★全地球食堂-<東京>エスニックガイド
著者/枝川 公一
タイトル/全地球食堂-<東京>エスニックガイド
発行/夏目書房
初版/1997.6.25.
定価/1,575円(税込み)
ページ数/189
ISBN4-931391-27-3


 東京とその周辺で、世界各地の味覚を訪ねてまわり、地球規模の食空間を体験するべく、探し歩いた店の数々。その数51店に達した。東京は、まさに全地球食堂であることを確認した。

《目  次》

まえがき

(東南アジア)
サイゴンレストラン 日本人好みのデリケートな昧わい ベトナム料理
アンコル・トム いつもつくりたて。友だちをもてなすような心づかいがうれしい カンボジア料理
ペチャラット 髪の根元が熱くなるチエンマイ仕込みの超辛料理 タイ料理
ラカン 辛さばかりじゃない、幅広い味覚との出会い タイ料理
マレ・ドゥ・ローテュス ミャンマーの週末のご馳走、香り豊かなココナツそば
マレーチャン 「混血」料理の複雑で奥深い味わい マレーシア料理
ナミン 熱帯の知恵がつまった酸味の料理 フィリピン料理

(東アジア)
シリンゴル 野生と繊細の奇妙な融合 モンゴル料理
倍思親庄園 さっぱり仕上げの魯菜料理。中国料理の未知なるカテゴリー 大連料理
津田沼餃子館 熱狂的ファンが通いつめる「餃子の楽園」
東江楼 ここでしか味わえない中国料理の原点 客家料理
青葉新館 家庭でもつくりたくなる、あっさリ仕上げの台湾料理と中国薬膳 台湾料理
韓国食堂 ハングルと日本語が入り乱れて‥‥。韓国を身体で感じられる店 韓国料理

(中央・西アジア)
アルポナ 若者から老人まで、幅広く愛されるベンガルの味 インド・バンクラデシュ料理
ターリック 広大なアジアにまたがる味覚圏のエッセンスが味わえる店 インド・中央アジア料理
ロティ/ガンディ インド料理、南と北のそれぞれの味 インド料理
ぽか羅 本場ネパールよりおいしいオリジナル「ネパール・カレー」 ネパール料理
キヤンディストリート 微妙な甘みが絶妙のピッチュとカレー スリランカ料理
ラージプート 自慢のチキンカレーは無類のまろやかさ パキスタン料理
イスタンブール 香辛料たつぶり、トルコの「おふくろの味」 トルコ料理
シンドバッド 昧覚の冒険をすすめるアラプ料理の水先案内人 レバノン料理
シャマイム 「シンプル・イズ・ベスト」の合理実質派 イスラエル料理

(北アメリカ)
ソルティ・ボックス・グリル カナダの田舎を東京に運んできたような店 カナダ科理
ベンズ・カフェ 裏通りの「純正」ニューヨーク アメリカ東海岸式カフェ
タタンカ 目からウロコが‥‥。柔らかくて甘い熟成のアメリカンビーフ ステーキ・レストラン 
ラハイナ 「人種のルツボ」が生み出した入り組んだ味わい ケイジヤン料理。
フファイエツト アフリカの食文化がアメリカ経由で上陸 ケイジャン料理
サルサカバナ 食感が決め手! 日本人好みのトルティーヤ テキサス・メキシコ料理

(中央・南アメリカ)
エスペランサ 日本にいることを忘れそうなラテン一色のライブ・レストラン メキシコ料理
クリオール 世界に冠たる完成度。食欲をそそるセビチエの絶妙な辛さ ペルー料理
マリポーサ 移民の母娘がつくる「優しい味」 パラグアイ料理
イサドラ 日本人が親しみやすい豊富な食材とシンプルな料理法 

(ロシア・東・北ヨーロッパ)
スタルカ 平凡な素材に最大限の手間をかけるもうひとつの贅沢 ロシア料理
ダリエ 素朴なのに、どうしてこんなにおいしいのか? ルーマニア料理
カフェ・デイジー 「デンマーク版納豆」ブルーチーズが堪能できます デンマーク料理

(南ヨーロッパ)
ダブルアックス 無国籍地帯に息づく地下の異世界 ギリシャ料理 
ミケーレ 素材の味を尊重する南イタリアの味 南イタリア料理
アルフィオ 南欧の豪快さと繊細さを兼ね備えた料理 イタリア料理
オリーブ シガーラスが引き立てる深い味わいのパエリヤ スペイン料理
グレコ 「和」の発想を取り入れたユニークなスペイン料理 スペイン料理

(西ヨーロッパ)
ラインガウ ドイツ各地から選ばれたワインがみごと ドイツ料理
リンデン ヨーロッパ料理の粋を集めた大人の味覚 オーストリア料理
STlCK-TO 日本の洋食がひそかに息づく懐かしい「フレンチ」 フランス料理
ぼんナペティ 房総の海をまな板に載せる海辺のフレンチ フランス料理 
ザ・ウォリア・ケルト 恋がもたらしたケルトの味と音楽 イングリッシュ・パブ
ザ・フイドラ 懐かしいイングランドの香り イングリツシユ・パブ

(アフリカ)
クスクス なんといっても量と値段が魅力 北アフリカ料理
クィーン・シーバ 先入観を打ち破る、アフリカ料理の繊細な味わい エチオピア料理
ガーナ 「アフリカ・カレー」のなめらかな味わいに驚き ガーナ料理

(オーストラリア・無国籍)
オージーカフェ カンガルーやワニもある異色メニュー オーストラリア・レストラン
ラ・チャタ<現チャタ&ペーター> 海の気分をそっくり運ぶ新鮮料理 無国籍料理

「全地球食堂」の人々
あとがき


  《抜  粋》

<<全地球食堂の人々>>

 全世界の食を東京周辺に訪ねようとする旅のはじめは、JRと小田急の路線が交錯している町田駅に近いカンボジア料理の「アンコル・トム」(13ページ)であった。店主のペン・セタリンさんは、二十年以上前に、文部省の国費留学生として来日してからずっと日本に暮らしているとのことであった。
 カンボジア人の名前は、日本人と同じく姓が最初にあるそうで、したがって、彼女はペン姓のセタリン名になるわけだが、背が足りないからセ・タリンだと説明してくれた。もちろん冗談である。


カンボジア料理「アンコル・トム」のペン・セタリンさん

 この店では、開店してからしばらくはコースを設けなかった。客からの注文があるたびに一品ずつつくっていたのである。これはカンボジアでは当たり前のことで、温かい食べ物を出すのが、もてなしの基本になっている。田圃や畑で野良仕事をしている夫にも、妻は熱々の昼食を届けるのだそうである。
 しかし、日本の客はせっかちで、セタリンさんの言葉を借りれば、すぐに「暴れる」。つまり、まだできないのかとうるさく催促してくる。それで、仕方なく、コース料理をはじめることにして、一部の料理は、つくりおきや温め直しにして、すぐに食べたい客の要望に応えるようになった。
 この決断は、カンボジア人にとっては大変なことで、というのは、冷めた食事はお化けしか食べないと信じられているからである。郷に入って郷に従うのはきわめてむずかしい。
 だから、彼女は家にいるときは、夫が勤め先から戻るのを待って夕食の支度をすることにしていたが、夫のほうは、帰ってきてから勝手にチンするからいいよと、迷惑そうな顔をするのだという。きっと日本人と結婚しているのだろうと思ったら、「中国系のカンボジア人なのに、すぐに日本人になってしまったのよ、彼。みんなお化けになって、この世の中、人間いなくなるんじゃないの」だそうで、そのときは、大笑いになった。
 日本に住んでもうすぐ四半世紀近くになるけれど、彼女にとってはなお、冷たいものでもなんでももりもり食べて、働きに働き、過労死していく日本人という存在が不思議でならないようであった。

 このペン・セタリンさんをはじめ、全地球食堂には、人間的な魅力に富んだ人が多い。これは取材をはじめる前には、予想していなかったことである。ヴァラエティに富んだ料理に出会えるものとは、当然考えていたけれど、その向こうにいる人間のことは、ほとんど頭になかった。ところが実際には、料理と人とが一体になって、はじめて店が成り立っていると思えるくらいに、店主やシェフが大きな役割をしているのである。
 もっとも、ある種の料理人に見られるような、権威や名声を盾にするところがなくて、自分自身が自然に現れてくる。そういう人たちが目立つ。
 この食堂には、フランスやイタリアのように、すでに日本の社会で評価の定まった料理ももちろんあるけれど、この国では確固とした地歩を築いているわけではない、どちらかと言えばマイナーな料理が多い。その場合には、店の側の思い入れや、独自の考え方があり、当事者のはっきりした意志が働かなくては、おぼつかないであろう。こうした事情が、人間的な要素が際立つ理由のひとつになっていると思われる。料理よりもまず人が客を惹きつける。
 日本人は、味については保守的である。とくに非欧米系の食に対する警戒感は強く、なかなか馴染まないところがある。ある店のマネジャーは言っている。「日本人は、あまり冒険しません。それでもバブルの時代には、新しいのにすぐ飛びつく風潮がありましたが、いまはまったく影を潜めました。自分が知っているとか、だれかに聞いたとか、ある程度分かっているもので、値段がまずまずというのにしか手を出しませんからね」
 こういう社会だから、いっそう、「冒険」をさせるだけの強力なパワーを、店なり、人なりが持っていなくてはいけない。
 ルーマニア料理の「ダリエ」(117ページ)は、すでに創業十数年で、銀座通りに面したビルに入っているが、シェフの及川治道氏は、フランス料理からの転身組で、当初は、雇われたからつくっているぐらいの気持ちであったという。
 「ルーマニアという国、そこの人々を知るようになって変わってきました。日本人にはない、温かい心を彼らは持っている。日本はたしかに物質的には恵まれているけれど、心はどうか。まだ鉄のカーテンが厳然とあった、チャウシェスク大統領の時代で、そうだったんですよ」
 土地と人に魅かれ、つづいて、素朴な作り方なのになぜこんなにおいしいんだと、料理にのめり込んでいった。食べ物のバックにある社会にほれこんでいるのだから、客に勧めるのにも説得力がある。
 明治通り沿いの広尾のフィリピン食堂「ナミン」(28ページ)のオーナー・シェフ、高橋博氏も、ふつうの西洋料理からの転じたひとりで、勤めていたレストランのオーナーの意向で、面白い料理を探しにフィリピンに派遣されたのが、きっかけであった。
 すると、煮込みの方法をはじめ、料理法の基本が、自分の教えられてきたものとまったくちがう。それで、アジアの料理なんかと、馬鹿にしていた気持ちが吹き飛んでしまったわけである。
 船橋駅に近いビルの地下にある「タタンカ」(86ページ)は、ステーキ・レストランなのだが、もっぱらアメリカ牛を使っている。この店は、船橋市内に昔からつづいている食肉店の経営である。社長の皆川泰蔵氏は、「日本人はほんとうの肉の味を知らない」というのが持論で、「肉と脂が混じりあった霜降りをおいしいと思っているらしいが、身体のなかに霜が降るくらい脂が入った牛は、不健康じゃないか」と考えているそうである。そこで、固いアメリカ牛をおいしく食べさせるために、この店をつくったわけである。
 横浜駅に近いスペイン・レストラン「オリーブ」(133ページ)のシェフ、中村義雄氏は、もともとのスタートが老舗のスペイン料理の店で、マドリードに渡って、国立料理学校に学んだエリートである。その料理観は、しかし独特で、スペイン料理は日本料理とよく似ていることに着目している。
 スペインにはオジャという料理があるが、これは、日本のおじやそのものである。「徳川家康は鯛の天ぷらを食べて死んだそうじゃありませんか。スペインのカラマーレ・フリートスなんて、一目見て、イカのてんぷらじゃないの、と思うはずです」というあたりから話しだすわけである。
 西川口の同じくスペイン料理の店「グレコ」(136ページ)のオーナー、江連淑子さんは、「私は刺身が好きだから、これをスペイン風にと考えて、オリジナルを一品として海鮮サラダつくりました」と言っているが、中村氏流の考え方からは、これは当然ありうることなのであろう。日本料理は、スペイン料理に簡単に翻訳できるものだからである。
 この「グレコ」の場合は、もともとスペイン・レストランをはじめるつもりではなかったようなのである。たまたま、江連さんの父親の知り合いに、スペイン料理のコックがいて、これを頼りにオープンした。ところがいまでは、息子が腕を磨いてシェフを務め、母子揃ってフラメンコ教室に通うほどになっている。

 日本人の場合は少ないが、外国人のオーナーやシェフには、飲食の仕事に就くつもりで、日本に来たわけではないのに、人生の成りゆき上、そうなっている人たちがよくいる。これも、全地球食堂で、料理そのものと並んで人間が際立って見える理由に数えられるであろう。経てきた人生の曲折が、飲食の場を面白くする。
 東川口「レストラン・ガーナ」(166ページ)の陽気なオーナー、サンプソン・オディ氏は、ヨルダンで日系企業に勤めているときに、日本語ができれば給料が上がると聞かされて、夫婦で日本にやってきた。日本語の勉強中に、イラン・イラク戦争が勃発して、戦場に近いヨルダンに戻れなくなったといういきさつがある。
 「ウォリア・ケルト」(152ページ)と「ザ・フィドラ」(155ページ)は、それぞれ上野と高田馬場にあるイギリス風パブだが、オーナーたちは、いずれも、元英語学校の教師であった。ガイジンであっても、ビジネスマンやタレントのようなエリートではない。彼らには六本木のガイジン租界の飲食店は高すぎる。そこで、じぶんたちのようなふつうのガイジンが楽しむことのできる場をつくったのである。
 パキスタン料理店「ラージプート」(67ページ)のザワル・フセイン氏も、アメリカ東海岸風カフェ「ベンズ・カフェ」(83ページ)のベン・ワトソン氏も、ともに高田馬場に店を出しているが、もともとは学生であった。幕張のミャンマー・レストラン「マレ・ドゥ・ローテュス」(22ページ)でマネジャーをしているアウン・ニェン・ウィン氏も、クルマの技術研修生として来日したはずである。
 日本では、経済的にはバブルによる急激な膨張があり、この前後に、政府が留学生の受け入れに本腰を入れる方針を公にした。これで一挙にガイジン人口が増加したいきさつがある。
 西池袋の公園際にこじんまりとあるマレーシア・レストラン「マレーチャン」(25ページ)は、その時期に、留学生たちの手で運営されていたという、特異な生い立ちを持っている。当時の客のなかには、日本人はいなかった。ほとんどが、マレーシアからの出稼ぎ労働者たちである。3Kと呼ばれた仕事に従事して、毎月三十万から五十万円のお金を祖国の家族に送る人たちであった。
 ところがバブル崩壊とともに、彼らはいっせいに職を失い帰国していく。この店の客足も途絶えてしまう。借金がかさんで閉店に追い込まれかけた。福澤笙子さんは、留学生のためのアパートを経営していた関係で、相談を受けて、経営を引き受けたのだという。その後、日本人向けの店に変えた。
 食材の仕入れにマレーシアにたびたびでかけるという福澤さんは、「このごろは、逆に日本人がマレーシアへ行くことが多くなって、現地の料理に親しんで帰ってきます。また、企業の駐在員のお子さんが、大学に入るので、親たちを向こうに残して先に帰国した後、懐かしがって食べに来るというのもよくあります」と語っている。
 カナダ人のドン・フォリーの場合は、まったく飲食の仕事と無縁だったわけではない。十八歳までの二年間をレストランで働いた経験がある。しかし、結婚してからは夫婦で世界中を旅して歩いていた。日本にやってきて、食堂にセットメニューが氾濫していることに驚いたという。食べたいものが自由に食べられない。セットを注文しながら、サラダをフライド・ポテトに変えてもらおうと思っても、余分のお金を払わないとそれができない。
 自分と同じ不満を抱いている外国人はたくさんいるにちがいない。もっと自由な、使い勝手のいい食堂があったらきっと繁盛するにちがいない。そう考えて、いったんカナダに戻り、クッキング・スクールに入って本格的な勉強をし、卒業証書を手に日本に戻ってきた。そして、「ソルティ・ボックス」(80ページ)を開いたのである。
 ここでは、客が入ってくると、奥さんがにこやかに迎えて、「どう元気? まあおかけなさいよ」といった、カジュアルなサービスが身上だが、世界を旅して歩いたふたりの「自由への信頼」が反映されているのであろう。
 さまざまな事情が、全地球食堂をカラフルに彩っている。

 こうして、全地球食堂の人々に出会いながら、深まっていくのは、料理は人だな、という感慨である。エスニックと言われて、かつては珍しがられた料理も、少なくとも東京の近辺では、街のなかにすっかり定着している。現在、そんな店のひとつに入って、まず目につくのは料理ではなくて、迎えてくれたり、カウンターの向こうにいたりする、店の人たちである。料理を客に提供することが、単に仕事だけではない、それ以上の喜びや誇りなんだという気持ちが、これらの人々から伝わってくることがよくある。
 料理そのものの味と、店のなかに横溢する気分とが一体となっておいしさがつくられることが実感できる。そういう瞬間が素敵である。日本におけるエスニック料理の登場と、その後の展開が教えているのは、こうしたトータルな食の重要性ではないだろうか。
 だから、すでにお馴染みの外国料理、例えばフランス料理の店に入っても、いわゆるエスニックに対するのと同じ目で見始めている自分に気づく。
 房総半島の突端、館山へ行ったときである。JRの駅の近くに、「ぼんナペティ」(149ページ)というフレンチ・レストランを見つけた。広々としたテラスは、大きな木が陽射しをさえぎり、ハーブを育てるプランターがあちこちに、それも無造作に置かれていて、雑草が生えるにまかされているみたいな風情である。成りゆき次第のような、たくまない店づくりがされている。実際、店主の伊澤正弘氏は、このほとんど放ったらかしにされているハーブに、タマネギ、ニンニク、トマトなどを加えて、新鮮な魚を蒸しあげるのである。
 伊澤氏は、都内の有名レストランで修業した後、生まれ故郷の館山に戻って、この店を開いた。このあたりは、牛肉もあまり食べない土地柄で、すぐつぶれるだろうと言われた。それがまもなく開店二十年になろうとしている。無理をしないで、手に入る素材をていねいに調理することを心がけているとのことである。
 はじめのころは、以前に勤めていた店でしてきたように、魚をふつうの魚屋から仕入れるだけという方法をとっていた。あるとき、寿司屋と知り合いになって、近くの鮮魚市場に連れていってもらい、以来、毎朝通うようになっている。市場ではさまざまな漁業関係者と知り合いになり、見知らぬ魚を紹介されたり、調理法を教えてもらったりする。このレストランでは、カゲキヨやアカメダイなど、少量しか上がらないので魚屋の店頭に並ばない魚をよく使うが、これらは、市場を通じて開拓したルートで入るものである。
 「キャビアやフォアグラがフランス料理なんだといった観念はたちまちになくなりました」と、伊澤氏は言う。
 野菜についても同じで、長く店に勤めていた女性が持ってきた、自家栽培のキュウリを食べて以来、料理が変わってしまったという。「触るととげとげで痛い。口に含むと、汁がじわーっとしみだしてくる。キュウリってこんなものだったかと思いましたよ」
 土着のフランス料理、というと妙な表現になってしまうけれど、伊澤氏は、高級料理として日本でもてはやされるフランス料理の範疇からは、完全に抜け出してしまっている。じつは本場フランスにいちばん近いのが、こういうあり方ではないか。「このテラスに、ばっと焼いたイワシを山のように積んでワインを飲んだらいいでしょうね」と語る料理人には、さっそく、全地球食堂に加わってもらうことにしたわけである。
 向かいに海の広がる稲村ガ崎で、メキシコ・カリブ料理を核にした無国籍料理の店「ラ・チャッタ」( ページ)を営む倉本康暉氏も言っている。「私も以前はフランス料理をしていたが、醤油はダメ、味噌もいけないという規制にはいらいらした。本場のシェフたちはおもしろがってなんでも使っているのに。それがこういう店をはじめる発端になっている」
 北浦和「STICK-TO」(146ページ)の清水茂夫氏も、フランス料理だが、四十代はじめの、この人の物語った料理人人生は、強く印象に残っている。
 清水氏は、十八歳のときに洋食のコックになろうと決心するのだが、「貧乏だったから、オムライスなどの洋食が目新しかった。これをつくって仕事になるんだったら言うことない」と思ったためである。はじめは、ファミリー・レストランの鍋洗いと皿洗いで、下っ端だから二時間も前に出勤して、ひたすら働き、帰りの電車では、いつも吊革につかまって眠っていた。
 その後は、先輩に従って、ホテルのレストラン、ステーキハウス、フレンチ・レストラン、ローストビーフの専門店などを点々とし、勤務地も、東京、鎌倉、大阪とさまざまであった。
 転機になったのが、ある有名フレンチ・レストランに勤めたときであった。若いコック見習いに、フランス語の料理名を言われて、さっぱりわからず、馬鹿にされた。そこは、休憩時間になると、厨房の仲間たちがみんな辞書を片手に勉強をはじめるような店であった。「目から鱗が落ちるって、あのことですね。学校でも勉強なんかしなかったんですが、これじゃいけないと思いました。どんなことがあっても我慢してやらなくてはと。それからですよ、仕事をおぼえるようになったのは」
 清水氏のつくるフランス料理には、洋食屋のテイストが、まるで隠し味のように残っている。オムライスに興奮したティーンエージャーのころの思いが、そのままつづいているかのようである。初心を忘れない料理人の人柄がそのままにじみでているような料理であった。
 川口駅からすぐの裏通りでロシア料理の「スタルカ」(114ページ)を夫婦で経営する金子勝美氏も、初心をそのままに抱いてきたひとりである。この料理人は、最初から独立することを念頭に置いて、調理師学校に通い、夫婦ふたりだけでやりくりする店に就職している。調理の全てをおぼえたかったからである。とくにロシア料理がしたかったわけではない。たまたま雇われたレストランが、ロシア料理だったというだけのことである。だからいまでも、「ロシア料理が好きかって言われたら、答えようがない。ずっと同じ店で働いていたから他のところは知らない。それに、食べ歩きをしたわけではないし、そんな経済的な余裕もありませんでしたし」と言うのである。 
 中学生時代の同級生と結ばれ、子どもが生まれ、自身が生まれ育った川口に、調理師学校を卒業して以来十一年半勤めた店と同じような、小さな店を開いた。
 売り物にしているキャベツ・ロールについて、金子氏は、ロシア語でなんというのか知らないそうである。それをカヴァーしてあまりくらいに、一途につくってきた、この一品に賭ける情熱がある。だから、こうも語っている。「もちろんパエリアをつくれって言われれば、つくれないことはありません。でもすごいスペイン料理の店のようなのができるかって言われたら、勝てるかどうか、それはむずかしい。ただし、キャベツロールだったら負けないぞって、絶対言えますね」
 フランス料理よりイタリア料理のほうがどうのこうの、タイ料理はやたら辛いけれどそれに比べてヴェトナムはうんぬんかんぬん、といった比較論で、全地球食堂のメニューを論じてもなにもはじまらない。人間がつくる料理はつねに人間に帰着する。料理を提供する側が込める思いと、おいしいものを楽しく食べたいという、サービスを受ける側の願いとの、投げ合いであり、打ち合いである。ベースボール・ゲームをするみたいに、食を満喫できたら、それ以上言うことない。

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