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著者/枝川 公一 タイトル/シリコン・ヴァレー物語 発行/中公新書 定価/798円(税込み) 判型/新書版、227ページ ISBN4-12-101509-6 |
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| 1 谷間の曙光 2 約束の地・カリフォルニア 3 マイクロプロセッサへの道 4 「自家醸造」パソコン 5 アップル対IBM 6 マーケットを制する 終章 日本へのメッセージ |
| 1 谷間の曙光(冒頭部分) サンフランシスコから南へ、二本の幹線道路がほぼ平行して下っている。サンフランシスコ湾沿いを走る国道101号線と、太平洋側に低くつづく丘陵サンタ・クルズ山系に密着するようにして伸びている280号線である。ふたつのハイウェイはやがて、この地域の中心都市であり、膨張著しいサンノゼ市で合流する。 この間の沿道の細長い地域が、ほぼシリコン・ヴァレーである。サンフランシスコから約四十五マイル、クルマで一時間の距離と、おおざっぱに考えられている。 もっとも、シリコン・ヴァレーという正式な地名があるわけではない。このあたりをそう呼び慣わしているだけに過ぎない。にもかかわらず、世界中の人が、その「実在」を信じている。しかも、道路標識に、Silicon Valleyの表示を見かけることはある。ヴァーチャル・リアリティ(虚現実)とは、このことである。虚のようでもあり真実のようでもあり、その両方にまたがる、強力な存在感が、この土地にはある。 ここからここまでがシリコン・ヴァレーと、範囲が画定されているわけではない。時が経つにつれて、それは、紙に落としたインクが広がるようにじわじわと周辺に拡大してきている。 「ヴァレー」(谷間)を実感するのに、いい方法がひとつある。 サンタ・クルーズ山系を登ることである。そこへはクルマで行くことができる。そのなだらかな丘陵は、サンフランシスコの北にあるナパ一帯と並んで、良質なワインの産地として知られている。丘の上には、小規模なワイナリーがいくつもある。太平洋から襲いかかる夏の霧を、西斜面のモミの木の林が食いとめてくれるので、ブドウがゆっくりと均等に熟すのである。そこから見下ろすと、ふだんはぼんやりと靄がかかっている平地が、ハイテクの聖地、シリコン・ヴァレーということになる。 シリコンは、英語ではsiliconである。日本語では珪素とも呼ばれ、アルミニウムに似た、軽い元素で、元素記号はSi。地球上の岩石や砂のほとんどに含まれて、酸素の次に豊富な元素である。 シリコンとカタカナで書くと、女性の胸を豊かにする手術に使われていた、プヨプヨの物質のことも指すことになる。こちらのほうはシリコンの高分子化合物siliconeのことである。英語になると、綴りばかりでなく、発音もまるでちがう。siliconはシリカン、後のほうのsiliconeはシリコーンといった感じになる。だから、アメリカ人の前で、シリコン・ヴァレーと日本語風に発音すると、相手は、つい「胸の谷間」を思い出してしまうかもしれない。 シリコンからは、コンピュータの心臓部となる半導体チップがつくられる。チップは、コンピュータそのものと言ってもいいほどに重要な発明である。チップのことを、「人類が地上に出現させた最大の魔法」とまで言う人もいる。 この地域には、一九五○年代の末から、チップ・メーカーばかりでなく、これをもちいてハイテク製品をつくるエレクトロニクス企業がめだつようになって、六○年代に、シリコン・ヴァレーの呼称が、業界内だけに通じる隠語として生まれた。一九七一年になって、ドン・ホフラーというエンジニアが、業界誌の記事のなかで、この表現を使ったのがきっかけで、広く用いられるようになった。 そこは、現在では、二千とも三千とも言われるエレクトロニクス企業が集まる土地になっている。アメリカ国内ばかりでなく、世界中から、有能な人材が押し寄せる。日本の有力なハイテク企業で、ここに出先を持たないところはない。経済紙も一般紙も、支局を構えて、その鼓動に耳を傾けている。 シリコン・ヴァレーが、いかに大きな存在であるかは、これに似た通称のハイテク地域が、各地に生まれていることでもわかる。ニューヨークで、ハイテク・ヴェンチュア・ビジネスが集まる、マンハッタンのダウンタウン界隈は、シリコン・アレイ(シリコンの小径)と名乗っている。ワシントン州には、マイクロソフト社をはじめハイテク企業が集まるシリコン・フォレスト(シリコンの森)がある。さらに、シリコン・プレーリー(シリコン大草原)はテキサス州オースチン周辺のことで、シリコン・バユー(シリコン沼)だったら、南部のミシシッピ川沿岸を指している。 アメリカばかりではない。スコットランドのエジンバラからグラスゴウに至る、同じく先端技術産業の中心は、シリコン・グレン(シリコンの谷あい)である。インドのバンガロールには、シリコン・プラトー(シリコン高原)がある。シリコン・アイルは、インターネット関連のビジネスで注目されるアイルランドのことである。日本でも、シリコン・ヴァレーの日本版をつくろうじゃないかという呼びかけが各地で行われては、消えている。 もちろん、シリコン・ナントカと命名すれば、シリコン・ヴァレーのように先端産業が盛んになるわけではないけれど、これらは、人々の願望を映している。 シリコン・ヴァレーにある小さな町、クパティーノ、マウンテン・ヴュー、メンロ・パーク、サニーヴェール、パロ・アルト、サンタ・クララ、レッドウッド・ショア…それらは、かつてはサンフランシスコのオフィスに通うビジネスマンとその家族が暮らす、穏やかな郊外住宅地であった。しかしいまではアメリカ一の家賃と、アメリカ一の平均収入を誇っている。 その昔のシリコン・ヴァレーは、ヴァレー・オヴ・ハーツ・ディライト(心の喜びの谷間)と呼ばれ、見渡すかぎり果樹園が広がっていた。世界のプルーンの生産量の半分が、この地域で収穫されていた。シリコンがかなり進出してきた六○年代でもなお、ここは、プルーンをはじめ、梨、アプリコット、チェリーなどを生み出す、アメリカでも有数の農業地帯として知られた。五○年代には、年間の農産物収穫額が、六千五百万ドルにのぼっていた。春になると、白とピンクのさまざまな果物の花が、いっせいに咲き乱れたものである。満開の花を愛でるために、見物客が集まり、やがて実のなるころには、摘み手がどっと押し寄せた。 しかし、六○年代の末には、シリコン・ヴァレーに含まれるサン・マテオ、サンタ・クルーズ、サンタ・クララの三つの郡のなかで、最大の面積を占めるサンタ・クララ郡の産業基盤は、すでに農業から工業に移行していた。そして、アップル・コンピュータが、パソコン・マーケットを席巻しつつあった八○年代のはじめにはもう、かつては十万エーカーもあった果樹園の面積が、わずかに1万エーカー強にまで減っていた。 「心の喜び」は、猛烈なスピードでシリコンの小片に侵食されていった。なお、シリコン・ヴァレーのシンボルの感があるアップル・コンピュータの社名は、共同創業者のスティーヴン・ジョブズが、果樹園でリンゴの採り入れの仕事をして戻ってきた直後に事業をはじめたことに由来している。リンゴは、栄養価が高いし、形もきれい、それになかなか腐らないというのが、命名の理由であった。もっとも、巨大な企業になるなどと、創業者たち自身が考えていなかったから、それほど深く考えたうえでの名前ではなかった。 シリコン・ヴァレーのはじまりをたどると、さらに遠く十九世紀に至る。 前世紀のカリフォルニアは、ゴールド・ラッシュに沸いていた。現在の州都サクラメントの近郊で、一八四八年のはじめに、なんでも屋の大工ジェームズ・マーシャルが、製材所の水車用に掘削した水路のなかに砂金を発見した。これがきっかけとなって、翌49年には、アメリカ各地ばかりでなく、ヨーロッパからも「拾える黄金」を求める人の群れが押し寄せた。彼らは、「フォーティ・ナイナーズ」(四九年の連中)として歴史に名を残している。 黄金の夢は、五二年を絶頂期として、急速にしぼんでいった。しかし、いまでもカリフォルニアと言えば、ゴールド・ラッシュをだれもが思い出す。サンフランシスコをフランチャイズにする、プロ・フットボールの強豪チームが「フォーティ・ナイナーズ」と名乗っていることでも、束の間の栄華と興奮が、世代を越えて人々をとらえて放さないことがわかる。 もうひとつ、いまもサンフランシスコに本社のあるリーヴァイスのジーンズも、黄金の夢と深く関わっている。ドイツ生まれのリーヴァイ・シュトラウスは、大西洋を越えてはるばるやってきたカリフォルニアで、黄金は得られなかったけれど、テント布でデニムのジーンズをつくることを思いつき、金掘りり人たちに喜ばれた。なにしろ、彼のジーンズのポケットには、重たい金のかけらを入れても底が抜けないように、銅の鋲を打って補強してあったのである。 シリコン・ヴァレーの活況は、しばしばこのゴールド・ラッシュに比せられる。テクノロジーの天才が、小さな会社を起こし、数年後には億万長者になる例が、ここには掃いて捨てるほどある。十九世紀とちがうのは、黄金が、砂のなかにではなくて、目にも見えず、触れることもできない、現実には存在しないはずの、電脳空間に散らばっているらしいことである。もっとも、砂のなかにふんだんに含まれているシリコンを原料とするチップが、その見えない世界を開いてくれる。 黄金が出てきたサクラメント周辺からは、サンフランシスコ湾を越えて南に位置するシリコン・ヴァレー。一八八五年、そのころは寂しく荒涼とした田舎に過ぎなかった土地に、スタンフォード大学が開校した。当時は、だれも予想だにしなかったことだが、これが「二十世紀のゴールド・ラッシュ」への、遥かな第一歩であった。 創立者のリーランド・スタンフォードは、金掘りの鉱夫相手の食料品店主から身を起こしてアメリカ大陸横断鉄道の建設を推進した実業家グループのひとりになった。カリフォルニア州知事を務め、大学が開校した年には、共和党から合衆国上院議員に当選している。この富豪には、息子がひとりいたが、大学進学を目前にして、十六歳で腸チフスのために、この世を去った。その思い出を残そうとして、彼は、この大学を寄贈したのである。したがって、正式名称は、リーランド・スタンフォード・ジュニア(スタンフォード二世)大学となっている。 一八八○年代には、すでにゴールド・ラッシュは遠く去っていた。しかし当時はまだ、ミシシッピ川から西の西部は、テリトリー(準州)にとどまっている地域が目立つ後進地であった。スタンフォード大の創立を評して、ニューヨークの新聞は、老いた船乗りを収容する施設をスイスにつくるのと同じで、いったいなにになるのか、と笑った。カリフォルニアのような、知とは無縁の土地に大学をつくるなんてお金をドブに捨てるのと同じだと、東部の知識階級は考えたにちがいない。このように、アメリカの東部は、つねに西部の後進性を嘲笑してきた。やがてやってくる、シリコン・ヴァレーの繁栄は、その関係を逆転させることになる。 パロ・アルトの街を抜けて、スタンフォード大に至る通りには、両側に椰子の並木がつづいている。キャンパスの大学本館は、スペイン風の煉瓦づくりである。カリフォルニアの地に最初に入植した白人は、メキシコから北上してくるスペイン人宣教師たちだったことを思い出させる。 富豪スタンフォードは、牧場など八千二百エーカーにのぼる土地を大学に寄贈している。これだけあれば、キャンパス用地をたっぷりとっても、なお余る。ただし、土地の売却は認めないという条件がついていた。 さすがの田舎も、二十世紀に入ると次第に土地開発が進んだ。第二次大戦が終わって、大学当局は、この広大な土地を有効に利用して、逼迫していた運営資金を得たいと考えたが、創立者が課した条件がそれを阻んだ。そこで考え出されたのが工業団地のプランで、周辺に進出をはじめた企業に貸し出すことにしたのである。これが、スタンフォード・インダストリアル・パークであり、シリコン・ヴァレーの企業群が、ここから育っていくことになる。‥‥ |
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