★多摩一日の行楽
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著者/枝川 公一 Koichi Edagawa タイトル/多摩一日の行楽 発行/ネット武蔵野 初版/2004.6.30. 定価/1,200(税含む) 判型 ページ数/AB判 47ページ ISBN4-944237-11-1 |
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はじめに |
4 異世界 廃線と鍾乳洞 5 温泉 西多摩の宿 6 街へ帰る 青梅線と五日市線 |
駅の売店にあるポケット判の東京の地図をときどき買い替えながら、持ち続けている。バッグのなかにいつもある。
ぼくがいま携行している地図の最初の見開きを開けると、一見、東京の全図であるかのような地図がある。しかし、これは「全図」ではないのである。東京都の西部のかなりの地域がページの左端から欠落し、消えてしまっている。つまり、青梅や八王子あたりまでしかない。実際には、その先にまだ東京は続いているのに、地図が勝手に「ここでもう終わり」と宣言しているみたいでもある。
東京都は、東西に細長く延びている。そしてふつう、東側の二十三区と西側の多摩地区との二つに分けられる。
東の端を南北に流れ下る江戸川から西にたどって、多摩川に行き着くまでが、ほぼ二十三区である。多摩川からさらに西へ向かうと、広大な多摩地区が、あたかも水の流れに逆らう魚のような姿をして、北西へ突き出している。これら二つの部分を合わせて、東京都のはずである。
しかし一般には、二十三区だけが東京であって、多摩については、隣県の千葉・神奈川・埼玉などと同じベッドタウン、あるいは郊外と思われている。だから、東京の地図から省略される東京があっても、文句を言う人はまずいないのであろう。
手元にある地図では、面積にして、多摩地区のほぼ半分程度が欠けたままである。これだけの東京が「まぼろし」になっている。
もっとも、少なくともしばらく前まで、多摩の省略ないしは脱落について、あれこれ考えたことはなかった。それは、ぼく自身の「個人的な事情」にもよると思う。
ぼくは、隅田川の東の生まれである。いわゆる下町ということになる。子どものころの遊び場は、浅草・上野どまりであった。高校生になって、神田神保町に、本を買いにでかけるようになる。しかし、その先の新宿や渋谷は、まだまだ遠い。大学生のときにやっと手が届いた。
そんなふうだから、さらに遥かに西の多摩となると、地平線のあたりにぼんやり見え隠れしている。その程度の意識しかなかった。いたって頼りない。
「多摩は遠い」という思い込みは、大人になってからも続いた。
あるとき、東京の東のはずれに近い江戸川区の一之江という、知らない街に出かけた。帰りに、同名の地下鉄駅(都営新宿線)で、時刻表を眺めていた。そして、その駅から快速電車に乗れば、京王線に乗り入れて、多摩ニュータウンを過ぎ、終点の橋本まで一時間ほどで行けることを「発見」した。
橋本駅は、すでに神奈川県の入り口である。したがって、東から西へ、約一時間で東京を横断できることになる。なんだ、近いじゃないか、と思った。それでは行ってみようということで、日を改めて快速の人となった。
都心を抜けていく地下鉄が地上へ舞い上がるのは、渋谷区笹塚からである。すぐに世田谷区に入り、やがて二十三区にさようなら。
暗い地下から明るい地上へ、それも高架へ投げ出されたショックも手伝っていたに違いないが、窓から望む空がとても広いのに感動した。ぽつぽつと浮かんでいる雲が、柔らかい陽射しの中で、いかにも所在なさそうに見える。伸びやかな春の午後であった。
その日は、多摩ニュータウンの多摩センター駅で下車した。あっちこっちと歩くうちに、多摩川の河原に出ていた。水をがんがんためて、いかにも川だぞという風に流れ下るのを、これまでも見たことがない。広い川幅のわりには水の占める部分が小さく、だだっ広い石ころの河原が続いている。
茫洋とした川といい、なにかとめどなさそうな空といい、こんな近くに、これだけ気持ちを押し広げてくれる場所があるのを知り、驚いた。
このときが、「実在としての多摩」にふれた最初だったと思う。そこは、これまでずっと暮らしてきて、いまも日々の大半を過ごしている「東京」とは異なった空間であり時間である。もうひとつの東京に遭遇したような衝撃を受けた。
明治・大正期に活躍した作家・田山花袋(一八七一〜一九三○)に、『東京の近郊』という、味わい深い紀行文集がある。大正五年(一九一六)に上梓されたものである。武蔵野と呼ばれる、広大な自然に囲まれながら、日々に膨張しつづけていた東京という都市。その周辺を訪ね歩きながら、20世紀初頭の東京外縁部の「いま」を描き出している。近年『東京近郊 一日の行楽』と題する文庫本に収録されて、これを読む機会があった。
その中に、「都会に向う心と、野に向う心」という、含蓄に富んだ表現を見つけて、思わず身を乗り出した。
これを書いたころの花袋は、代々木に住んでいた。現在の代々木はオフィスも多くあり、都心そのものだが、大正のころは、「都会と野の接触点」であったという。まだ街になったばかりで、生け垣に囲まれた家々が続き、道は長雨になると泥濘に悩まされる。
この街に暮らす人々は、日々に都会に出かけていって、会社や役所で働き、用事を携えて駆け回り、あるいはまた、繁華の巷で歓を尽くす。こうして、せわしないけれど、浮き浮きするような「都会へ向う心」が、一方にある。しかし、人々の心はそれだけではない。花袋が、愛着を込めて書いている「野へ向う心」の描写を、以下にしばらくたどることにしよう。
「一日の労働をすまして、静かに身を電車に横(よこた)えると、電車は風を切るように早く早く市の雑踏(ざっとう)を横ぎって、そして緑色(りょくしょく)の漲(みなぎ)った野の方へとやって来る。一停留場毎(ごと)に、野と空とがひろく前にひらけて見渡されて来る。踏切の棒が上ったり下りたりする。やがて林が来る。空の果てには、富士の晴色(せいしょく)が一目に見わたされる。これが冬ならば、箱根から丹沢山塊(たんざわさんかい)の連(つらな)っているさまが手に取るように見える。秋ならば、野の銀杏(いちょう)が美しく黄葉(こうよう)して、それに夕日が美しく見事にさしわたる。もずが何処(どこ)かでキキと鳴く。いつもの停車場に来るともう家に帰ったような気がする。都会から野に向う心の楽しさを私は何年経験したことであろうか」(田山花袋『東京近郊 一日の行楽』現代教養文庫 43ページ)
これを読んだとき、花袋は、ぼくと同じことを、ずっと昔にすでに感じ取っていたのだと思った。東京は、都市と自然とが激しくせめぎ合う場であることを、この作家の炯眼はとっくに見抜いていた。
花袋の紀行文集が出版された大正五年というと、東京駅が開業してまだ二年しか経っていないころである。関東大震災は、この年から七年後にやってくる。東京は、この地震で壊滅的な打撃を受け、さらに、それから二十年余り後には、戦争の災禍に見舞われて、ほとんど灰燼に帰した。
しかし東京は、戦後に急速な復興を遂げて、現在では、かつてない規模の巨大な都市になっている。ここに至ったのは、人々が「都会へ向う心」を集めて努めた結果である。同時に、都市が壮麗さを増せば増すほど、「都会へ向う心」もまた、さらに大きく活発になる道理である。
それだけに、花袋の言う「都会から野に向う心の楽しさ」には魅かれる。ぼくは、自分のなかにわだかまっていたらしい「野に向う心」に、やっ気づかされたのである。
海や山を求めて遠くへ旅に出るわけではない。また、生活の場にハーブや有機野菜を取り入れて野を呼び寄せるのでもない。日常の仕事や用事で出かけていく、その足の向かう先をふと変えて身近な野へ入っていき、そこで満足を得る。
これが、「野に向う心」のありようではないか。東京は、幸いなことに、このための広大な空間を持っている。それが多摩、それも東京の地図から消えているらしい、ずっと西の奥多摩だと思い至った。……
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[2004.6.28.]