をふるまわれ、全部飲もうとして、制止される。底に少し残した液体に、麦こがしのような裸麦の粉とバターを加えて、指先で丹念に練る。こうしてかたまりにして食べるツァンパは、麦の香ばしさと、乳脂の粘っこさとが切り結んでいるみたいで、しきりに後を引く。これが主食なのである。
炉を覗くと、牛や羊の糞を干したのが燃えている。炉のなかは、傾斜になっているため、「生物燃料」が順に滑り落ち、いつまでも火が絶えることがないかのようである。切れ目なく流れる時が、そのまま永遠へなだれ込んでいくみたいではないか。
隣に住んでいる老夫婦が現われ、こちらの手を引くようにして、自分たちの家へ案内する。みごとな饅頭がテーブルに置かれて、食事をしていけ、と誘う。このまま言われるとおりにしていると、翌日まで居つづけることになりそうである。なんだか怖くなって立ち上がる。すると、軒先に吊るした湟魚の干物を、抱えきれないくらい持たされることになってしまった。
それから1時間後に到着したのが鳥島である。この湖岸のバード・コロニー(棲息地)には、渡り鳥が10万羽いると推定されている。南のベンガル湾に春風が吹きはじめると、鳥たちは、矢も盾もたまらなくなるらしく、厳寒のヒマラヤ山脈を越えて飛んでくる。かつて、この湖の周辺が湿って暖かった昔、ここで暮らしていた祖先の記憶に導かれてやってくるのである。
要塞を思わせる、半地下の観察所の小窓から覗くと、一面の鳥の軍団に閉じこめられている気がしてくる。ギイギイという鳴き声は空を圧し、背後の湖面はひっそりとしてよそよそしい。ここでは、人間など「不要(プーヤオ)」なのか。
鳥島招待所での昼食に、辛めのタレにひたしてフライにしたらしい湟魚が出てきた。これはうまい。コーヒーカップになみなみと注がれたビールによく合うと思う。
もっと西へ、もっと奥へ進んだら、どうなるのであろうか。五星
酒の酔いがまわっているけれど、それとは関係がない思いである。『草原情歌』を、一行の中国人のひとりが歌い出した。一緒に歌おうとする者はいない。みな、沈黙している。この曲は、青海省の美しい乙女を讚えたものなのだという。
西寧・少数民族の交差路■
「いろんな顔が見られるな」とつぶやいたら、ふたりのガイド、漢族の許さんとチベット族の王さんが、そろって笑いだした。西寧の新華書店の前である。そこは、東西南北の大街が交わる、東京で言えば「銀座四丁目交差点」といったところか。
いつまで見ていても飽きない、民族の展覧会の趣きがある。西寧とは「西の平和」の意である。ここはもともと、西の諸民族との接触地点であった。青海省の省都で、省の人口400万人のうち140万人が少数民族という。その半数はチベット族だが、他に、イスラム教徒の回族やサラ族、モンゴル系のトゥー族など、さまざまな民族が含まれる。
東大街の先に、省内最大のイスラム寺院という東関清真大寺がある。金曜の午後1時半にはじまる礼拝には、市内だけでなく、近郊の村々から、アラーを信仰する民が集まる。境内ばかりでなく周辺の路上を埋め尽くして、その数は8,000人を数えるに至る。
側面の回廊から、大殿前の広場を見下すと、真っ白い帽子の男たちが、お尻を持ち上げ、身体の下に敷いた、小さなカーペットに額をこすりつけている。
この完ぺきな静寂のなかでは、飛び交うスズメやツバメの鳴き声が一羽一羽はっきり聞き分けられる気がする。
8,000人が一斉に、西の方、メッカへ頭を向ける。1383年の創建以来、寺では祈りが営々とつづけられている。
先の交差点を逆に西大街のほうにたどると、南川河づたいの小公園に出る。
ここを散歩していると、階段の上と下を埋める人だかりにぶつかった。人の輪のなかからは、朗々とした歌声と笑い声とが、まるで和してでもいるみたいに、揃って聞こえてくる。ここで元気づいたのが、近くの互助県出身の王さんであった。
王さんによると、互助県のトゥー族が得意とする「花児(ホアル)会」だという。男女が思いのたけを即興の歌に託し、交互に唄い合う。中国西北部の少数民族の間に広く行われている、のどかな風習である。
男「彼女を思い出し、恋しくてたまらないのに、約束通りに来てくれない」
女「いいえ約束通りに行きました。あなたの姿は見えたけれど、見えないフリをしてしまったのです」
節回しののびやかなこと。方言がわかればずっとおかしいのにと、王さんが口惜しがれば、許さんのほうは、ぼくにはほとんど意味がとれないなと、首をかしげる。
白い回々帽を一元で贖う■
翌日、青海湖へ向かう途中で、着飾った人々の群れに遭遇した。道路の端を連れ立って、あるいは、山あいから列をなして、ひとつの方向をめざしている。そこは、小川に沿う草地である。
祭りの露店がテントを並べ、周りの山の斜面ではやがて、いくつかのグループに分かれて「花児会」が開かれる。若者にとっては、ここが恋人を探すチャンスにもなっている。西寧の公園で、階段を使い「花児会」が催されていたのは、そこを山に見立てていたのかもしれない。街で、野山を真似て遊ぶ。ずいぶん粋なことをするものである。
少数民族はしばしば、突然目の前に姿を現わす。あまりに唐突で、こちらがどぎまぎしている間に姿を消している。風のようである。こちらが旅をしているからそう見えるのであろうか。入れ替わり立ち替わり、異なった衣装をつけて登場し、見慣れない人間に対して一様に好奇心に溢れた眼差しを向けながら、通り過ぎていく。さまざまな色と香りの「風」に出会っている気がする。そのうちに、中国の拡がりを実感しはじめる。
ポプラ並木の間をクルマでぬけていたときのことである。前方にマイクロバスが現われた。最後部の座席に、乗客たちの頭が並んでいるのが見える。その全員が真っ白い「回々(ホイホイ)帽」を被っている。
隣りの許さんに注意を促すと、「このあたりは回族が80パーセントで、我々漢族のほうが少数民族ですよ」と、やや複雑な表情をした。
クルマは、道路の分岐点に近づくと、きまって大幅にスピードを落とさなくてはいけない。そこに、同じような帽子やベールを被り、よく似た服装をした人々が群れて道をふさいでしまって、バザールが開かれている。「なんという町?」と問うと、たいていは「名前はない」というのが答えで、ガイドは素っ気ない。無名の町は生まれかけの町かもしれず、また、束の間の町かもしれない。生々しく初々しく、そして寂しげでもある。
そんな町のひとつで、「回々帽」を一元で買い求める。これを頭に載せ、紺地に白く「清真餐庁」と染め抜いたノボリの翻る店に入る。煮込んだ羊の胃袋を口にして、思わず帽子を手で押さえる。あまりの辛さに、頭から吹き出す汗で帽子が吹き飛ばされないかと、とっさに思ったのである。
チベットの宇宙を観にいく■
晒大仏は午前8時からと聞いていた。ところが、7時半を過ぎたばかりというのに、もうはじまっているとの噂がひろまった。宿泊先の「塔爾寺(タールスー)賓館」を飛び出して、乾いたでこぼこ道を走りはじめた。みんな走っている。
どうなっているのだ、とぶつぶつ言ってもはじまらない。生きながら仏となった活仏たちが勝手に準備を進めるのだから、世間一般の時間などにまどわされない道理である。晒したいときに晒す。
果たして、寺を見渡す丘の麓に到着してみると、蓮の花に座った釈迦牟尼の、巨大なタンカ(布に描いた仏画)は、すでに晒されていた。
長さは何メートルぐらいかと問えば、空の大きさと同じ、空のように大きいという、薄ぼんやりした答えが、傍らの中国人から返ってくる。あとで仏像とともに馬を連れてきてお茶を飲ませることになっているが、この馬は天空への死者なのだとも説明された。
晒大仏は、天と地との壮大な交歓の儀式であるかもしれない。その周りを囲んで集まる信者や見物人たちは、まるでUFOの着陸を待ってでもいるみたいである。布の下にもぐりこんで、滑り下りる者もいる。こうすると幸せがやってくるのだという。
西寧からクルマで40分ほどの塔爾寺では、年に4回の大法会が営まれ、そのうち旧暦の4月と6月に、大タンカを一点ずつ、虫干しを兼ねて晒す。晒大仏は、欧米からの見物客もやってくる大イヴェントである。
それにしては、まったく何気なくはじまり、丘の下では僧侶たちが坐り込んで、悠々と式典をつづける。丘の上に上ると、終了時に音楽を担当することになっている若い僧の一団が、太鼓や笛のなかに車座になり、談笑する姿もある。アイスクリームを食べる青年僧を眺めて、チベット仏教に憧れてやってきたという日本人が、びっくりしながらヴィデオカメラを向けている。
そこには、俗事も仏事も超えた自由で闊達な気分が横溢している。
同じことを、隣りの甘粛省の拉卜楞寺(ラプロンスー)を訪れたときも感じた。街のどこにでも僧服を見かけた。映画館の座席は半分がエンジ色の法衣で埋まっていた。路上で靴を修理してもらっている若い僧がいた。つま先が跳ね上がった彼らの靴の名を問えば、平気な顔で、「クツ」と答える。一方には、寺院の壁に寄り添うようにして坐り込んだまま動かない僧もいる。
アッケラカンと俗界に混じり合っているように見えながら、実はけっして妥協しない「聖なる世界」に住みつづけるのが、チベットの僧たちなのであろう。
ところで塔爾寺は、チベット仏教の中心宗派、黄帽派の六大寺院のひとつである。同派の創始者で「第二の釈迦」とも呼ばれる宗教改革者、ツォンバ誕生の地として、とくに重視される。1379年に、彼の母が宝塔を建立し、それを中心にして寺が建てられたために、この寺名がついた。
祭りのオープニングを飾る晒大仏は、2時間後、黄色い覆いをかけられて、吉祥を願う数十人の人々の手で巻き上げられ、あっけなく終わった。
「転生活仏」■
舞台は境内の中心部に移る。
ゆるやかな丘陵の狭間を流れる、いまはほとんど水の枯れている川に沿って、二十数個の伽藍が連なっている。遠目には、銅版に金メッキを施した瓦が光り輝き、近づけば、屋内を支配する深い闇を蹴散らす勢いで極彩色に飾り立てた格子窓と大柱、あるいはあまりに人間くさい仏像に圧倒される。
チベット仏教は「転生活仏」である。菩薩は輪廻転生をつづけ、現世では活仏として人々の救済にあたるとされる。最高指導者のダライ・ラマも、死去すると、僧たちによって、転生した幼児が探し出され、後を継ぐことになっている。現世の14世は、この寺のすぐ近くで「発見」された。あの世もこの世もない、生き生きした至福感、これがチベット寺院を満たしている。
金色に輝く「大金瓦殿」に隣り合う広場で、まつりの第2章が開かれた。それは「跳金剛枦法舞」と題される宗教舞踊である。
伝来の武具と衣装をつけた勇者たちが舞う。地面に坐り込んで、これを見上げていると、宇宙を目の前にしているかと思える。魔物を追って天空を駆けるスペースドラマが展開している。
中央の絨毯にしつらえた、ツァンパ製の「鬼」に戦いを挑み、最後に討ち果たすのは? 傍らでは、供養人と呼ばれる施主4人が、不可思議な笑みを浮かべる面をつけ、これを見守る。
広場を埋め尽くす群衆のざわめきをよそに、勇者のドラマは淡々と進行する。ドラとそれに、向かいの屋根から吹き鳴らすラッパの音が、天国の次第に近づくのを告げていた。
少年僧の天真爛漫■
祭りはさらにつづく。翌朝またも早々と8時過ぎに、今度は「轉経仏」が出発していく。幟と、ラッパのバンドを先頭に、仏像をいただき、寺の周囲の山道6キロを巡る。
ここに至って、いままでは陰にいた、信仰厚い人たちが、ただの見物人の前に進み出てきた。道端の降魔塔に祈り、石ころだらけの道に身を投げ出して五体投地をする姿が目立って多くなる。
日本の祭りと異なり、信仰のある者の心のなかでこそ、真に興奮は高まるのだと考えられる。
若い僧たちは相変わらず陽気である。カメラを貸してくれと15歳ぐらいの少年僧にせがまれて手渡すと、彼はこちらにレンズを向け、いかにもうれしそうにシャッターを切った。この天真爛漫さは、いまの世の中ではめったに見られなくなっている。
雨が降り出した。午後の宗教舞踊「跳馬恐怖畏枦法舞」はついに中止された。ポプラの白い花びらが、濡れた山道に貼り付いている。チベットの宇宙よ!(完)
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