★書評/『わが青春 わが読書』

 この本を読んでいて、妙なことを思い出した。大阪で手広く古書店をやっている人から聞いた話である。ビジネス街の近くに店を出した際、意識して、政治経済の本を揃えたのだという。

 「出てからあまり時間の経ってない本がよく売れましたよ。ビジネスマンは本を一冊読んだら、ひとつでもふたつでも役に立つ知識を自分のものにできればいいというのですね。だから古本屋で安く買うのがトクだと」

 ここでは、本が情報や知識のソースになりきっている。これとは対局、全く別な地点にあるのが、コリン・ウィルソンの本書ということになる。ウィルソン自身の姿勢でもあるだが。

 「彼は幻視力(ヴィジョン)を欠いており、真の天才も欠いていた」

 エミール・ゾラについて、ウィルソンはこう断じて一蹴している。ウィルソンは、書物のなかに、現実を透過するヴィジョンを求めているのであり、読者を引きずる天才の書こそ読むに値すると考えてるのである。

 彼は自らも認めているが、「愛書狂」と称していたこともあり、古今万巻の書を読んできた。この本では、少年時代からの読書遍歴を克明にたどっているのだが、良書を選び出す視点はつねに一定していて、動かない。どこかにあるかも知れず、ないかもしれない「もうひとつの現実}への道を指し示す、想像力に溢れる書物のみに魅かれつづけている。

 そこで、日本ではあまり知られないファンタジー作家、デイヴィド・リンジーを絶賛する一方で、アーネスト・ヘミングウェイが、自らのタフガイ・イメージに自縛される過程を容赦なく暴きたてる。

 これがなかなか小気味がいいのである。ぼくは高校生のときに、若いジョン・スタインベックの瑞々しい感覚の発露に心酔し、ヘミングウェイのリアリズムには嫌悪の感情を抱いていた。この本を読んでの収穫はまず、ウィルソンによって、自分の「正しさ」が証明されたという点にある。ウィルソンには申しわけないけれど。

 さらに「(モーパッサンは)火星から来た心理学者のごとき、超然とした態度で人間の悲嘆を描いているように見える。……悲嘆を、モーパッサンは客観的に分析していく」というくだりには、快哉を叫びたいくらいであった。

 高校生のぼくが夢中になっていた作家に、もうひとり永井荷風がいる。その作品を耽読しながら、心の片隅にある違和感を消すことはできなかった。こいつは他人の不幸を見下しているな、といういやな感じが付きまとっていたのである。荷風が、その小説作法で、モーパッサンを手本にしたのは、よく知られている。モーパッサンの作品は読み込んでいるわけではないけれど、その分析志向は、荷風のものでもあるのではないか。そうなると、ぼくの違和感も説明月区。

 ウィルソンを仲立ちにしながら、自分の読書のこれまでを検証する。ずいぶん贅沢な作業をしているものである。

 この本のあとがきによれば、このイギリスの作家が、日本の一編集者からの一通の手紙に呼応して、大部の原稿を送ったのが、本書が日の目を見るきっかけという。それだけではないだろうと、ぼくは想像する。作家自身が書きたかったテーマでもあったところへ、一押しされたというところではないか。愛する本について、語りたくてうずうずしつづけてきたウィルソンがいる。愛書狂は不治の病のはずだから。
2008.2.12.

書籍データ
表紙
『わが青春 わが読書』
著者=コリン・ウィルソン
監訳=柴田元幸
学研
2500円(税抜き)
1997年12月初版


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