著者=枝川公一

編集・発行=WAVEtheFLAG
発行日=2004年6月16日
文字数=40,572文字
定価=400円

 都市について語るとき、一方に街並み、都市計画、建築などハードがあれば、もう一方には人情や情緒、あるいは気質といったソフトが控えている。しかし、21 世紀の都市は、このハードとソフトの引っぱり合いでは見通しがつかない。急激に容貌を変えつつある東京は、これまでの都市論を無に帰そうとしているのではないか。
 このテキスト『東京変貌』は、当サイト WAVEtheFLAG にすでに掲載されたものも含めた 6 編によって、過去からのゆるやかな歩みが未来への急速な「走り出し」へに取って代わられつつある TOKYO CITY の現実を描こうとするものである。

このテキストを買う

 

 目 次


1 丸の内 150 年ものがたり
2 丸ビル改築/丸の内再生への道
3 六本木ヒルズ/超高層都市の主張
4 汐留シオサイト/湾岸への執着と憧憬
5 食でたどる銀座百余年史
6 銀座に「海外ブランド」が集まって

 

 本文の書きだし部分・抜粋

 かつての栄光もだいぶ色褪せた丸ビルが、改築されて、まもなく 1 年半が経とうとしている。新装オープンしたのは、2002 年 9 月である。こぢんまりした 8 階建てが、一挙に 37 階に伸びた。低層階と高層階に、ファッションの店や飲食店が展開している。

 この東京新名所は、一躍注目の的になった。開館から半年で、来館者は 1350 万人に達した。デベロッパーの三菱地所の予想を 2 倍も上回った。

 「丸ビル効果」は、丸の内一帯に及んだ。銀座や日比谷に通じる丸の内仲通り。近年、ブランド・ショップが次々に進出しているが、丸ビル竣工後、通行量が2倍になった。

 また、向かいの東京駅では、長いこと乗降客数で八重洲口に及ばなかった丸の内口が一気に逆転した。駅からつづく地下道を抜けて丸ビルへやってくる人が目立つようになった。
 丸の内は長いこと、ビジネスでしか用がないと思われていた街である。そこに人々が集まってきたのはなぜか。

 理由のひとつは、賑わい志向である。おもしろそうなところへはどっと押し寄せる。新奇な仕掛けを楽しみたい。華やぎのなかに身を置く体験をしたい。いわばディズニーランドへ行くのと同じ感覚である。

 だから、原宿、渋谷、お台場と、このごろの東京は賑わいの街だらけである。伝統が売り物の銀座でさえ、昨今は、海外ブランド・ショップが並ぶ通りに、人々の関心が集中している。ニュー丸ビルのおかげで、丸の内が東京の賑わいの仲間入りをした。

 もっとも、丸の内の場合は、それだけではない。東京という都市の核心がここにある、すくなくとも「ある」と信じられてきたことの意味が大きい。ずっと東京駅はこの都市の玄関であったし、駅を出るとすぐ前に「鎮座」する丸ビルと、その奥に控えている皇居の森の存在が、強固な東京イメージをつくった。

 そこに変化が訪れる。いままで目立たないままで過ぎてきた土地が再開発で急に賑わうのとはわけがちがう。人々は、長年特別な感情を抱いてきた街が変わっていく事態に促されて、どうしても足を向けないではいられない。これが、人が集まる、もうひとつの理由である。

 丸の内地区では、新丸ビルをはじめ、改築による高層化が急ピッチで進められつつある。

 変貌する東京の現在を知るために、150 年前、丸の内が草茫々原っぱだったころに遡ってみることにしよう。

「都市開発」の父、荘田平五郎■

 関東大震災の 1 年半近く前、大正11年(1922)4 月 26 日に、東京地方がマグニチュード 6.8 の大型地震に見舞われたことは、あまり知られていない。ちょうど、旧丸ビルの建設工事が進んでいて、すでに八分通り出来上がっている状態であった。

 地震は、この建設途中のビルを容赦なく襲い、外壁に亀裂を生じさせただけでなく、内部の壁がいたるところで崩れ落ちた。これを補強する工事に手間取ったために、竣工が数カ月遅れた。

 この地震から四日後の四月三十日に、丸ビルの完成を見ることなく、荘田平五郎がこの世を去っている。七十六歳であった。

 荘田は「三菱の基礎を築いた大番頭」として、日本経済史にその名を留めている。丸の内の「基礎」もまた、この人物が築いたものなのである。

 荘田は、豊後(大分県)臼杵藩の儒学者の家に生まれ、同じく豊後の中津藩出身の福沢諭吉の高弟であった。慶應義塾の教師をしているときに、三菱の創業者岩崎彌太郎に乞われて、海運がメイン・ビジネスだった当時の三菱入りしている。商売人は丁稚から育てられるのが当然だった当時、「学士さま」が採用された、最初のケースになった。たちまち才腕を発揮して、三菱に於て、岩崎家の人間以外では最高位の管事を務めることになる。

 明治 21 年(1888)に、長年の労をねぎらわれて、イギリスへ送り出される。しかし、物見遊山にうつつをぬかすような人物ではなかった。旅の途次、この切れ者は、グラスゴーのホテルで、日本から送られてきていた新聞に「丸の内の練兵場が売りに出されている」とあるのに目を留める。さっそく、彌太郎の死後、社長になっていた実弟の彌之助に電報を打ち、「丸の内、買いとらるべし」と進言したのである。

 この一通の電報が、三菱が丸の内一帯を買い占めて、このあたりが後に「三菱村」と呼ばれる端緒のひとつになった。

 丸の内は、江戸時代には、千代田城の真ん前ということで、大名屋敷の並ぶステータスのきわめて高い一角であった。しかし、維新後は荒れ放題に放置された。だだっぴろい主要部分は、軍の練兵場に利用されていた。兵舎が点在する他は、草っ原が広がっているだけであった。

 この軍施設が移転することになり、丸の内一帯の一括払い下げが決まった。当時の東京府は、日比谷・霞ヶ関地区に官庁を集約する一方で、丸の内・大手町は、一般市街地として解放する方針を固めていたのである。払い下げの実施につき、政府は財閥に対して打診が行った。ところがこれが、うまくいかない。予定価格が高すぎたのである。

 そこで、渋沢栄一が岩崎彌之助に対して、いったん三菱が払い下げを受け、後で分割しようという申し出をしている。これに彌之助が反発する。

 その手にはどうしても乗りたくないワケがあった。

 明治初頭、海運事業を独占していた三菱に対抗して、渋沢は、三井と組み共同運輸を立ちあげた。そして、激烈なダンピング競争を挑んだのである。その結果、政府の指導で、両社は合併させられて、日本郵船が生まれた。そのため、三菱は他の事業に活路を見出す必要に迫られたという事情がある。だから、自分を窮地に陥れたライバルである渋沢になど、丸の内は意地でも渡せない。

 しかも、グラスゴーからの電報で、腹心の部下の荘田が心強い進言をしている。二代目の彌之助は、丸の内の引受けを決心する。こうして八回分割で支払うことになった払い下げ代金は、郵船株を処分して当てたとされる。その決意のほどが窺える。……

 

 著者・枝川公一のこと

 当サイト WAVEtheFLAG 主宰者。ノンフィクション作家。東京関連の著作には『東京はいつまで東京でいつづけるか』(講談社)、『街は国境を越える』(都市出版)、『銀座四丁目交差点』(二見書房)、『東京下町とっておきの人びと』(中央公論新社)などがある。

 この作品の著作権はすべて著者に属します。購入したファイル・コンテンツは個人利用にとどめてください。コピーして第三者に渡す、ウェブ上に掲載する、プリントアウトして不特定多数に配るなどは、ご遠慮ください。

このテキストを買う


このテキストおよびWtFテキスト販売一般についてのお問い合わせは、wtf-text@edagawakoichi.comまで、メールでお願いします。

HOME自由意志購読フレームを外す