書評『私風俗-上野界隈徘徊日誌』

 あきらめきった浅草、肩で風切る銀座。とするならば、あきらめ果てることもできず、風も肩先にとどまって吹き抜けないみたいな上野。
 上野とはこの際、上野の山、美術の森のことではない。池之端、水族館、動物園とも、ちがう。
 首都高速の下や、鴬谷のラブホテル街、上野広小路・路地裏、京成上野駅横のトイレ、外国人労働者で溢れかえった日々も懐かしい西郷銅像下、あるいは R マンションの、たしか 7 階などなど。
 そんな上野を徘徊するのは、この街に育ち、人間の犬となってかぎまわる「ルポライター」である。「お客さん、捨てられた犬みたいだね。疲れた顔してるよ、お客さん」と、ビールの栓を抜く、居酒屋の主は言い当てた。
 ときに酔い、ときにシラフ。バブルしょっぱなの時期から、月日はめぐり、巨大な「泡」がはじけまくってやがて不気味な静けさに覆われるいまこのときまでの上野、その定点観測が本書である。
 登場するのは、「定点」を通り過ぎていった、あるいはなおそこに漂う男や女。迷子のイラン人、「ホテルのなかで春を売る」女たち、アメリカ帰りのゲイ、ブルセラショップの店長、居酒屋で出会うソープ嬢、屋台村の外国人たち、などなど。
 アート芳しき上野の山とは縁遠く、その山裾の街に打ち捨てられて、あてどなく彷徨するしかない面々ばかりである。彼らとの出会いの実況をたどり、バブルに蹂躙されつづけた東京の、思いきり中途半端な街の時間を拾い上げる。

 

 「日本の裏玄関──"裏"、なんともイイ言葉だ! ──上野の人間臭い歴史そのものが、外道、はずれ者としての私に触れ、私を揺り動かさずにはいられなかったのだ」

 「我が街」上野への執着と、そして対象への深い同調とが、頑強な接着剤となって、それぞれのストーリーをしっかりつなぎとめている。
 街に育てられた者は、街の発する、どんな信号にも敏感に応えるようにしつけられている。茫然として見逃す者は、街に住む資格を剥奪されねばならない。
 この著者が対象の人間たちと出会うのは、つねに瞬間的である。

 「その瞬間だった。私の横を、チリリンと軽やかなベルが鳴り、黒いママチャリが、初夏の風を心地よく受けながら疾走していった」

 そして、反射的に、狙撃手のような正確な行動に移る。

 「私は、小さく声を発し立ち止まり、そのママチャリの行く手を見定めると、咄嗟に追いかけていた。ママチャリの主は、閑散としたホテル街を、勝手知ったといった感じでスイスイ通り抜けると、線路沿いの壁際にママチャリを停車させる。
 後を追った私もな立ち止まり、しかし、何気なくあくまで何気なく、間隔を少しずつ詰めるようにしながら、ママチャリの主を目の端で凝視する」

 こうして、「主婦売春」の主と出会う。しかし、主婦が性を売る、そのことに関心があるわけではない。
 この本には、他にも「風俗」の人たちが次々に登場してくるけれど、「風俗」そのものを取り上げることはない。それは街の暗部を指し示すサインに過ぎない。著者は、セックス・ビジネスという生業のヴェールをはがし、生の核心に直進しようとする。
 街の深い底でこそ、人間の真摯なありかたに出会うはずだ、と信じるからである。
 「主婦売春」のキクヨさんは、この「確信犯」の視線を受けて、ぼんやりした表情を浮かべながら、切れ切れに話しだす。クライマックスが近づいてくるのを予感させるときでもある。

 「お兄ちゃん……、私、今、ドラえもんのどこでもドアが欲しいんです。事務所の女の子とも話すんですよォ、みんな、どこでもドアが欲しいって。一億円でも買いたいって。どこでもドアでね、パッとどこかね、ボロボロじゃない……、知らない素敵な所へ……ね。でも、現実はね、みんな……。私だって、娘、保育園連れて行って、それから三時まで働いて、昼こうして仕事してるの? 娘には私みたいな目に遭わせたくないから……。三時に仕事を終えてから迎えにゆくの」

 真実が揺れながら、浮かび上がってくるかに見えるけれど、ここまでである。ママチャリは走り去っていく。
 我々は、人間の抱える闇の奥深さに気づかされ、ため息をつかないわけにはいかない。しかし、著者はあきらめない。街の底にうごめく人間が発する信号に、執拗に反応しつづける。
 街にそそのかされながら、「人間の闇」への突破口を探し求めて奮闘しつづける者の戦いの記録が、ここにある。

(『図書新聞』2002年11月23日号掲載原稿に加筆)

書籍データ
高部雨市著
『私風俗-上野界隈徘徊日誌』
2002.10.1刊
四六判262ページ
本体2200円+税
現代書館

[2002.12.6.]


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